(※本稿は一部にネタバレを含む場合があります)
■隠居屋に移ってからも、旅館の女中がお世話した
NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」第6週目は、ヘブン(トミー・バストウ)の女中が決まらない状況が描かれている。ガスも水道もない時代の家事は重労働、ゆえに一定以上の階級であれば女中は必須である。錦織友一(吉沢亮)は、松野トキ(髙石あかり)に依頼。トキは洋妾(ラシャメン)にされるのではないかと疑って断る。かたや遊女・なみ(さとうほなみ)は百姓の娘だからと、ヘブンのほうに断られる。ヘブンが希望しているのは教養を身につけている士族の娘だからである。
ドラマでは女中が決まるまで、なかなか気を揉んでいるわけだが、実際、セツはどのような経緯で、八雲と知り合い、女中になったのだろうか?
まず当時の事情を知る関係者の証言としては、八雲が最初に滞在した富田旅館を営んでいた冨田太平とツネ夫妻に取材した「冨田旅館二於ケル小泉八雲先生」(地域誌『湖都松江』Vol.37)がある。
これは、松江に来た当初の八雲の行動を知る重要な手がかりだ。その後段には、このような記述がある。
翌年の2月(注1891年)に、宍道湖畔で眺望のよい織原家の隠居屋に移られてからも、私どもの旅館から毎日三度食事を運び、お信(注:旅館の女中)が付き添い給仕をするほか、毎日風呂を沸かすのが仕事でした。しかし、年若い娘を一人お側に置くことも考えるべきで、某理髪屋の娘を雇い入れて住み込みさせることになりました。
■旅館店主の夫婦は“セツに批判的”だった
さらに、八雲とセツの出会いについては、このように記す。
西田先生(注:八雲が懇意にした教師・西田千太郎)や私共夫婦の口添えでしたが、もともとは、セツさんと多少懇意だったお信の紹介です。
つまり、冨田夫妻の証言によれば、自分たちも世話をしたというわけである。これは、本当なのだろうか?
実は冨田家に秘蔵されてきた「冨田旅館二於ケル小泉八雲先生」は原本が2種類ある。
ひとつはA5版の用紙に毛筆で縦書きされたもの。もうひとつが、ペン書きで「藤井純一郎編纂」と書かれているもの。これまでの研究では、最初はペン書きで下書きし、清書したものが毛筆のものではないかと考えられている(古浦義己「冨田旅館とラフカディオ・ハーン」『湖都松江』Vol.37)。
重要なのは、ペン書きのほうには毛筆には書かれていない記述があることだ。
注目すべきは、その部分の異様な筆致である。そこにはセツの人となりや出会いの経緯が詳細に記されている。しかも内容は奇妙なほどにセツに批判的だ。この記述からは、富田家側の複雑な感情が透けて見える。
(セツの)様子は十人並み、身長は低く太っていて丸顔で色白の人でした。衣服が粗末なせいか動きもしとやかではなく、もちろん品位などありませんでした。先生も40歳を過ぎて、まだ独身なので家柄を取り柄に進めてみたら見合いということになりました。
■“八雲が女性の容姿を品定めしている”と綴られていた
この記述からは、冨田夫妻が自分たちこそが八雲とセツの結婚を仲介した主役だったと主張したい意図を感じてしまう。「家柄を取り柄に進めてみたら」という表現は、まるで自分たちが積極的に動いて縁談をまとめたかのような書きぶりだ。
なにより、セツへの描写はあまりにも辛辣である。「十人並み」「太っていて」「しとやかではなく」「品位などありません」とは酷い。この時代の歴史資料を読むと刊行物ですら他人の悪口を書いているものを見ることはあるが、これは度を越えている。これは客観的な人物紹介というより、明らかに悪意を含んだ評価だ。なぜ、わざわざこのような否定的な筆致でセツを描く必要があったのか。
さらに証言は、その見合いの様子へと続く。
先生は容姿も風采も気に入りませんでした。
■辛評が一転し、「飛び切りのよい縁組」と評価
この証言を額面通りに受け取れば、読者はどう思うだろうか。八雲は女性の容姿を品定めし、体つきが気に入らないと難癖をつけ、金を渡して追い返そうとした。まるで鬼畜の振る舞いである。「日本の心」を理解した文豪として称賛される八雲の姿とは、あまりにもかけ離れている。
だが、本当にそうだったのか?
さらに読み進めてみよう。この証言では、その後セツは世間体が悪いと貰われた金で、使いに頭巾を買わせてきて、それを被って帰ったとある。ところが数日経って事態は大きく変わる。
数日後に再びセツさんが来られた時には先生も士族の家柄だということがわかったと見えて、機嫌もよくなりお信に命じてご馳走を用意させました。
そして、この結婚に至った顛末に対する感想を証言しているのだが、前述のセツへの著しく低い評価とは一転して歯の浮くような言葉で褒めている。
枯れ木に花が咲いたようなものです。現在でさえ外国人の妻妾となることは、三府五港(注:東京・京都・大阪・函館・新潟・横浜・神戸・長崎)では珍しくないでしょうが、松江などの田舎においては、そんな例は極めて珍しいものでした。明治23年当時においては飛び切りのよい縁組だったと申さねばいけません。
■清書の際に“残してはいけない”と判断された可能性
さっきまでセツに対してこき下ろすような評価をしていたのに、最後は「飛び切りのよい縁組」だったと、自分たちの手柄のように語っている。
もしも、目の前でこんな話を始められたら「この人はなにをいってるんだ?」と誰もが思うだろう。晩年の証言ゆえに記憶が混乱していたのか。あるいは、自分たちの手柄を盛ろうしたらおかしな話になってしまったのか。おそらく記録した藤井も、これは残してはいけないと清書した際には採用しなかったのだと思われる。
では、この話はどこまで信用できるのか?
これとは別に冨田ツネに取材した資料として桑原羊次郎『松江に於ける八雲の私生活』(当初小冊子で配布された後に山陰新報社 1953年)がある。「冨田旅館二於ケル小泉八雲先生」の記録日は1936年。桑原はその後1940年にツネを訪問し話を聞いている。
ここでは、セツに対する辛評はないが「先生にどこか士族のお嬢様を紹介したいというお話が西田先生よりあり」、結果、セツを紹介することになったと語り、士族の娘ではないと怒ったこと、そして、結婚式の際に八雲は紋付き袴を着たが、高下駄で一歩も歩けず不機嫌に靴を履いたというエピソードまで語っている。
■八雲の長男「大分話が違う」
いずれにしても、この証言を採用すると八雲がかなり酷い男になってしまう。
八雲の長男・一雄もこの証言が桑原の本を通じて出回ったことには怒っていたようで『父小泉八雲』(小山書店 1950年)ではこう記している。
あんな手足の太い形の悪い女を連れて来た。あれは家柄のよい士族のお嬢さんではない。小百姓の娘だろう。と最初セツを見た時、ハーンが怒ったと、当時宿泊していた宿の女将が云ったとか。それを取り上げて騒いでいる人々もあるが、私の知る限りでは大分話が違う。
そして、父は宿で妾を世話しろだの現地妻を取り持てだのという性格ではないし、そういう性格なら母とは結婚していないと続ける。さらには、父が母の手をとり母の手が太いのは機織りをしていたからだと褒めていたことも語る。この部分、かなりのページ数を用いて語っているあたり、息子の立場から冨田旅館の証言が真実として広まるのは我慢できなかったのだろう。
■八雲は“冨田旅館の寄越す女中”にイラついていた
ならば実際のところはどうだったのだろうか。
長谷川洋二『小泉八雲の妻』(松江今井書店 1988年)では、その後の新史料の発見による研究の進展を丁寧にまとめている。この研究成果によれば、八雲は富田旅館の寄越す女中に辟易としていたことが明らかになっている。
その中で重要なのは、八雲が1891年1月24日に西田に送った書簡だ。この書簡は、松江時代の書簡を集めた市川三喜『小泉八雲新書簡集』(研究社 1925年)に所収されているもの。ここでは八雲は明日から新しい女中が来てくれるとして、次のように記している。
この女中はどの旅館の雇いでもないので、この女ならうまくやっていけるだろうと思っています。
こうして、やってきた女中こそがセツだったというわけである。
そして、八雲は「心の落ち着きのためには冨田旅館との関係を一切断つ必要がある」「冨田旅館の紹介する女中に、もう1カ月間、朝の三時前に寝付けないほど煩わされている」とまで記している。それくらいに冨田旅館の寄越す女中にイラついていたのである。
双方の話はまったく逆である。これはどういうことか?
おそらくは双方ともウソはついていないのだ。じゃあ、なにが食い違っていたといえば「女中が欲しい」という八雲のリクエストに対する認識だ。
■冨田夫妻は「先生が妾をほしがっている」と解釈した
八雲が求めていたのは、あくまで家事を手伝ってくれる使用人としての女中だった。英語で言えばhousekeeperやservantである。ところが、周囲の日本人たち……というより冨田夫妻はこれを「先生が妾をほしがっている」と解釈したのである。これは冨田夫妻がおかしいのではない。当時の日本人の感覚では常識である。
例えば、静岡県下田市の偉人に唐人お吉という人がいる。幕末に初代駐日アメリカ合衆国総領事タウンゼント・ハリスに雇用されたことで名前を残している人だ。この人はもともとは芸妓だったのだが、ハリスが日本側に「看護婦が欲しい」と要求したとき、日本の側が「看護婦とはなんだからわからんが、きっと妾が必要なのだろう」と芸妓だったお吉を紹介したというものだ。
前述したように冨田夫妻は「年若い娘を一人お側に置くことも考えるべきで、某理髪屋の娘を雇い入れて住み込みさせることになりました」とも語っている。これこそ、妾のよい口があると雇い入れて、八雲の新居に住まわせたわけであろう。
食事や掃除をやってくれる女中を求めているのに、愛人志願の女性が住み込みでやってきたら、八雲でなくても「ラッキー」などとは思わず困惑するはずだ。まして八雲は、当時の下層民をよく取材しており、使用人と雇用主の関係には深い関心を持っていた。
■八雲の“怒り”が垣間見える
だからこそ、八雲は西田への書簡で「旅館の紹介する女中」に「もう1カ月間、朝の三時前に寝付けないほど煩わされている」と苦痛を訴えていたのだ。旅館側が「良かれ」と思って送り込んでくる女性たちが、八雲の求める「女中」ではなかったからである。
こう考えると、冨田夫妻のペン書きの部分の証言も合点がいく。太っているとか品位がないとまで、けなすのは自分たちが零落して食事にも事欠いているような、家柄だけの士族の娘によい妾の口を紹介してやるという態度だったわけである。
八雲の口から出た「士族ナイ、私ダマシマス」も、気むずかしい自分に対応できる、ある程度教養もある女性を求めているので士族の娘を、と言っているのに、また身体を差し出すような農民の娘を連れてきたのかという怒りだったのだろう。
八雲の冨田夫妻に対する怒りは相当のものだったようで、セツの手記『思ひ出の記』では、結婚後、たまたま隣家に引っ越して来た人が冨田旅館の主人と友達だったと聞いた八雲が、怒ったことが記されている。
その人はまた何心なく「はい、友達です」と答えますと、ヘルンは「あの珍しい不人情者の友達、私は好みません、さようなら、さようなら」と申しまして奥に入ってしまいます。その人は何のことやら少しも分からず、困っていましたので、私が間に入って何とか言訳いたしましたが、その時は随分困りました。
■その後、冨田旅館には一度も泊まっていない
ここからは、冨田夫妻に対する八雲の怒りが相当のものだったことが見て取れる。ところが後年、冨田夫妻は八雲の滞在をかなり美化して語っているのだ。
そもそも、どんなテーマでも後年になっておこなわれる関係者の証言というのは注意が必要なものだ。大抵の人は話を盛る。脳内で記憶が熟成される過程で話が美化され「自分が主人公」の物語へと改変されていくのだ。様々な過去のプロジェクトやヒット商品の話を取材すると「俺が中心で動いた」「俺が売った」みたいな話はざらにある。これも同様だ。
その点で、額面通りに受けとってそのまま書いている桑原の『松江に於ける八雲の私生活』は悪い見本のようなものだ。
いずれにしても、八雲の冨田旅館への怒りは生涯収まらなかった。熊本や東京へと移った後も、八雲は幾度か松江を訪れているが、冨田旅館には一度も泊まっていない。
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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)

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