ラブドールと結婚したり、複数のラブドールに囲まれて生活している人たちがいる。彼らはなぜラブドールに魅力を感じ、どのような生活を送っているのだろうか。
無機的な恋人たち』(講談社)でラブドールやキャラクターを愛する人々を描いた、ノンフィクションライターの濱野ちひろさんに聞いた――。(第1回)
■なぜ「人間以外のもの」との性行為に関心を持つのか
――前作の『聖なるズー』では犬や馬などの動物をパートナーとする動物性愛者が描かれています。今回は等身大人形やフィクションのキャラクターなどの「無機的なもの」と人間との性的関係がテーマになっています。なぜこうした題材を本にしようと思ったのでしょうか。
私は2016年から現在に至るまで、人間と人間ではないものたちの恋愛事情を調査しているのですが、極端な事例を通して、普遍性にたどり着きたい、というのが動機のひとつです。
動物や人形との性的行為というのは非常に極端な事例ですが、そういった事例から人間同士の愛や、結婚という営み、といった普遍的なテーマへの理解が深まると考えています。命がないものと対峙したとき、人間がどういう思考や向き合い方をするのか、そして私自身がどう感じるのかに強い関心がありました。
無機的なものへの愛着や性愛関係は、動物性愛に比べたらメジャーなものだと考えています。幼いころに人形と触れ合った経験がある人も少なくないでしょうし、アニメのキャラクターに恋をしていると公言する人も少なくありません。
私自身も子供の頃に、手塚治虫が描いたブラック・ジャックに恋をしていたことがあります。無機的なものに対する性愛の感覚は極端なものではあるものの、そこまで遠い存在ではないといえるのではないでしょうか。
そうした無機的なものとの交流や性愛関係、あるいは結婚といった人と人とでしか成り立たないとされてきた関係性を通じて、セックスとはなにか、そして愛とはなにかということを問いたいと考えたのです。

■「人形の夫たち」はどんな人たちなのか
――本書ではアメリカの事例として、ラブドールと一緒に生活する男性たちが紹介されています。彼らにはどのような特徴があるのでしょうか?
「ドール・ユーザー」たちの人形との関係は非常に多様ですが、いくつかの特徴があります。
まず大きな特徴として、彼らは人形との関係において、人形への愛を持たない「フェティシスト」と、人形を人間扱いしてさまざまな背景を設定する「ドールの夫」という2つのタイプがあります。フェティシストたちは人形の質感やパーツに強い関心を持っており、外見的な美しさに強いこだわりがあります。
一方で、ドールの夫たちは、パートナーである人形の内面的なパーソナリティを深く作り込もうとします。彼らは人形と対等な関係を持つことを望んでおり、「ドール・オーナー」と呼ばれることを強く嫌っています。人間を所有することができないのと同じように、「人形を所有する」という発想自体がおぞましいと思っているようです。
フェティシストたちは人形の見た目にこだわりがあるため、丁寧にメンテナンスを行いその美しさを保てるように努力しています。たとえば、アメリカ人でウェストバージニア州東部在住のジョゼフという初老の男性は非常に高い修復技術を持っており、11体の人形と生活しています。彼は「ドールのドクター」とも呼ばれていますが、人形と性行為をする際にも人形に女性用の避妊具をつけ、それを「正しいセックス」と呼んで周囲のドール・ユーザーにも推奨していました。
ですが、それほど人形を丁寧に扱っているジョゼフでも、「ただの人形」と言い切るほど人形のことをまったく人間扱いしていません。彼らは人形に内面を求めていないのです。
これがフェティシストの特徴です。
■なぜラブドールを求めるのか
――彼らはどのようなきっかけでドール・ユーザーになるのでしょうか。
ドール・ユーザーになるきっかけは多様ですが、大きく分けて三つのパターンがあると感じています。まず、ストレートに人形も含めて無機的な存在への強い愛着を持つ人々がいます。デトロイト郊外に住む50代で黒人のデイブキャットは「ロボセクシュアル」を自認していますが、彼らにとって人形は誰かの代わりではなく、人工物であることがパートナーシップの絶対条件です。
もう一つは、人間関係の喪失経験を経て、人形に興味を持つケースです。
デトロイト郊外に暮らすマイクは妻の病気でセックスができなくなった際に、妻の勧めもあって人形を迎え入れることになりました。彼は、妻の死後も喪失感と向き合いながらドールと暮らしています。
三つ目のきっかけとしては、ワシントンD.Cの周辺に暮らすロジャーのように、若い頃の人間関係に辟易し、「女なんてみんな同じ」と女性全般に苦手意識を持ち、人形を選ぶというケースもあります。ロジャーのケースは、異性愛者である点と女性蔑視的な感覚が強いところが、ほかのきっかけとは異なる特徴を持っています。
■「誰よりも信用できる唯一無二のパートナーなんだ」
――「人間関係の喪失経験」と人形との結婚にはどのような関係があるのでしょうか。
さまざまな理由があると思いますが、人間と違って人形は裏切らない、という要素は大きく影響しているかもしれません。

ジョージア州に住むジムは、妻の不倫が理由で離婚しました。「信頼するという感覚」を失い、その後、人間の女性を信用することが困難になったため人形であるアンナと“結婚”しました。ジムは自分のことを「異性愛者」だと語っていたのでロボセクシュアルの人達とは違う理由で人形との結婚を選んだようです。
ジムは、アンナについて「アンナは嘘をつかないし、秘密を持たない。誰よりも信用できる唯一無二のパートナーなんだ」と語っていました。
ドールの夫たちのなかには、人形の「裏切らない、嘘をつかない、急にいなくならない」という特性に、人間関係で失った安心感を求めている人もいるのだと思います。
■人形に「ストーリー」を与える夫たち
――「ドールの夫」たちは、パートナーである人形に独自のストーリーや人格を与えようとするのですね。なぜでしょうか。
おそらく、人形に人格を作り出す創意工夫こそが、彼らにとっての愛の形なのだと考えられます。
特に、ドールと25年間連れ添っているデイブキャットや、2018年にバーチャルシンガーの初音ミクと結婚式を挙げた近藤顕彦さんは、パートナーである人形に人格を感じているように見えました。彼らは、自分の想像力を使って毎日少しずつ情報を上書きしていくことで、人形のなかに奥行きのある人格を築き上げているのです。
具体的には、パートナーである人形の、年齢、両親の国籍、親戚関係、出身地、使用言語、好きな本、映画、音楽、ファッションの趣味、あだ名まで決めている夫もいます。
デイブキャットは等身大人形のパートナーであるシドレのプロフィールをいまでも更新し続けています。
この行為は、彼らが「二層の現実」を生きていることを意味すると私は考えています。一つは目の前に存在する“物理的な人形”との現実。もう一つは、彼らが創造し、日々の積み重ねで歴史と奥行きを与えた「パートナーとしての人形」との現実です。
彼らは、この二層の現実を重ね合わせ、目の前の人形を「ただの人形」以上の存在として認識し、そして愛しているのです。
■「社会から逃げているから人形にハマる」は本当か
――ドール・ユーザーに対して「社会から逃げているのではないか」という批判も少なくありません。取材していくなかで「社会から逃げている」と感じたことはありましたか。
結論として、彼らは「社会から逃げている」という言葉が全く似合わないほど明るく、元気で、日々の生活に満足している人ばかりでした。前作『聖なるズー』の取材対象者が非常に繊細で内向的な人が多かったのとは対照的で、取材をしながら衝撃を受けました。
なぜ、彼らがこれほどまでに明るいのか。それは、「誰も傷つけていない」という揺るぎない認識を共有しているからではないでしょうか。たとえば、動物性愛者であれば動物虐待の疑いをかけられ、国や地域によっては犯罪として処罰される可能性があります。
ですが、ドール・ユーザーたちは法的な責任を問われることもなく、誰かを傷つけることもありません。
彼らは、人形との関係を「幸せな生活を能動的に選んだ」結果だと語ります。ただ、そうは言っても、そう語る彼らの生活が惨めなものであれば、そうした言葉を素直に受け取ることはできません。ですが、彼らの多くがいつも明るく振る舞っていて、自信に満ちた雰囲気で取材に応じてくれました。
彼らの振る舞いは世間から見たら、非常に奇妙なものに映るはずです。ですが、誰を傷つけることもなく人形との関係を深め、愛情を育み、傷ついた経験を糧にして生きていく姿は、ひとつの生き方として尊重されるべきものではないでしょうか。
■愛情が人形を「ただのモノ」から「パートナー」にする
――「人形との愛」といっても、人形側が人間を愛しているわけではなく、あくまでも一方的な愛情のように感じます。人間側の自己愛と言えるのではないでしょうか。
私自身、この愛の形が自己愛なのか、他者に向けた愛なのかについて、深く迷いました。デイブキャットも正直に「自分でも自己愛じゃないとは言い切れない」と戸惑っていることを明かしてくれました。
以前、デイブキャットが「ドールは自分をよく知るための真っ白いキャンバスなんだよ」と表現してくれたことがありました。彼らにとっての人形が、自分の想像や欲望によって塗り重ねられていくキャンバスだとしたら、それはたしかに自己愛の要素が強いかもしれません。

ですが、彼らの話を聞いていると、そうしたことの積み重ねによって人形は少しずつ「ただのモノ」から「パートナーとして人形」に変わっていくようなのです。長い時間をかけてパートナーとしての人形に歴史や奥行きを持たせていくことで、人形の存在感は少しずつ大きくなっていくのではないでしょうか。
たとえば、子供のときに大切にしてきたお人形さんが、時間と共にボロボロになっても簡単に手放せないように、それがたとえ「ただのモノ」であっても、大切に接してきた時間がある種の愛を生み出すことは珍しくないことです。
パートナーとしての人形に、ストーリーや人格を与えることはただの自己愛ではなく、自己愛を通じて他者への愛に触れることがあるのではないか、と本書の取材を通じて考えるようになったのです。

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濱野 ちひろ(はまの・ちひろ)

ノンフィクションライター

1977年、広島県生まれ。2000年、早稲田大学第一文学部卒。2024年、京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程単位取得退学。著書『聖なるズー』(集英社)で2019年に開高健ノンフィクション賞受賞。新刊に『無機的な恋人たち』(講談社)がある。

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(ノンフィクションライター 濱野 ちひろ)
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