※本稿は、宮家邦彦『中東 大地殻変動の結末 イスラエルとイランをめぐる、米欧中露の本音と思惑』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
■日本の中東政策は全般的見直しを求められている
筆者の外務省での経歴の中には中東関係のポストが少なくない。二つのオイルショックの狭間に外務省に入省し、エジプトと米国での3年のアラビア語研修を経て、中近東第一課総務班長、在米国大使館政務班中東担当書記官、中近東第二課長、中近東第一課長、中東アフリカ局参事官を経験し、在イラク日本大使館には二度も赴任している。また、北米局安全保障課時代には、一年近く、湾岸戦争の際の「日本の中東貢献策」に従事したこともある。
筆者が外務省時代に、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、中東和平プロセス、イラク戦争、日本人人質事件など、中東地域で起きた多くの重大事件に関与できたことは、とても有難く、かつ幸運だったと思う。正直、あんな辛い経験は二度としたくないが、逆に、あの経験がなければ「今の自分がない」ことも否定できない。筆者は今も、日本の中東政策に関与してきた元同僚、特に辛苦を共にした外務省の中東語学研修者には深い敬意を抱いている。
それでも時々、日本の中東政策の一部には疑問を感じる時がある。それだけではない。これまで累次のアラブ・イスラエル戦争とオイルショックの時代を経て、長年積み重ねられてきた対中東政策は今や全般的見直しを求められているとすら思うのだ。話は外務省に止まらない。実業界、シンクタンク、学界を含め、改善すべき対象は中東の地域研究、エネルギー確保の資源外交から、中東専門家の養成方法、人事配置、政策実施組織・機構のあり方にも及ぶ。
■7つの「限界・懸念・疑問」
特に、筆者がこれまでの中東「地域研究」や対中東政策について、限界、懸念、疑問を感じているのは次の7点である。
①なぜ日本は70年代のアラブ産油国の「石油戦略」に過剰反応してしまったのか
②なぜ日本はイスラエルとの関係を不必要に15年間も凍結してしまったのか
③なぜ日本は中東湾岸までのシーレーン防衛への安全保障面での貢献を躊躇してきたのか
④なぜ日本は世界最先端のIT技術やサイバー戦で実戦経験を有するイスラエルとの協力を深めないのか
⑤なぜ日本は中東での現状変更勢力であるイランと「伝統的友好関係」にあると公言するのか
⑥なぜ日本の中東専門家の中から日本外交戦略全体を仕切る人材が多く生まれないのか
⑦なぜ日本の中東専門家の一部には今も「欧米とは違う」中東政策を追求する傾向があるのか
以下、それぞれについて筆者の見立てを書こう。日本に関わる中東の地政学的環境に「大地殻変動」が起きているという筆者の仮説が正しければ、今こそ、日本は官民を挙げて、中東地域に対する取り組みを見直すべき時だと筆者は思う。昔とは異なり、せっかく多くの若い有為の人材が中東に興味を持ってくれる時代が来たのだから、絶好のチャンスではないかと思うのだが……。
■中東の市場なら日常茶飯事の「吹っ掛け」に屈した
①なぜ日本は70年代のアラブ産油国の「石油戦略」に過剰反応してしまったのか
オイルショックがあった1970年代当時、アラブ側は日本だけでなく、欧州諸国にも強烈な政治的圧力を掛けていた。英仏をはじめとする多くの西欧諸国はこの圧力に屈して従来の対イスラエル政策を見直している。その意味では、1973年の日本の官房長官談話にもそれなりの理由はあったと思う。だが、既に述べた通り、この対イスラエル政策変更は、不必要とまでは言わないが、結果的に、過剰反応であったと考える。
今から振り返ってみれば、日本は「一神教の世界」に対しあまりに無知だった。当時は日本全体が、中東のスーク(市場)であれば日常茶飯事である「吹っ掛け」「ぼったくり」に、いとも簡単に屈してしまったのだから……。「百戦錬磨の強かな欧州諸国」に比べれば、あまりに「馬鹿正直な日本」だった。情けなくもあり、悔しくもある。
■現地社会は「性悪説」で成り立っている
②なぜ日本はイスラエルとの関係を不必要に15年間も凍結してしまったのか
オイルショック当時、欧州諸国は水面下でイスラエルとの経済・技術的な交流を続けていた。これに対し、日本ではイスラエルが「悪者」ということになり、関係は事実上凍結された。日本の民間企業が「非友好的」な国家を差別する「アラブ・ボイコット」を極度に恐れたことも原因の一つだろう。しかし、アラブは「欧米植民地主義の犠牲者」であり「アラブ民族主義には大義がある」という1970年代当時の学界の潮流も大きく影響したに違いない。
振り返ってみれば、当時の日本の中東「地域研究」はかなり偏っていた。日本の中東における「国益」の最大化よりも、現地の歴史、言語、文化を詳しく知り、現地の人々に、今の言葉で言えば、「寄り添う」ことの方を重視していた。中東に実際に住めば、現地社会がいかに「性悪説」で成り立っているか分かるはずだ。70年代当時の「地域研究」には、「性善説」に基づく日本側の「勝手な思い込み」があったのかもしれない。
■「空想的平和主義」の負の遺産
③なぜ日本は中東湾岸までのシーレーン防衛への安全保障面での貢献を躊躇してきたのか
これは「地域研究」の限界というより、戦後日本の「空想的平和主義」の負の遺産である。これまで湾岸地域で危機が生ずるたびに米国は日本に対し、シーレーンの航行の自由を守るための安全保障上の貢献を求めてきた。その最初の例が1987年である。
だが、当時の後藤田官房長官はペルシャ湾への海上自衛隊掃海艇派遣に強く反対し、結局中曽根首相は派遣を断念した。同官房長官は「交戦海域への自衛艦派遣が戦闘行為と見なされ、自衛権の行使とはならない可能性」を懸念していたといわれる。その後、湾岸戦争後の1991年に「掃海艇」部隊が、2004年にはイラクに陸自部隊がそれぞれ派遣された。だが、当時の後藤田長官の発想は今も永田町と霞が関に残っているようだ。
■抑止力を高めるため、日本は多くのことを学ぶべき
④なぜ日本は世界最先端のIT技術やサイバー戦で実戦経験を有するイスラエルとの協力を深めないのか
誤解を恐れずに言えば、世界広しと言えども、イスラエル軍ほど実戦経験豊富な軍隊は他にない。1948年の建軍以来、ほぼ数年おきに、大戦争から小規模戦闘、更には様々な特殊作戦まで、あらゆる軍事作戦に従事してきたからだ。これに対し、日本の自衛隊は、過去70年間、一度も戦闘していない。いや、それどころか、つい最近まで、自衛隊には実戦に不可欠の「統合作戦司令部」すら設置されていなかったのである。
文字通り「百戦錬磨」のイスラエル軍から、日本は多くのことを学べるはずだ。筆者が中東での経験から学んだことは、戦争は決して「教科書通り」には進まない、ということ。戦争は知識・技術以上に経験、特に、現場での実戦経験が大きくモノをいう。
■「伝統的友好国」は日本側の思い込みではないか
⑤なぜ日本は中東での現状変更勢力であるイランと「伝統的友好関係」にあると公言するのか
これも筆者には不思議でならない。イランが日本の敵性国家だとまでは言わない。でも、「伝統的友好国」と呼ぶのは日本側の「思い込み」に過ぎないのではないのか。確かに、以前のイランは日本と友好的関係にあった。パーレビ国王の時代から、日本はイラン国民に入国ビザを免除していた。30年ほど前、テヘランのスークを初めて訪れた際、若いカーペット商人から流暢(りゅうちょう)な日本語で「昔六本木に住んでいたよ」と話しかけられた覚えがある。
しかし、1979年のイスラム革命後、イランは大きく変わった。発端は、1988年9月、インド系イギリス人作家が小説『悪魔の詩』を出版したことだ。イランのホメイニ最高指導者は「預言者を冒涜(ぼうとく)した」として同作家に死刑を宣告するファトワ(法解釈)を発出する。1991年には同書の日本語版翻訳者だった筑波大助教授とイタリア語版翻訳者が、更に93年にはノルウェー語版とトルコ語版の出版者・翻訳者が、それぞれ襲撃・殺害されている。
イラン政府が関与した証拠はないが、これらの事件についてはホメイニ最高指導者のファトワが過激派の暴力行為を誘発した可能性も指摘されている。
■英国大使館のアラビストは事務次官になった
⑥なぜ日本の中東専門家の中から日本外交戦略全体を仕切る人材が多く生まれないのか
筆者がエジプトでアラビア語を研修していた頃、英国大使館のアラビスト(アラビア語専門)の二等書記官と親しくなった。その後、イラクの日本大使館で勤務を始め、英国大使館のカウンターパートのアラビストとも仲良くなった。驚くなかれ、彼らは二人とも後に英国外務省の事務次官になった。聞けば、当時の歴代次官はほとんどがアラビストだったそうだ。最近は欧州地域の専門家が次官になるケースもあるそうだが……。
フランスも、英国と似ている。北アフリカ等に植民地があったためか、中東やアフリカの専門家が次官に就任することも少なくないという。また、真偽はともかく、ロシアでも、歴代外務次官には旧ソ連諸国や中東の専門家が多いと聞いた。他方、ドイツ外務省の歴代次官は、欧州統合や東欧・ロシアの専門家が中心だそうだ。
■あえて「欧米と異なる」立場をとる必要があるのか
⑦なぜ日本の中東専門家の一部には今も「欧米とは違う」中東政策を追求する傾向があるのか
これも筆者には不思議でならない。「これは伝統だ」と言われたことがあるが、筆者の知る限り、外務省にそんな伝統はないはずだ。「それが日本の国益だ」と言われたこともあるが、敢えて「欧米と異なる」立場をとることが日本の国益だとは到底思えない。惰性で前例を踏襲しているなら、直ちに見直すべきだ。変えた方が良いと思っているが、なかなか変えられないのなら、変える理屈を考えれば良い。50年前の「アラブ民族主義」時代の記憶は、前例ではなく、過去の歴史に過ぎないからである。
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宮家 邦彦(みやけ・くにひこ)
キヤノングローバル戦略研究所理事・特別顧問
1953年神奈川県生まれ。78年東京大学法学部卒業後、外務省に入省。外務大臣秘書官、在米国大使館一等書記官、中近東第一課長、日米安全保障条約課長、在中国大使館公使、在イラク大使館公使、中東アフリカ局参事官などを歴任。2006年10月~07年9月、総理公邸連絡調整官。09年4月より現職。立命館大学客員教授、中東調査会顧問、外交政策研究所代表、内閣官房参与(外交)。
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(キヤノングローバル戦略研究所理事・特別顧問 宮家 邦彦)

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