リニア中央新幹線の開業はなぜ遅れてしまったのか。ジャーナリストの小林一哉さんは「元凶とされている川勝前知事はそもそもリニア反対派ではなく、静岡県とJR東海の『ボタンの掛け違い』からこじれてしまった。
これから始まる地域住民説明会は、それを解消する絶好のチャンスだ」という――。
■大井川流域の住民向けに開かれるリニア説明会
JR東海は11月21日から来年1月31日にかけて、静岡県島田市を皮切りに、大井川流域の8市2町でリニア中央新幹線のトンネル工事に関する住民説明会を開催する。
大井川の水を守るための取り組みについて、JR東海の担当者がパネルや映像で紹介しながら、住民らの個々の疑問に答える形式で開かれる。ことし3、4月に開催した初の説明会に続いて2度目となる。
説明会は、県とJRの間に残された「対話を要する事項」28項目のうち、水資源に関連する6項目すべてが6月までに了解されたことに伴うものだ。かたちの上では大井川の水資源問題がすべて解決してから初めて開催されることになる。
■JR東海に残された「根本的な課題」
静岡県は川勝平太前知事の時代から、工事中、工事後に流出する湧水の「全量戻し」を求めてきた。
これに対して、JR東海は毎秒2トンの県外流出については導水路を設置、ポンプアップすることで「全量戻し」を表明した。
県境付近の工事中の県外流出についても、川勝知事は水一滴の県外流出も許可しないと強い姿勢で臨んでいた。
県境付近の工事では、山梨県側から始まる掘削が静岡県側の先進坑とつながる約10カ月間に最大500万トンの湧水が山梨県側へ流出するとJR東海は試算しており、JRはこの対応策を示すよう県から求められていた。
2022年になって、JR東海は東京電力リニューアブルパワーの協力を得て、山梨県側への流出量と同量を大井川の東電・田代ダムで取水抑制を行ってもらい、大井川の流量を確保すると表明した。
県専門部会は、田代ダムで取水抑制できない状態が続いた場合の対応、渇水期を避けた施工の対応などを求め、ようやく田代ダム取水抑制案についてJR東海の説明を了承したのだ。

これで、静岡県が求めていた「全量戻し」すべてが解決したことになり、南アルプストンネル静岡工区着工への道筋がはっきりと見えた。
しかし、根本的な問題が解決されないまま残っている。
それは、地域住民への誠意ある説明だ。
■「静岡の反対がリニア開業遅れの原因」は本当か
JR東海は「静岡工区工事の着手ができていない」ことを理由に、品川―名古屋間の2027年開業を断念、開業は「2027年以降」と発表していた。
10月29日、リニア中央新幹線の品川―名古屋間の総工費が当初の5.5兆円の2倍となる11兆円に膨れ上がる見通しを発表した際、工事費4兆円の負担増に対する新たな借り入れ約2.4兆円の数字を算出するために、「2035年」という開業時期を示した。
しかし、この「2035年」は単なる仮置きだと強調した。
実際には、未着工の南アルプストンネル静岡工区の工事は10年以上かかるとしているから、開業は「2035年以降」になることは間違いない。それで仮置きとしたのだろうが、そこに至る事実関係をちゃんと説明していない。
と言うのは、今回の工事費4兆円増の報道で新聞、テレビ等は「静岡県の反対がJR東海に2027年開業を断念させた」との主張を繰り返した。
筆者は反リニアに徹するようになった川勝前知事の「妨害行為」を批判してきたが、そもそもの火種をつくったJR東海にも責任があると言わざるを得ない。
■川勝前知事は「リニア反対派」ではなかった
静岡工区の着手ができていないのだから、リニア開業が遅れているのは事実だが、そもそも当初から川勝前知事が静岡工区の着工に反対したわけではない。それなのに、「静岡県の反対がリニア開業を遅らせた」ことが事実のように伝えられることで、流域の住民らの強い反発につながるのは間違いない。

もともとJR東海と大井川流域の住民の間には信頼関係は全くなかった。それがようやく、JR東海が住民の理解を深める場を持ち、不安の解消に努めようとする姿勢に転じた。
静岡工区の着手が遅れている本当の理由について、JR東海は住民らに丁寧に説明すべきである。
流域住民の理解と同意が得られなければ、静岡県は静岡工区の着手を許可しない方針である。今回の地元説明会で、住民らの根本的な疑問にどのように答えるのか、JR東海が誠実に対応しなければ、それこそ静岡工区の着手に再び、暗雲が立ち込める恐れは消えていない。
■JRと静岡県の「ボタンの掛け違い」
静岡工区の着工が遅れたのは、JR東海と静岡県とのボタンの掛け違いからである。それをはっきりとさせなければならない。
川勝前知事の「突然、土足で踏み込んできて、『トンネル掘るぞ』と来た感じ」という言葉が当時の状況を象徴している。
JR東海は「国家プロジェクト」に位置づけされるリニア計画を静岡県にそのまま認めてもらえるものと思い込んでいた。
だから、2017年11月に建設企業体と静岡工区の工事契約を結び、2026年11月末に工事完了というぎりぎりの予定を組んだ。もし静岡県が何らかの注文をつければ、2027年開業に間に合わなくなるのは目に見えていた。
当時は「9年間」の工期で完了すると考えていた。
しかし、難工事となった南アルプストンネル山梨工区、長野工区では大幅な遅れとなり、現在では静岡工区の工事も両工区と同様に着手から「15年程度」掛かると見られている。
つまり、たとえ2017年11月に静岡工区の着工ができていたとしても、「2027年開業」などムリだったわけだ。「2027年開業」が断念された理由の一つは、JR東海があまりにも甘い見通しで計画を立てたことにあった。
■水資源の影響を受ける大井川流域では説明会がなかった
その上、大井川の水環境問題がこじれてたのは、JR東海が流域の理解を求める対応をきちんと取らなかったからである。川勝前知事の「リニア妨害」はその結果論でしかない。
リニア計画が本格化した2014年、JR東海は静岡工区の入り口にある静岡市井川地区で第1回の事業説明会を開催した。それからさらに2回、井川地区で説明会を開き、井川地区と静岡市内を結ぶ「140億円トンネル」の地域振興策を示して、静岡市の行政手続きを円滑にするという合意書を結び、工事用道路となる市道東俣林道の優先的な使用許可などを得た。
静岡市では複数回の説明会を開催した一方で、JR東海は大井川の流域市町では一度も説明会を開催しなかった。また2017年夏の段階でも、当時の川勝知事との話し合いの場さえなかったのである。
■川勝前知事の「堪忍袋の緒が切れた」JR東海の姿勢
南アルプスのトンネル工事で、大井川の湧水が毎秒2トン減少し静岡県の水環境に大きな影響が出ることがわかっていた。
それに対して、JR東海は毎秒1.3トンを導水路トンネルの設置で回復し、残りの0.7トンは必要に応じてポンプアップで導水路トンネルに戻す方策を示し、大井川の中下流域への影響はないとする立場を強調した。
この方策しか示さなかったことで、川勝前知事は2017年10月10日の会見で、「あたかも水は一部戻してやるから、ともかく工事をさせろという態度に、私の堪忍袋の緒が切れました」とJR東海への不満を爆発させてしまった。

川勝前知事はJR東海の対応に「明確な抗議」を行い、「湧水全量戻し」を前提に、「(問題解決には)誠意を示すことが大事」と厳しく述べた。
ところが、知事の「誠意を示すこと」発言にJR東海は何らの対応を示すこともなく、大井川流域の住民への理解を求める説明会を開催することもなかった。
川勝前知事はリニア工事の着工に反対したわけではなく、JR東海に「全量戻し」を求めていたに過ぎない。それなのにJR東海は全く反応しなかったのだ。
■金子前社長がうっかり漏らしてしまった「本音」
流域市町の不信感が募る中、翌年2018年10月末になって、金子慎社長(当時)が毎秒2トンの全量戻しを表明、「話が進まないので、利水者の理解を得たいと方向転換した。問題を解決しようした中で出てきた方策」と説明した。
問題解決の中で「全量戻し」を選択したと金子社長は述べたが、単に「全量戻し」を表明しただけに過ぎなかった。
その後、県専門部会でどのように「全量戻し」を行うのか、具体的な方策等が話し合われるが、JR東海は「全量戻すことで流域の不安は解消されたのでは。なぜ、知事がごねているのかわからない」などと不満をあらわにした。
JR東海は大井川流域の住民の理解を求める姿勢が欠如していた。
決定的だったのは、金子前社長が第1回の国の有識者会議で、静岡県を批判してしまったことである。
金子前社長は「南アルプスの環境が重要だからといって、あまりにも高い要求を課して、それが達成できなければ中央新幹線の着工を認めないのは法律の趣旨に反する。
静岡県の対応を含めて(国は)適切に対処してもらいたい」などと述べた。
この発言が紛糾を巻き起こし、結局、金子前社長は発言を撤回することになるが、JR東海の「本音」がどこにあるのかはっきりとしてしまい、それまで以上に流域市町の強い反発と不信を呼んだのである。
■駅もできて地域振興もある県と、ない静岡
金子前社長の言った「法律」とは全国新幹線鉄道整備法(全幹法)である。
全幹法の趣旨とは、「国民経済の発展、国民生活領域の拡大、地域の振興に資すること」である。
金子前社長はじめJR東海は、リニア中央新幹線が全幹法による国家プロジェクトであるという認識の下で、地域との交渉に当たっていた。だから、リニア沿線は建設に協力すべきという姿勢が強かったのだ。
またJR東海は、神奈川、山梨、長野、岐阜の中間駅について、当初は地元負担での建設を想定していたが、その費用3300億円をすべて自社で負担することを表明した。
全幹法の目的の1つが、「地域振興に資すること」であり、各県ともリニア新駅が「地域振興」につながるとして、民間のJR東海を全面的に支援している。
最も難しいとされる用地交渉はJR東海ではなく、各県の自治体職員が担当している。用地交渉がまとまらない場合、強制的に取得、使用する手続きを定めた土地収用法を使うことができる。
リニア沿線地域では地域振興のために住民らの犠牲と負担を強いるケースが続いている。
■住民説明会は住民にもJR東海にとっても絶好のチャンス
一方、静岡県はリニア沿線と言っても、南アルプス約10.7キロをトンネルで貫通するだけであり、「地域振興に資すること」は全くない。
逆に南アルプスの自然環境や大井川の河川環境への悪影響だけははっきりとしている。
だから、川勝知事は「デメリットはあっても、メリットはない」として、JR東海に「誠意を示せ」と求めた。
それに対して、JR東海は川勝前知事の「誠意を示せ」に何ら対応をしなかった。
幸か不幸か、大井川流域では今のところ何らの地域振興策の提供もないのだから、流域住民は今回の説明会で、忌憚(きたん)なくさまざまな疑問を投げ掛けることができる。
そこで「JR東海が2027年開業を断念したのは、静岡県が反対したからではない」ことだけははっきりとさせておいたほうがいい。

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小林 一哉(こばやし・かずや)

ジャーナリスト

ウェブ静岡経済新聞、雑誌静岡人編集長。リニアなど主に静岡県の問題を追っている。著書に『食考 浜名湖の恵み』『静岡県で大往生しよう』『ふじの国の修行僧』(いずれも静岡新聞社)、『世界でいちばん良い医者で出会う「患者学」』(河出書房新社)、『家康、真骨頂 狸おやじのすすめ』(平凡社)、『知事失格 リニアを遅らせた川勝平太「命の水」の嘘』(飛鳥新社)などがある。

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(ジャーナリスト 小林 一哉)
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