■ドラマのヒロインは美人じゃないほうがいい
「あなたは美人じゃないところがいい。私のドラマにどうしても出てほしいの!」
時は1970年。TBS社屋内の女性用トイレ付近で超売れっ子歌手を何度も待ち伏せし、自分がプロデュースするドラマに出演してほしいと必死に懇願したのは、99歳の現役最年長テレビプロデューサーであり舞台演出家である石井ふく子さん(当時44歳)。一方口説かれたのは、「チータ」の愛称で絶大な人気を誇っていた歌手の水前寺清子さんだ(当時25歳)。
水前寺さんは『三百六十五歩のマーチ』で100万枚を超えるレコードセールスを達成し、1969年に日本レコード大賞大衆賞を受賞。飛ぶ鳥を落とす勢いの人気歌手だった。本業だけでスケジュールはめいっぱい、女優業をこなす時間などなかった。
しかし、石井さんは自分のドラマの主演はチータ以外考えられないくらい、水前寺さんの容姿や個性に惹かれていた。
断られても、断られても、彼女にアタックし続けた。しかも、あろうことか、水前寺さんに対しては“美人じゃないところがいい”などと、普通ではあり得ない口説き方をする始末……。
ご存じのように、石井さんが手がけるのは日本のどこにでもいるような家族を描く“ホームドラマ”であり、親しみやすい容姿の女優がキャスティングされることが多い。
さらにこの時、相手役の俳優には石坂浩二さんを、これまた口説き落とした。
「相手役の男性はハンサムが良かったのよね(笑)」
ちなみに、「石坂浩二」という芸名は、この時に石井さんが付けたのだそうだ。
チータに話を戻そう。
石井さんの「あなたと一緒にドラマをつくりたい!」という熱意が通じて(半ば相手が根負けしたか)、水前寺さんは、石井さんがプロデュースするドラマに出演することとなった。それが1970年から1975年までTBS系で放送された『ありがとう』で、チータ演じる警官志望の若い女性が下町人情の中で成長していく物語。民放ドラマ史上最高の視聴率56.3%を記録した“お化けドラマ”だ。単純に計算して当時の日本人の2人に1人が見ていることになり、日本のホームドラマの金字塔ともいえる。
『ありがとう』の前には、『肝っ玉かあさん』(TBS系、京塚昌子主演)を大ヒットさせている。のちに、橋田壽賀子さんという不世出の脚本家とタッグを組み『渡る世間は鬼ばかり』という長寿ドラマを制作して、石井さんは日本のもっとも有名なドラマプロデューサーの一人となったのだ。
現在もそうだが“ドラマのTBS”と呼ばれたほど、同局は秀逸な作品を生み出している。その要因の一つには、プロデューサーの石井さんが大いに貢献したといっても過言ではない。
しかし、「そもそも自分の意思でプロデューサーになったわけではないし、気がついていたらこうなっていたんですよね」と石井さんは淡々と語る。ここにたどり着くまでの彼女の生涯も、“ドラマ”のように劇的だ。出生自体も“普通”ではないのだから。
■帝王切開で産み落とされた時から人に恵まれる人生に
石井さんは生い立ちが少し複雑だ。
東京下町の売れっ子芸者だった母は、恋人(石井さんの実父)の親族に結婚を反対され、石井さんを未婚のままで出産。母はどうしても9月1日に石井さんを産みたいと願っていたため、帝王切開での分娩を選択した。なぜなら、その日に生まれた子は幸福に育つと母は信じていたからだ。
芸者の母は、この先もシングルマザーとして十分に彼女に手をかけて育てられないかもしれないと案じていた。だから、人に恵まれると伝わる、年に6回巡ってくる「天一天上(てんいちてんじょう)」にあたる、9月1日を選んだ。
「天一天上は、陰陽道で癸巳(みずのとみ)から、戊申(つちのえさる)までの16日間を指し、その期間は人がどの方向に向かって行っても、物事を進めても支障がない。そして、幸福な出来事に出合えるのだそうです。母はそれを信じて、予定日よりも1カ月も早い9月1日に私を産むと決めたのです。
帝王切開での計画出産は、今も昔も病気などやむを得ない場合の方法であり、自然分娩で問題ないのにあえて行うなど常識はずれ。しかも当時はとても難しい手術で、母子ともに命の危険に晒される可能性もあった。しかし母の切実な願いは、結果的に実を結ぶ。
■戦後の焼け野原で送った灰色の青春
母は仕事が忙しかったので石井さんの世話をすることができなかった。その代わり祖父母が石井さんの面倒を見てくれたが、彼らも母が所属する芸者の置屋を経営していたので、世話は手薄に。自ずと石井さんは一人遊びが得意な子どもになる。そして3歳から習い事で始めた日本舞踊に傾倒していき、今でも「体の状態が良ければ、一番やりたいのは日本舞踊です」と語る。
そして経済的に自立していた母の姿を見ていたため「自分も仕事をしたい。ならば踊りで身を立てたい」と熱望するが、小学生の頃に肺結核にかかり踊りのプロになるのを断念した。
女学校に入学すると、太平洋戦争が激化して山形へ疎開。そこでは代用教員や役場の職員となって働き、そして終戦を迎えた。石井さんはちょうど20歳。
が、石井さんに女優の道が開かれようとしていた。
■俳優・長谷川一夫の勧めで女優に
母は新派俳優の伊志井寛と結婚し、彼が石井さんの義理の父となったのだが、伊志井氏と時代劇スターの長谷川一夫が親しい付き合いをしていたことが女優へのきっかけとなった。山形から引き上げて東京に戻った後、住む家がなかったので石井さんは長谷川家に身を寄せたのだ。
「早く仕事をしたいと思っていたけれど、戦後のドタバタでそうそう簡単に見つかりません。そんな時に長谷川先生が『新東宝のニューフェイスを受けてみたら』とおっしゃったのです。合格すれば経済的に自立できるので、私はその勧めに従いました」
映画会社の新人発掘オーディションを受けると、見事合格。女優への道を歩き始めた。何本もの映画に出演し、長谷川一夫はもちろん、原節子という稀代の女優との交流もあったが、映画界に居心地の悪さを感じていた。「生活のために入った世界で、私から進んで入りたいと思ったわけではないし、本当は地味な裏方仕事が好きなんです。そのうちまた結核になってしまったので新東宝をやめてしまいました」
■女優からOL、そしてラジオからテレビへ
次に就いた職業が会社のOL。新聞広告で見つけた建売住宅会社に入社して、営業部を経て宣伝部に配属されることに。
「新聞やポスターに載せる会社の宣伝広告のためのコピーを書いていましたが、そのうち、スポンサーとして東京放送(TBS)のラジオドラマ番組の担当になったんです。宣伝担当として毎回制作現場に行くのですがこれがとてもおもしろかった! 制作スタッフから『次は何をやりますか?』と言われると、読書好きだったので『この小説を原作にしたドラマはどう?』と提案したり、義父に紹介してもらった役者さんを紹介する、いわゆるキャスティングに関わったり。このプロセスが楽しくて、ドラマづくりにハマっていきました」と石井さんは当時を振り返る。この時の経験がプロデューサーという天職へとつながっていく。
やっと情熱を傾けられる仕事に巡り会え、転機が訪れた。1955年、ラジオ放送だけだった東京放送にテレビ部門が開設。
「一緒にラジオドラマをつくっていたスタッフが『僕、テレビに左遷になってしまったんだ。あなたもテレビをやりませんか』と声をかけてきたのです。当時はラジオが全盛で、テレビへの異動は左遷扱いになるくらいですし(苦笑)、私は会社員なので断ったのです。結局、TBSと会社が話し合い、3年ほど掛け持ちで仕事をすることになりました。そのうち二足の草鞋(わらじ)に限界がきて会社をやめ、正式にTBSに入社したのです」
入社して手がけたドラマ枠が「東芝日曜劇場」(現 日曜劇場)であり、NHKを含め現存するドラマ枠でもっとも長い期間放送している。その草創期に携わることになった石井さんは、当時32歳だった。
■これ!と思った相手に猪突猛進
テレビ局に入ったとはいえ、最初はなんでもやった。キュー(スタートの合図)出しのフロアディレクターもやったし、下働きを受け持つADも経験した。
「当時は今と違って、職制がきっちり決まっていなかったんですね。番組制作に関わる人数も少なかったので、その時空いている人がプロデューサーやディレクターをやったり、ADをやったり。あの当時はストライキが多くて、ストになると組合員は仕事ができない。私は組合員じゃないので『ストの間はディレクターをやって! 人手がないから』と懇願されて始めたんです。不思議なご縁ですよね」
それから流れのままにプロデューサーになり、石井さんは猛烈に働いた。冒頭のように、出演をシブる歌手がいれば、トイレで待ち伏せして接近戦を試みたり、大作家の原作使用を取り付けるために、TBSがある都内から作家が住む地方の自宅まで日参したりした。
「原作者の先生には直接お会いして許諾をいただいていましたが、山本周五郎先生にはなかなか連絡が取れなかったのです。電話をしてもお出にならないので、横浜の仕事場まで行きましたが何度も門前払いされました。4回目にしてやっと部屋に上げてもらったんですが、開口一番『酒と水しかないが、どっちがいいか』と聞かれて『水がいいです』と答えると『じゃあ、自分で水を汲んで飲め』と言われました。だから自分で水道の水を飲んだら美味しくて、喉がカラカラになっていることに気づきました(笑)。これが先生との初めての出会い。そこでお会いできなければ、何度でも通うつもりでした」
「しつこい」「くどい」と追い払われようが、絶対に諦めなかった。わずか2、3回で断られて引き下がるようでは、却って相手に失礼だという思いがある。「あなたに出演してほしい」とか「この作品に惚れた」と言っているくせに、数回断られたぐらいで諦めるなんてありえない。そういう姿勢を貫きながら、石井さんは何十年以上も仕事をしてきた。
■「不倫もミステリーも戦争もやらない」で一致した二人
母が人の縁に恵まれるようにと、お腹を切ってまで産んでくれた願いどおり、石井さんは運命の出会いを何度も繰り返した。なかでも盟友ともいえる脚本家・橋田壽賀子さんと出会ったのは今から60年ほど前の1960年代。橋田さんは石井さんより一歳上だ。
「ある日TBSで仕事をしていた私のほうにどんどん近づいてくる人がいて、誰だろうと思っていたら、それが橋田さんだったの。フリーの脚本家としてあちこち脚本を持ち込んでは断られていた彼女が『一緒に作品をつくりませんか?』と言ってきたんです。ともに夫婦や、家族の心と心の通い合いを描きたいという思いが一致しました。でも、彼女から誘ってきたのに、私への第一印象は『気難しそうでイヤな感じ。仕事はこの1回きりでいいわ』と思っていたそう(苦笑)。それなのに、60年以上も一緒に仕事を続けたなんてね」と笑う。
そして『袋を渡せば』というドラマを2人でつくった。夫が、妻に渡す給料袋からピンハネしようと画策するというストーリー。橋田さんは元々映画会社の松竹の脚本部にいたので、脚本の構成は素晴らしいのだが、セリフが映画のように芝居掛かっていた。それを石井さんは「今時、こんな会話、誰もしないわよ。もっとリアルなセリフに書き直して」と少々キツイ調子で言ったところ、橋田さんはテレビドラマ向けにきっちり修正してきたそうだ。
「橋田さんとは仕事で何度も喧嘩しましたよ。こんな長いセリフはおかしいとか、言い方が変だとか。でもあの人は、怒ると伸びる、打たれ強いところが長所なんです。多分、私のダメ出しに内心腹を立てたと思いますが、私を納得させようと奮起するんでしょうね。いつも見事に書き直してきました。そんなふうに私たちは言いたいことを言い合う関係だった。だから長く続いたのでしょうね」
仕事だけでなく、橋田さんの伴侶を紹介したのも石井さんだ。TBSの編成局に勤めていた岩崎嘉一さんに橋田さんが恋をし、石井さんが間を取り持って二人は結婚。
しかし好きな人と結ばれたはいいものの、嫁姑関係が壮絶だった。その経験をベースに生まれたのが『渡る世間は鬼ばかり』(以下、渡鬼)だ。もちろんプロデューサーは石井さん。姑の強烈な嫁いびりに耐える泉ピン子さん(やはり美人じゃないところがいいとキャスティングしたとか)が演ずる次女を中心とした、5人姉妹の群像劇は、1990年にスタートし、連続21年、その後のスペシャルを加えれば30年以上という、大人気長寿ドラマに成長した。そこで描かれたのも、時に喧嘩しながらもお互いを思い合う家族の形だ。
■時代が変わっても大切なのは人情と絆
二人がつくり上げた「渡鬼」は、頻繁に繰り返される家族の揉め事、人間関係などの悩みなど、ドラマの構成パターンが似たり寄ったりで、話がマンネリだという批判も少なくなかった。家族の話では、劇的な展開を起こすにも無理もあるだろう。
それでも、橋田さんも石井さんも家族にこだわった。それはなぜなのか……。
「私も彼女も一人っ子。身内が亡くなってしまえば天涯孤独です。橋田さんは早くに夫に先立たれてお子さんもいません。私は本当の父を知らないし、母も仕事で私の世話ができなかった。だから温かい普通の家族を描きたかったんです」
石井さんは実は1度結婚しているが、夫の父母とうまくいかなかったこともあり、わずか2年で破局。それ以来ずっと独身をとおしている。「男性は面倒臭いですよ(苦笑)」とにべもない。理想の家庭を持つチャンスはあったのに、できなかった。だが幸せな家庭を持たなかった(持てなかった)からこそ、家族への憧憬が強く、秀逸なドラマに昇華できたのだろう。
また、視聴率がとれるからといっても、ミステリーや不倫ものは一切やらなかった。さらには戦争も。石井さんも橋田さんも戦争で悲惨な経験をしたので、ドラマでリアルな戦いは描けない。マンネリと言われようと、どれだけ時代が変わろうとも、大切なのは人のやさしさ、人情、絆である――その共通の思いが2人の関係性をより強くした。
■盟友との永遠の別れは、いまだに寂しくて涙がこぼれる
出会いがあれば必ず別れがくる。
2021年に橋田さんが他界。毎日電話をし、橋田さんが暮らす熱海まで脚本を受け取りに何百回も通った。放送文化の振興のために橋田さんが創設した橋田文化財団では、優秀な新人脚本家に与えられる橋田賞の選考委員も長年務めている。文字どおり親友でもあり戦友だった。「今でも思い出して寂しくなります。ああいう脚本家はもう出てこないでしょう」と目に涙を滲ませる。
99歳ともなれば、同年代の友人のほとんどを見送ってきた。そんななかでも「新しいドラマの構想の依頼を受けていて次の企画を考えています。また、新しい脚本が上がってくれば、その直しをしたりしています。来年の5月は東京の新橋演舞場で舞台の演出を控えています」と意気軒昂だ。
義父の勧めで舞台演出を1968年から続けており、今年の夏に大阪・新歌舞伎座で開催された「石井ふく子白寿記念公演『かたき同士』」は満員御礼で幕を閉じた。そのために猛暑の中、大阪と東京を何度も行き来したほど。今、右足は不自由だが、それ以外に体に悪いところはない。昔は「怖い」と言われるほど厳しい演出を行ったこともあったが、現在はあまりうるさくは言わないようにしているとか。
『かたき同士』は橋田さんが脚本を書いており、テーマはもちろん「家族」。
橋田さんはすでにこの世にいないが、彼女が描いた物語はいまだ生きており、石井さんは命ある限り、それを具現化し続けていくのだろう。“終活”という言葉は石井さんには不要のようだ。
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石井 ふく子(いしい・ふくこ)
TBSテレビプロデューサー/舞台演出家
1926年東京都生まれ。映画会社・新東宝の女優から一般企業勤務を経てラジオ東京(東京放送)に入社。その後、開局したばかりのTBSでテレビドラマのプロデューサーとして、橋田壽賀子や平岩弓枝らとタッグを組み、多くのヒットドラマを世に送り続けた。連続21年放映された大人気ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』は、AI橋田壽賀子の脚本により、石井ふく子プロデュースで、2025年12月20、21日の2夜連続で「令和版」をBS-TBSで放送予定。
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(TBSテレビプロデューサー/舞台演出家 石井 ふく子 取材・文=東野りか)

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