2022年の時点で、米国全土で正規就職している日本人心臓外科医は40人いる。巧みな手技で患者の命を救いゴッドハンドと尊敬される人も多い。
医師の筒井冨美さんは「横並びで年功序列であることが多い給与を含めた日本の医師の待遇を根本的に変えないと、心臓外科医のなり手はますます減ると同時に、今後も海外流出は増える。残るのは高齢医師とかヤブ医者だけになる恐れもある」という――。
■米国で大谷翔平級の活躍をする日本人医師が大量に誕生
11月上旬、ワールドシリーズで2連覇を果たしたLAドジャースの山本由伸は同シリーズのMVPに選出され、大谷翔平はナショナル・リーグのMVP(4回目)を獲得した。まさかの逆転勝ちをしたあの第7戦を手に汗握りながら見つつ、筆者が思い出したのは、野球とは全然関係のない日本人心臓外科医たちだった。
渡米して現地社会をあっと言わせ、MVP級の活躍。それを日本人医師がずっと先に実践したことはあまり知られていない。
■日本人MLB進出のような心臓外科医米国進出の歴史
昭和時代、医師の米国留学は研究と見学が中心で、MLB同様に日本人が米国で心臓外科医として活躍するなど不可能と考えられていた。
風向きが変わったのは1990年代に入ってからだ。野茂英雄がドジャースで活躍した時代と期を同じくして、ブログなどで単身アメリカ就職した心臓外科医のエピソードを聞くようになった。
2000年代にはネットの発達もあり、米国医師国家試験・労働ビザ取得・就職活動などの情報収集が容易になった。先に米国就職した日本人外科医が後輩の就職を支援するような流れもあり、心臓外科医の米国臨床(米国医師免許を持って病院で働く)留学は次第に増えていった。
新庄剛志がMLBニューヨーク・メッツなどを経て日本ハムの監督に就任したように、米国臨床留学を経て日本で要職に就く外科医も増えていった。

例えば、2009年にはアルバートアインシュタイン医科大学で研鑽を積んだ東京慈恵会医科大学の大木隆生教授(慈恵医大出身)は、そのチャレンジがNHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」で放送され、若手医師の憧れとなった。
2012年に上皇陛下の心臓バイパス手術を順天堂大学の天野篤教授(当時)と協働した東大の小野稔教授(東大)は、オハイオ州立大学への留学経験がある。先輩たちのサクセスストーリーは、次世代の留学を後押しした。
ドジャースのみならずカブスやパドレスと日本人選手が複数所属するMLBチームが増えていったように、日本人心臓外科医が複数活躍する米国有名医大も増えていった。
ワールドシリーズMVPの山本由伸は、それまで大谷翔平がチーム内で培った日本人への好印象がシナジー効果をもたらしたと推測できる。複数の日本人が所属することによる精神的安定やパフォーマンス向上は、心臓外科医も同様である。
■心臓外科医にとって「コロンビア大学=ドジャース」
こうやって振りかえってみると、日本人心臓外科医にとってドジャース的な存在が、コロンビア大学の心臓外科部門であるということができる。
コロンビア大学は世界中から優秀な外国人を集めた大学であり、心臓外科部門は2000年代からコンスタントに数人の日本人外科医が所属している。
同大学初の日本人心臓外科医となったのは中好文先生(大阪大出身)。その後、ワイル・コーネル大学教授となった。現在は、同大学で成人手術部門長を務める高山博夫先生(東大出身)、心臓移植部門の武田浩二先生(大阪大出身)などが活躍中である。
また、順天堂大学教授の田端実先生(東大出身)、兵庫医科大学教授の坂口太一先生(大阪大出身)は、コロンビア大学の留学経験者である。
2020年までに16人の日本人が同大学に留学し、その70%は米国で活躍中である。
日本胸部外科学科会の2022年調査では、40人の心臓外科医が米国全土で正規就職していることが報告されており、コロンビア大学の他にもハーバード大学ベスイスラエル病院、シカゴ大学など、日本人心臓外科医が複数所属する病院はいくつか知られている。シカゴ大学の北原大翔先生(慶應大出身)は「本物の外科医」というYouTubeチャンネルでも人気である。
■心臓外科医が米国を目指すワケ
米国で野球選手がMLBで成功するのが難しいように、心臓外科医が現地で就職することは簡単ではない。高度な英語力、米国医師国家試験、研究活動で論文実績、有力外科医の推薦、空席ポストとの巡り合い、家族との調整……心臓外科医のハードワークをこなしながら、いくつもの高いハードルを超えなければならない。彼らを突き動かしたものは何だったのか。
1:収入
前述したシカゴ大学の北原先生によると、「米国心臓外科医の平均年収は約5000万円で日本の心臓外科医(1500万円)の約3.3倍」だが、日米の物価差を考えればMLBのような目もくらむ高給とは言えない。
東京・麻生美容クリニックグループ統括院長(2025年10月に約60億円の申告漏れを指摘されて約10億円の追加徴税)は自著『バーキン買うなら豊胸しろ』など豊胸手術で知られているが、有能な胸部外科医ならば美容外科転職して豊胸手術に励めば日本国内でも年収5000万円~億円単位は到達可能のはずだ。ゆえに、単純に高収入やコスパを求めて海外就職した心臓外科医は存在しないだろう。
2:努力と才能への評価
日本の病院の大部分は今なお「年功序列と全科同一」方式で給与や待遇が決まっている半面、米国では診療科によって3倍もの給与差が珍しくない。日本の若手医師の中では、多忙な外科医は不人気、ラクな眼科や皮膚科は大人気という傾向があるが、米国では極端な偏在はないようだ。研究論文や手術件数はボーナスで報われる。
医師給料が高くサービス残業が厳禁のため、雑用を任せる秘書やアシスタント職が充実しており、医師は医師にしかできない仕事に専念できる。やる気のある優秀な中堅医師にはうれしい環境である。
3:解雇という新陳代謝
米国では解雇が簡単なので、ダメ医師は短期間で解雇される。日本のように年功序列のみで管理職になったダメ医師に悩まされることも少ない。ポストの入れ替えも早いので、全米を見渡せば空席が見つけやすい。簡単に解雇できるからこそ外国人でも気軽に雇えるので、その結果として外国人にもチャンスを掴みやすい。女性の就職も門前払いされにくい。
4:「そこに山があるから」
イギリスの登山家、ジョージ・マロリーは「なぜエベレストに登るのか」と問われて「そこに山があるからだ」と返答した。そもそも日本で心臓外科医を選ぶという事は、高給は保障されないが長時間労働と訴訟リスクだけはお墨付きの困難な道である。
難関医大を卒業して有名病院でキャリアを積んで日本国内でも相応の将来が保証されていたのに、あえて海外に飛び出してさらに高く困難な山を目指す。心臓外科医としてのサガということなのだろう。
こうした職人のような姿勢は、2025年10月、高市早苗首相の「私自身もワークライフバランスという言葉を捨てます。
働いて働いて働いて働いて働いてまいります」というスピーチのような熱い生き方でもあるように受け取れる(異論があることは承知している)。
■日本の心臓外科を再興させる方法
野球選手はMLB転職しても日本人を楽しませてくれるが、外科医が渡米したら日本人を治療することはできない。
昭和時代は「花形部門」「カッコいい」と若手医師を集めていた外科医局は、「長時間労働」「厳しい上下関係」「コスパ悪い」と希望者が激減した。わずかに残った若手心臓外科医は希少価値があるが、実は医療界では大切に扱われているとは言えない。
「当直ついでに点滴入れといて」「診断書も書いてね」と大量の雑用を押し付けられ、クタクタになり志が折れてしまい、病院をやめるケースが後を絶たない。行き先のひとつが、先人が築いてくれた海外で医師をする道である。心臓外科医の海外流出がこのまま加速すれば、地方では県レベルで「心臓外科医空白地域」が出現しかねないとの指摘も出ている。
11月10日の衆院予算委員会で、高市首相は大学病院勤務医の給与について「本当に厳しい状況だ」「適切な給与体系の構築を含めた大学病院機能の強化に向けた取り組みを進めたい」と改革への意欲をみせた。
平等が重視される日本の大学では「医学部も文学部も同年なら基本給は同額」であることが多く、大学病院勤務で「当直一回1万円」のようなコンビニバイト以下の時給で緊急手術を執刀する外科医も多い。当然、今どきの若手医師には人気がなく、就職希望者は減少傾向にある。せめて市中病院を含めた勤務医平均レベルの給与を保障しないと大学病院は維持できない、という要請に応える形となった。
高市首相が本気で大学病院改革に着手するならば、「単なる給料アップ」ではなく「努力と才能への評価」「解雇という新陳代謝」にも取り組んでほしい、というのが外科医多数派の意見だろう。

医師全員の給料を2倍にするよりも「基本給はそのまま、当直・呼出・徹夜手術のようなツラい仕事には手当金で報いる」ようにすれば、「頑張っている医師を評価」することができる。
給与待遇に格差をつける制度にすれば、「育児時短医師などと相応の給料差」も自動的につく、医師間の軋轢も減る。「心臓外科と皮膚科」のバランスを正すことができる。
また終身雇用ではなく「5年契約」のような有期雇用を主体とすることで、ダメ医師を自然に排除して、やる気のある若手医師のチャンスを増やすことができる。最先端医療を担う大学病院としては、年功序列や終身雇用よりもふさわしい人事制度となるだろう。心臓外科医など熱い志を抱く若手医師を大学病院に集めて再興する手段としてご一考いただきたい。

----------

筒井 冨美(つつい・ふみ)

フリーランス麻酔科医、医学博士

地方の非医師家庭に生まれ、国立大学を卒業。米国留学、医大講師を経て、2007年より「特定の職場を持たないフリーランス医師」に転身。本業の傍ら、12年から「ドクターX~外科医・大門未知子~」など医療ドラマの制作協力や執筆活動も行う。近著に「フリーランス女医が教える「名医」と「迷医」の見分け方」(宝島社)、「フリーランス女医は見た 医者の稼ぎ方」(光文社新書)

----------

(フリーランス麻酔科医、医学博士 筒井 冨美)
編集部おすすめ