「南海トラフ地震は30年以内に80%の確率で起こる」と警鐘を鳴らし続けていた政府が、新たな発生確率を公表した。算出方法を見直した結果、「20~50%」「60~90%程度以上」になったという。
一体どういうことなのか。この問題を最前線で取材してきた東京新聞の小沢慧一記者に聞いた――。
■最大29万人の死者が想定される巨大地震
2024年夏、宮崎県沖日向灘を震源とする震度6弱の地震が発生し、「南海トラフ地震臨時情報」が初めて発表された。これを契機に、一気に南海トラフ地震への警戒が高まった。
南海トラフで注意すべきは、被害範囲の広さと深刻さだ。政府の被害想定(2025年3月公表)によると、最大級の地震・津波が起きた場合、最悪のケースで死者29万8000人、災害関連死は5万2000人、全壊焼失棟数は235万棟に上るとされている。
そんななか、政府の地震調査委員会は9月26日、30年以内に南海トラフ地震が発生する確率を「80%」から「20~50%」「60~90%程度以上」に見直した
2013年以来、12年ぶりの見直しで大きく変わったのは、「単純平均モデル」と呼ばれる別の算出方法による確率「20~50%」を併記したことだ。これは、全国のほかの地域の発生確率を算出するときにも使われている、「全国統一」といえる算出方法だ。
■「全国統一」と「固有」、2つの算出方法
この確率を見て、地震のリスクが高まったのか下がったのかよくわからないというのが、一般的な反応ではないだろうか。
地震調査委員会はこうした一般市民の声を見越して、地震発生確率の危険度を示す3段階のランク分けを一緒に表示し、南海トラフ地震はもっとも高い「IIIランク」に分類した。「いずれも危険であることに変わりはない」としている。

「この確率はもはや政治的な意図が含まれすぎてしまい、科学とは言い難い。『わかりにくい』という反応は当然で、確率を信じなくなる人も出てくるでしょう」
こう話すのは、南海トラフ地震の発生確率に隠された特殊事情を明らかにした『南海トラフ地震の真実』(東京新聞、2023年刊行)の著者で東京新聞記者の小沢慧一さんだ。
「今回の見直しで、政府はこれまで南海トラフの発生確率にだけに使っていた『時間予測モデル』に問題があったことを認めたことになります。その結果、2つの確率を併記したのですが、この両論併記案は実は12年前の時点で議論されていました」
南海トラフ地震の発生確率は2001年に発表され、2013年に改訂された。この改訂を検討する会合で、すでに「時間予測モデル」に対して懐疑的な意見が専門家から出ていたという。
■「発生確率80%」を生み出した特別な計算式
「地震調査委員会は、予算削減と防災意識の低下を避けるため、意図的に低い数値を伏せて、高い確率のみ“科学的評価”として発表していました。しかし今回は、2つの確率について『現在の科学的知見からは優劣をつけることはできない』と包み隠さずに説明している。委員会の考えが前進したことの表れだと言えます。ただ、依然として時間予測モデルを踏襲して確率を算出しているので、問題の本質は変わっていません」
低い数値が意図的に伏せられていたとは、驚きを隠せない。そのうえ、発生確率の算出方法にも問題があるとはどういうことなのか?
過去記事でも解説したが、改めて説明しよう。

【前編】「30年以内に70~80%で南海トラフ地震が発生」はウソだった…地震学者たちが「科学的事実」をねじ曲げた理由

【後編】熊本、北海道、そして能登半島…「地震ハザードマップ」がまったくアテにならない科学的な理由
「時間予測モデル」とは、東京大学の島崎邦彦名誉教授らが1980年に提唱したモデルで、過去に南海トラフで起きた地震による地盤隆起量を基に、次の地震のサイクルまでに要する時間を割り出す計算式になる。このモデルによると、次の地震は2034年ごろに発生すると予測されていた。


しかし、過去の地震といっても宝永地震(1707年)と安政地震(1854年)、昭和南海地震(1945年)の3回のみ。しかも、静岡県から九州沖約700キロメートルにも及ぶ南海トラフの中で、高知県・室津港1カ所の隆起量のデータしか残っていない。
■科学的根拠より政治的意図が優先された
「南海トラフだけ、『時間予測モデル』という特別な計算式が使われてきたのは、科学的根拠よりも、高い数値にこだわる政治的意図が働いたからです。結果として発生確率が歪められてしまいました」と、小沢記者は言う。
小沢記者がこの問題を知ったのは2018年。南海トラフ地震の確率について取材した名古屋大学の鷺谷威教授(地殻変動学)から聞いた話だった。
「南海トラフは他の地域と同じ算出方法にすれば、20%程度にまで落ちる。同じ方法にすべきだという声が地震学者の中では多いが、防災対策専門家らは数値を下げるのはけしからんと主張している」
■低確率では「防災対策のはしごが外される」
全国統一の「単純平均モデル」は、過去に起きた地震の発生間隔の平均から確率を割り出す。これを適用すると、確率は2013年評価では「20%」だったのだ。しかし、地震調査委員会は時間予測モデルに基づき、「60~70%」と高い数字だけを“選択”した(その後、時間の経過によって確率が上昇し、2025年1月には80%に更新)。
小沢記者が調べた議事録によると、地震調査委員会の下部組織・海溝型分科会は2013年の評価時、時間予測モデルは科学的客観性が乏しいため、単純平均モデルを使用した確率を推奨していた。
ところが、行政側の政策委員会が「低い数値によって、発生が切迫していることを根拠に進めていた防災対策のはしごが外される」などと非難したことで、低い数値を取り下げざるを得なかった。
代わりに、2つの確率を併記する両論併記案を提案したが、これも却下された。
「高い確率によって膨大な地震関連の研究予算が国から下りていることが、地震学者らに対して、そのまま時間予測モデルの数値を維持する方向に強く働いていると考えられます」(小沢記者)
それでは、なぜ今回の見直しで方針を変えたのだろうか。
■マスコミ、専門家、政治家の「合わせ技」
小沢記者は「見直しのきっかけとなった要因は3つある」と分析する。
まずは、小沢記者の自著『南海トラフ地震の真実』が菊池寛賞、新潮ドキュメント賞などを受賞し、南海トラフの地震発生確率の問題が広く注目されたこと。
また、京都大学の橋本学名誉教授らとの共同研究による学術論文(2024年)で、時間予測モデルの科学的客観性の欠如について指摘したことも追い風になったという。この論文を受け、提唱者の島崎氏自身が2025年5月の地震学会で、モデルが誤りである可能性に言及した。
3つめの要因は、小沢氏の著書を読み、発生確率の問題を知った猪瀬直樹参院議員が2024年3月8日の参議院予算委員会で、当時の岸田文雄首相や盛山正仁文部科学相らに南海トラフ地震の長期評価について質疑したことだ。
ここで「有識者の方々も含めて共有をする」との言質を引き出したことによって、地震調査委員会は確率の見直しに重い腰を上げることになった。
■見直しで本当に信憑性が高まったのか?
「時間予測モデルの最大の問題点は、使われた江戸時代の測量データが不正確だったこと、その精度をこれまでだれも検証しなかったことでした。今回の見直しは、この測量データの精度に対する対応でした」(小沢記者)
そこで、地震調査委員会は、時間予測モデルについて誤差範囲を考慮して計算し直した。その結果が「60~90%程度以上」という数値だ。また、単純平均モデルについても改めて計算し、「20~50%」と弾き出した。

しかし、時間予測モデルをベースにして算出しているため、信憑性という面で問題は解決していないのではないだろうか? 疑問を述べると、小沢記者はこう説明した。
「地盤の隆起量が1.8メートルだったという過去データが正確ではなかったために計算が成り立たなくなったので、これを1.3~2.5メートルにして、測量や満潮による誤差としての幅を持たせることで処理したのです。全国に300年前の地震の隆起量の記録は室津港を含めて数カ所しかないので、仕方ない措置なのでしょう。島崎モデルのようにきれいな比例関係にならないが、委員会は『比例関係にまったくなっていないとは言えない』と苦しい見解を示しています」
■時間予測モデルを取り下げられない事情
問題だらけの時間予測モデルだが、委員会はこのモデルによって高く算出された地震発生確率を取り下げることは考えていないという。専門家や所管する文部科学省の官僚は「もしこの予測が当たっていたら、取り下げたことを批判される」「訴訟リスクもあり得る」といった危惧を口にした、と小沢記者は話す。
「これまで国家プロジェクトとして動いてきたため、いまさら南海トラフの高い確率を取り下げるのは難しい。委員会は『完全に時間予測モデルの数値を否定できるデータもない』というスタンスで、これまでの確率は間違えではないとしています」(小沢記者)
地震調査委員会は最終的に、「『疑わしいときは行動せよ』等の考え方に基づいて、2つの計算方法の中でも、より高い方の確率値を強調することが望ましい」と、時間予測モデルを推奨する結論を出している。
■地震予測はできないとわかっているのに…
「私はずっと地震発生確率だけが独り歩きすることを警戒していました。南海トラフ80%と突出して高いと、そこばかりが注目されてしまう。最近の地震では、むしろ確率が低いところで起きている。被災地で取材すると、『次は南海トラフだと思っていた』という話を被災者からよく聞きます。
政府の『全国地震動予測地図』がハザードマップのように使われていますが、実際にはまったく『当たって』いない。
天気予報はデータが豊富にあるから高い精度で予報が出せますが、地震は数百年、数千年に1回の割合で発生するためにそもそもデータがないので、予測は無理な話なのです」(小沢記者)
例えば、2016年4月、M6.5とM7.3の揺れを連続記録した熊本地震、2018年6月の大阪府北部地震(M6.1)、2018年9月の北海道胆振東部地震(M6.7)、などの30年以内のマグニチュード(M)7.0級の地震発生確率は、どれも低かった。熊本が「ほぼ0~0.9%」、大阪が「0~3%」、北海道が「ほぼ0%」「0.2%以下」といった具合だ。
2024年1月1日に最大震度7を観測した能登半島地震の場合も、2020年時点で今後30年内に震度6弱以上の揺れが起きる確率は「0.1~3%未満」と評価されていた。
■地震学を防災のために役立てるには
地震調査委員会も「次に発生する地震の震源域の広がりを正確に予測することは、現時点の科学的知見では困難である」と認めている。それなのに、確率を出し続けなければいけないという矛盾を抱えている。
「科学と政策が分離されていないのが一番の原因です。日本の地震調査委員会は『政府の機関』で政府の学者たちの集まりです。防災に役立つという理由で国の予算で優遇されてきた関係性から抜け出せずにいるのです」(小沢記者)
防災に役立つために研究されてきた地震発生確率が、各地の防災に役立っていないという負のループが生まれている。だが、地震研究が本来の防災という役割に立ち返る方法はある、と小沢記者は話す。
「日本は、世界で起きるM6.0以上の大地震の20%が発生する地震大国です。北海道から九州まで大地震が起きるそんな国で地域ごとに50%、80%といった確率の競い合いをして、何の意味があるのでしょうか。
この60年間の研究で、地震を予知・予測することは難しいことがわかりました。
地震学者は確率を出さないと、学問として存在意義を示せないと思っていますが、そんなことはありません。地震学は津波警報や注意警報にも活用されているほか、断層の調査などから被害規模がシミュレーションできる。今後は『いつ起きるか』より『起きたらどうなるか』という被害想定にシフトし、防災に生かすべきだと思います」

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小沢 慧一(おざわ・けいいち)

東京新聞記者

2011年入社。横浜支局、東海報道部(浜松)、名古屋社会部、東京社会部東京地検特捜部・司法担当などで取材。20年の連載「南海トラフ80%の内幕」は、同年に「科学ジャーナリスト賞」、23年に「第71回菊池寛賞」をそれぞれ受賞。東京地検特捜部・司法担当時代は、刑事確定記録から安倍晋三元首相の後援会が「桜を見る会」前日に主催した夕食会の問題をひもとき、追及した。趣味はオートバイ、プラモデル、バルーンアートなど。著書に『南海トラフ地震の真実』(東京新聞)

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(東京新聞記者 小沢 慧一 聞き手・構成=ライター・中沢弘子)
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