脱炭素を推し進めるドイツではエネルギー不足が深刻だ。その影響は、冬の暖房問題だけではない。
ドイツ在住作家・川口マーン惠美さんは「いま、医薬品大輸出国のこの国で、医薬品不足が起きている。輸出する不妊治療薬はあるのに、自国民用の熱さましが足りない。脱炭素政策の末路ともいうべき事態で、トランプ関税がこれに追い打ちをかけている」という――。
■医薬品に「100%」の関税が
トランプ大統領になって以来、予測不能な事態が次々と起こり、実に目まぐるしい。特に関税を掛けられたり、外されたりで、EUは振り回されっぱなし。そんなわけで、トランプ大統領のことを嫌っているドイツの政治エリートたちと主要メディアは、今も盛んにトランプ憎しの悪口を言い続けている。
とはいえ、ひ弱な優等生が餓鬼大将に太刀打ちできないのと同じで、モラルを振り回すわりには実力なしのドイツの政治家は、豪胆トランプ氏の奔放なやり方に手も足も出ず、困っている企業を助けることもできない。
直近で話題になっていたのは、医薬品に対する100%関税。ドイツから米国への輸出品で一番大きなポジションを占めているのが医薬品なのだそうだ。
昨年の輸出額は270億ユーロで、日本円に換算すると約4兆5000億円に上る。
ドイツで医薬品メーカーの頂点にいるのが、ダルムシュタットに本社のあるメルク社。創立は1668年というから、現存する化学・医薬品メーカーとしては世界最古の老舗だ。

現在、全世界67カ国で6万2000人が働く大コンツェルンで、米国での事業規模はドイツの本社よりもずっと大きい。売り上げの4分の1は米国市場でのものだという。
メルク社の事業は、ライフサイエンス、エレクトロニクス、ヘルスケアの3つのセグメントで成り立っていて、どの部門も超ハイテク。医薬品はヘルスケア・セグメントに属し、その稼ぎ頭が、体外受精用の不妊治療薬だ。
■トランプ関税を免れた3つの薬
「ゴナル-f」、「オビドレル」「セトロタイド」という3種類の薬が、米国の不妊治療において圧倒的なシェアを誇っている。
同社の発表によれば、昨年の売り上げは、不妊治療薬だけで15億ユーロと途轍もない。中でも「ゴナル-f」は、世界で 一番多く使用されている薬の一つだろう。
だから、トランプ関税で末端価格が釣り上がればメルク社も困るが、米国全土で不妊治療中の女性たちも困る。
そこで、米国当局とのディールの結果、10月16日、メルク社はついに前述の3種の薬の大幅値下げに踏み切った。その代わりに、米国はこれらの薬に対する関税を免除するという。
具体的には、この3種の不妊治療薬が、来年1月より、「トランプRX」という米国政府が設置する処方箋プラットフォームを通じて購入できるようになる。そして、同プラットフォームでその3種の薬を組み合わせて買えば、価格は、現在販売されている定価の84%引きとなる!
米国では薬が非常に高価だ。
中でも不妊治療薬はとりわけ高価だという。
しかし、来年からは、トランプRXで購入すれば、患者の負担は劇的に減る。つまりトランプ大統領は、メルク社に利益を削らせることで、自国の患者のために、あたかも保健医療のようなプラスの効果を創出しようとしていることになる。
ちなみに、メルク社に課せられた免税の条件は値引きだけではない。米国への投資を増やし、バイオ薬品の製造や研究開発を米国内で行うこと。また、同社の製品の価格を、他の国のものと同等に設定することなども条件だという。
その代わり、メルク社はこれ以後、不妊治療の新製品を輸出する際にも、関税は免除してもらえる。実際に、後続の治療薬の認可は、すでに申請中だそうだ。
■ディール対象は糖尿病薬にも
ドイツのメディアでは、このディールについて、「メルク社、トランプ氏に跪く」(フランクフルター・アルゲマイネ紙)など、屈辱的なタイトルの付いた報道が多かった。しかし、トランプ大統領にしてみれば、これまでのメルク社の価格こそぼったくりだと苦々しく思っていたに違いない。
なお、トランプ大統領が狙いをつけた医薬品は他にもある。
たとえば、デンマークのノヴォ・ノルディスク社が製造している2型糖尿病の治療薬「オゼンピック」。
実はこの薬は、ダイエット効果があると知られて以来、米国で爆発的に売れ続けているという。ただし、そうでなくても高価なこの薬が関税でさらに高くなれば、売り上げが落ちることは必至だ。
そこでトランプ大統領は、ノヴォ・ノルディスク社にも関税免除のディールを持ちかけ、現行の価格1000米ドルを150米ドルにまけさせようとしている。やはり85%のディスカウントだ。これが成立すれば、ダイエットを目指す人たちは喜ぶだろう。
■ドイツから逃げ出す産業が続々
それにしても、この押したり引いたりの関税政策の意味は何だろう。
トランプ氏の頭の中にあるヨーロッパというのは、自分たちの防衛を米国にやらせながら、のうのうとロシアの安いガスで儲けてきたずるい国々なのではないか。
米国は膨大な国防費を使い、ずっと損をしてきた。だから、この際、できる限り取り返そう!
つまり簡単にいえば、「守ってほしいならみかじめ料を払え」。
そして、このみかじめ料の利益を財源にして所得減税をすれば、これぞアメリカン・ファーストだと思っているのかもしれない。ただ、所得税を軽減できるほど関税を取るというのは無理な話だし、やり過ぎれば交易が細る。関税政策の最終結果は不明だ。

一方、明確なのは、EUの産業基盤があらゆる意味で弱体化していること。
これはトランプ氏のせいだけでは決してない。
中でもドイツはいまだに脱炭素にのめり込み、合理的なエネルギー政策を否定して電気代を高騰させた結果、エネルギー多消費型の産業が続々と逃げ出している。
その行き先の一つが米国であることは、もちろん偶然ではない。
■そして困った国民だけが取り残される
今や自動車産業も化学産業も米国の方を向いており、医療産業がこれに続く気配だ。昨今のドイツの雇用の喪失は、深刻である。
しかもドイツは医薬品の大輸出国でありながら、国内ではここ数年、医薬品の原料の輸入が滞り、抗生物質のみならず、500種類もの医薬品が薬局でなかなか手に入らない。
コロナの時、サプライチェーンの強化が謳われたが、結局、何も変わっていない。他所の国の不妊治療薬は作れても、自国では子供の熱さましや、手術用の麻酔薬も足りない。
こうしてドイツ国民は今、失業と不景気とインフレと品不足の中に取り残されたまま、まもなくエネルギー不足の冬に突入しようとしている。

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川口 マーン 惠美(かわぐち・マーン・えみ)

作家

日本大学芸術学部音楽学科卒業。1985年、ドイツのシュトゥットガルト国立音楽大学大学院ピアノ科修了。
ライプツィヒ在住。1990年、『フセイン独裁下のイラクで暮らして』(草思社)を上梓、その鋭い批判精神が高く評価される。2013年『住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち』、2014年『住んでみたヨーロッパ9勝1敗で日本の勝ち』(ともに講談社+α新書)がベストセラーに。『ドイツの脱原発がよくわかる本』(草思社)が、2016年、第36回エネルギーフォーラム賞の普及啓発賞、2018年、『復興の日本人論』(グッドブックス)が同賞特別賞を受賞。その他、『そして、ドイツは理想を見失った』(角川新書)、『移民・難民』(グッドブックス)、『世界「新」経済戦争 なぜ自動車の覇権争いを知れば未来がわかるのか』(KADOKAWA)、『メルケル 仮面の裏側』(PHP新書)など著書多数。新著に『無邪気な日本人よ、白昼夢から目覚めよ』 (ワック)、『左傾化するSDGs先進国ドイツで今、何が起こっているか』(ビジネス社)がある。

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(作家 川口 マーン 惠美)
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