※本稿は、長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)の一部を再編集したものです。
■セツがハーンと話すために作った英単語帳
セツは後年、結婚当初を振り返って、「当時は、二人の会話の不都合に苦労させられました」と語っている。
この不都合は、夫婦通常の意思疎通のためだけではない。すでに松江時代にあの「鳥取の蒲団」を語って、「貴女は私の良い手伝いをすることが出来る人です」とハーンを狂喜させた。その後は出入りの「植木屋・女髪結・女中・屑屋・羅宇屋(らおや)(キセルの竹管取り替え屋)」など、誰からでも話を聞き出し、新聞の三面記事を見張って、執筆の素材を捜し出すように頼まれている。
セツが(機織りの仕事で)「一日必ず一反ずつ織り上げた」熱心さで、ハーンの期待に応えようと努めたことは、近所で起きた一連の小事件を語る「生と死の断片」(『東の国から』所収)などの作品に、窺(うかが)い知ることができる。それだけに二人の意思伝達の手段である言葉が、切実な問題になっていたのである。
そうした状況が背景にあってと思われるが、セツの真剣な英語習得が試みられた。チェンバレンへの「日常」の報告に先立つ1893年3月3日、ハーンは西田千太郎(松江尋常中学校の同僚である英語教師)への手紙に、セツへの英語教授は28回を数えたことを伝え、「セツは英語に立派な進歩を示しています。彼女は、夏には大兄(西田のこと)に少し英語で話が出来るだろうと考えているのですよ」と書いている。
セツがいかに健気(けなげ)に努力したかは、現在に伝えられた二冊の『英語覚え書帳』(合わせて約130ページ、『八雲の妻 小泉セツの生涯』巻末に収録)に知ることができる。セツは、聴き取った英語の音を出雲訛の日本語(カタカナ)で表わし、その意味を添えているのである。
たとえば、「トーマル……明日、トーナエタ……今晩、シぺーキ……言、シレーペー……ねむた江、ワエン……酒、ドー・ユー・ウヱシ・トー・エタ……あなた食べ度(たい)か」のように。
この学習は、二人の心の結びつきを強めただろうが、結局、物に成らなかった。
■セツの「英語覚え書帳」(抜粋①)
ナシテ・モーネン「わるえ(い)あさ」=Nasty morning(筆者註、ハーンが言ったと思われる英語、以下同)
アエ・ハブ・エテン・プレンテ「私たくさんたべました」=I have eaten plenty.
アーラ・ユウ・ハングレ「貴君くうふくですか」=Are you hungry?
アエ・アン・ベロ・アングレー「私立腹」=I am very angry.
ソセル「こうひいだい。又ハすこしふかへ(い)皿」=saucer
マシロム「松茸を云フ」=mushroom
エー・ボク「此本(このほん)」=a book
デー・ボク「総ての本を云フ」=the book
ピレーテ「きれい」=pretty
オギレ「みねくえ(みにくい)、みともなえ(い)」=ugly
※(カッコ内)は筆者註
■英単語帳の1ページ目に記された「愛の言葉」
英語のレッスンの初めの方で、ハーンがセツに書き取らせたのが、「ユオ・アーラ・デー・スエテーシタ・レトル・オメン・エン・デー・ホーラ・ワラーダ」であった。セツは、その前後の言葉には日本語の意味を添えているのに、ここだけはそのままにしている。しかし、ハーンは、紛れもなく「あなたは全世界で一番スウィートなかわいい女です」(You are the sweetest little woman in the whole world.)と言ったのである。
セツはその意味を問うた。それは、「オメン」の脇に小さく「マーン」と書き添えているので知られる。スウィートやリトルという言葉は、ハーンが愛情を籠めて女性を語る時に好んで用いたものであるから、文全体の意味合いは、セツに感じとられたものであろう。
■セツの「英語覚え書帳」(抜粋②)
オメン「女一人を云フ」=woman
オエメン「何人ても女を云フ」=women
デイリ「かわいらしい」=dear
ハジバンド「亭主」=husband
ベード「ねる時に用いるもの、日本ふとん同じく」=bed
ワチ「くわい(かい)中時計」=watch
シトレンジャル「他人」=stranger
ライオン「からしし(唐獅子)」=lion
ホワタ・エズ・デー・マトリ・オエット・ユオ「どうしたんだ」=What is the matter with you?
ノオテン・エズ・デー・マトリ「なんでもありません」=Nothing is the matter.
ドー・ユー・ウエシ・トー・ウルカ「あなたはたらき度(たい)か」=Do you wish to work?
※(カッコ内)は筆者註
■セツとハーンにしか通じない「ヘルンさん言葉」
一方、系統的には日本語を学ばなかったハーンだが、日本語の単語や慣用句を覚え、それらを動詞・形容詞は活用なしで、また英語・日本語折衷の語順で繫げて、意を通じさせようとした。出雲人の寄り合い世帯であったから、ハーンの側には確かに、「ロンドン訛(なまり)(コックニー)の家でホームステイしての英語学習」に比すべき困難があった。
しかし、何よりも印象的なのは、語調や表情から細かな含みまで感じ取ったセツが、その片言日本語を、ハーンの語意語法に驚くほど忠実に、また徹底して用いたことである。
■セツの日本語の語りをハーンは熱心に聞いた
13年の年月を共にして、ハーンの死を9月に控えての夏、夫婦は(東京の)西大久保と焼津の間で頻繁に手紙を取り交わしている。その手紙の中で、その言語の詳細を知ることができるが、二人以外の会話に使われた場合については、7歳で父を失った次男の巖(いわお)が、「八雲を語る」というラジオ番組(1934年)の原稿で、兄(長男の一雄)は習熟したが自分は死別までに、「言われる言葉を聴き分ける事だけはできました」と語っている事実をも、考慮しなければならない。ただしセツは次のように語っている。
私ども二人だけの日本語の方は、必要に迫られて大きな進歩をみせました。この特別な日本語は、日本人の友人たちのどんなに上手な英語よりも、ヘルンにとって分かりやすいということになりまして、私の日本語をいつも喜んでくれました。ヘルンは、やがて日本語で一雄を教育したり、日本語でほかの子供たちに日本の物語を教えるようになりました。でも、松江におります頃は、私どもは会話では苦労致しまして、時々は辞書を引かなければなりませんでした。
私は、小さな娘の頃から昔話が好きでしたので、松江におりましたその頃から、長い日本の昔話をヘルンに語り始めました。ヘルンにとって、そうした話を聴き取るのは容易ではありませんでしたが、それでも大層興味深そうに、また熱心に聴いてくれました。こうして後には、何かむずかしい言葉に出会いますと、ヘルンは、私どもおなじみの「ヘルンさん言葉で説明します」と冗談を申したのでございます。
(エリザベス・ビスランド『ラフカディオ・ハーンの生涯と書簡 The Life and Letters of Lafcadio Hearn』拙訳)
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長谷川 洋二(はせがわ・ようじ)
歴史家
1940年新潟市生まれ。
Setsu Koizumi, Lafcadio Hearn’s Japanese Wife』(Global Books, 1997)、『わが東方見聞録―イスタンブールから西安までの177日』(朝日新聞社)がある
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(歴史家 長谷川 洋二)

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