※本稿は、伊藤氏貴『読む技法 詩から法律まで、論理的に正しく理解する』(中公新書)の一部を再編集したものです。
■そもそも「読解力」とは何か
「読解力」と言えば、現在、PISA(OECD参加国の学力調査)における日本の順位の乱高下や、教科書を読めない子どもたち、読解力と少年非行の関連性など、さまざまな場面で問題になっている。どちらかと言えば、ネガティブな文脈で語られるケースが多い。
しかし、そもそも読解力ははたして今後も必要な能力だと言えるだろうか。
それに答えるためには、まずここで読解力とは何かをきちんと定義しておかなければならない。実のところ、この語自体がわかったようでわからないことばなのだ。さまざまなレベルや用法が混在しており、そのことが問題を大きくしている。
まずPISAについては、数学や科学に比べてふるわない読解力の成績がつねづね問題とされるが、その最大の原因は、自由記述の設問に白紙回答する生徒が多いからだとされている。自分の考えを表現する力も、この試験では読解力に含まれているのだ。自分の意見を述べられるようにする、というのはことばの重要な運用能力ではあるが、その向上には読解の訓練だけでは到底足りないだろう。本書で扱う読解力はもう少し控え目に、純粋に「読む」ことだけに特化したものである。
■情報収集のためだけに読解力を鍛える必要はない
一方で、さまざまな教科の教科書が読めない子どもたちがいるという。算数の文章題の意味すらわからない、という問題だが、こういう子どもたちは昔から一定数いた。小学校に上がる段階から一つひとつの文を丁寧に読む修練が、親や教師の考える以上に重要だ。だが、本書の読解力はもう少し傲慢に、それよりは上のレベルを想定している。そもそも教科書を読むことができなければ、本書まで辿りついていないだろう。
では、本書でその向上を目指す読解力とはどのようなものか。いや、そもそも現代社会において読解力など必要なのか。さまざまな技術の発達によって、かつては本を読むことでしか得られなかった知識も、他の手段によっていくらでも取得できるようになっているではないか。
「情弱(=情報弱者)」ということばがあるように、今日の社会において最新の情報に通じていることは生きていく上で必須の条件だ。そして情報の取得だけが目的であれば、本を読むという行為はもはや必要ないと言える。インターネットを検索すればいくらでも情報は出てくるし、文字で読むのが辛(つら)ければわかりやすく解説してくれている動画もあるし、生成AIを使えば一瞬にしてどんなテクストも要約したり箇条書きでまとめたりしてくれる。
情報収集のためだけに読解力を鍛える必要などもはやない。
■書き手の「意図」を汲み取る力
しかしだからこそむしろ、読解はより深いものへと向かわねばならない。すなわち、このような状況でなお読解力が必要とされるとすれば、それはことばの「意味」のレベルでなく、それより一段深い「意図」を感じさせるものを読む場合、ということになる。本書で言う読解力とは、「書き手の「意図」を汲み取る力」を指す。それは必ずしも文章の表面に現れていなかったり、軽く一読しただけでは腑(ふ)に落ちなかったりするようなものを汲みとって理解する力である。本書で扱うテクストは、それゆえどれもそれなりに歯ごたえのあるものとなる。
これは別に文学的テクストにのみあてはまることではない。どんなジャンルのテクストでも、それが人によって書かれたものであるかぎり、そこには意図がある。「はじめに」でも触れたように、2×2=4という無味乾燥な等式さえ、それがどんなテクストのどこに置かれているかを考えることで、書き手の意図を汲みとることができる。
文脈によっては、書かれていることの直接の意味とその裏にある意図とがずれる場合もある。こうしたときの意図を読む営みは、生成AIにはできず、人間がそれを汲みとる力を養わねばならない。
■「論破」ほど虚しいものはない
また、この意味での読解力が今とりわけ重要なもう一つの理由は、前記のような情報環境が、著しい社会の分断をもたらしているからである。
氾濫する情報のすべてに対応していたら、読解はいきおい浅くならざるをえない。
こうした読む力の欠如からくる論戦における「論破」ほど虚(むな)しいものはない。仮に相手をねじ伏せたとしても議論の前と後とで自分自身の意見に一切の変化がなかったとすれば、その時間は自分にとって無駄であった。そればかりか、お互いの真意を読めない/読まないまま、相手との間の溝を深め、敵を増やすだけだ。しかし、これこそが今のわれわれを取り巻く言論状況ではないか。最終的には批判するとしても、まずは相手の意図を正しく受け止めなければ、意味ある議論は生まれない。
■書き手と読み手がピシッと噛み合う幸せな瞬間
読めた、というのは書き手と読み手がピシッと噛(か)み合った幸せな瞬間である。それは、テクストの文言の背景をどれだけ共有できるかによる。
(本書の)「はじめに」であげた例文に戻ろう。
「太郎はクマと同じくらいハチミツが好きだ」の解釈として、「太郎とクマはどちらもハチミツが好きだ」を採用し、「太郎は、クマとハチミツのどちらも好きだ」を退けたのは、「ハチミツはクマの好物だ」という前提知識に依拠していたからだ。それに基づいて、「太郎がいかにハチミツが好きかを強調するためにクマを引き合いに出したのだ」という書き手の意図を読んだ。
しかし、もしこのような前提知識が共有されていなければ、読みは揺れる。
■「太郎はネコと同じくらいネズミが好きだ」
またたとえば、
太郎はネコと同じくらいネズミが好きだ。
という文になるとどうだろう。人によって読みが分かれるのではないだろうか。太郎とネコがネズミ好きなのか、太郎がネコとネズミを好きなのか。「ネコはネズミを好んで捕食する」という前提知識はクマとハチミツの場合と同様だとすれば、違いはどこから生まれるのか。
それは、ネコとネズミがどちらも小型哺乳類であり、同列に並べやすいからだ。クマとハチミツの場合は、おそらく多くの人にとって動物と食物という異なるジャンルに属するものと考えられるだろう。その点で、太郎とクマの方が近い。
「AはBと同じくらいCが好き」という構文の危うさが剥(む)き出しになったり、あるいはそれを無意識の裡に回避できたりするのには、A、B、Cのそれぞれが属するジャンルに関する前提知識が影響していた。
だから、
太郎はインコと同じくらいシマエナガが好きだ。
という文ならば、ここに記すまでもなく解釈は定まるだろう。
■「読める」ために必要な何層ものレベルの前提
ここまででわかるとおり、あるテクストが「読める」ためには、書き手との間で何層ものレベルの前提を共有していなければならない。
まずは同じ言語を共有しているというのが大前提だ。語や文法の知識が一致していなければ、テクストを通じたどんな意思疎通もありえない。
さらには、語の表層的な意味だけでなく、それにまつわる一般的知識も必要だ。クマという語から、その映像を思い浮かべられるだけでなく、「ハチミツが好物だ」という知識の有無が読みの深度を決める。
また、太郎、クマ、ハチミツ、ネコ、ネズミなどを、それぞれ属するジャンルに分類することも、論理的に文意を判断するのに役立っていた。こうした分類から判断へという推論の力も暗黙知の一部である。
たった一文でも、これだけの異なるレベルの前提=暗黙知が必要とされた。
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伊藤 氏貴(いとう・うじたか)
明治大学文学部教授
1968年千葉県生まれ。麻布中学校・高等学校卒業後、早稲田大学第一文学部を経て日本大学大学院藝術学研究科修了。博士(藝術学)。
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(明治大学文学部教授 伊藤 氏貴)

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