「ぶぶ漬けでもどうどすか?」に象徴される京都人の会話は意地悪なのか。明治大学文学部教授の伊藤氏貴さんは「京都人は決して非論理的でも意地悪でもない。
ただ、その暗黙のコンテクストに依拠したコミュニケーションを読み解くには、また一つの鋭い論理が必要だということだ」という――。
※本稿は、伊藤氏貴『読む技法 詩から法律まで、論理的に正しく理解する』(中公新書)の一部を再編集したものです。
■前後のコンテクストに理解の糸口を見出す
前回の記事では、ある一文に関して語義や一般常識というレベルでの暗黙知について見てきたが、一文だけではどうやっても理解が確定しない場合もある。
ワシはキツネと同じくらいリスが好きだ。
となると、それぞれの動物が思い浮かべられるだけではわからない。人間が小鳥好きだというのは愛玩(あいがん)のためだが、動物同士の「好き」は捕食関係を示すだろう、というのが暗黙知で、さらに、キツネはリスを食べ、ワシはリスもキツネも食べる、という具体的な関係を知っているかどうかが問題になる。
だがそうすると逆に、例の「AはCが好き、かつBはCが好き」とも、「AはBが好き、かつAはCが好き」のどちらの意も表しうる構文の危うさがせりあがってくるのだ。
だからこれは一文だけではどうやっても「読めた」ことにはならず、前後のコンテクスト(文脈)に理解の糸口を見出(みいだ)さねばならないことになる。
たとえば、これが「猛禽(もうきん)類と肉食哺乳類」に関するテクストだったとすれば、この一文は「ワシとキツネはどちらも好んでリスを捕食する」という意で書かれたのだろう。あるいは「ワシの捕食」がテーマだったならば、「ワシはキツネとリスを好んで捕食する」という意だったことになる。
いや、それ以前に「ワシ」が男性の一人称でなく、猛禽類の一種を指しているということも、文脈から無意識の裡に判断していたはずだ。
■『地下室の手記』の2×2=4
ここまでは、その一文を含むテクストの他の箇所との関連で理解する、つまり文脈から意図を探るという、ある意味ではあたりまえの方法でなんとかなる。

たとえば、ドストエフスキーの『地下室の手記』にあった2×2=4という一つの同じ等式が、グロティウスの『戦争と平和の法』の中にあるのか、ザミャーチンの『われら』の中にあるのかによって、異なる意味を帯びてくる。あるいはオーウェル『一九八四』の2+2=4という似たような式も含め、どれもが表面的には同じ等式を意味しつつ、その奥で神と人間と自由について異なるなにごとかを示唆しており、それは文脈から読み取られるべきものだ(※1)。
※1 ドストエフスキー、グロティウス、ザミャーチンにおいてこの等式は、不変性から不自由さの象徴となっているが、逆にオーウェルにおいては表現の自由と結びつけられていた。
しかし、それぞれのテクストの全体を読んでも、意図がわからないこともある。コンテクストがテクストの外にまで広がっている場合である。
■「ぶぶ漬けでもどうどすか?」が前提とするもの
たとえば、隣家の住人と道で出くわした際に、「おたくのお嬢さん、ピアノがお上手ですねえ」と言われた場合、どう返答すべきか。純粋な褒めことばととって、「いえいえ、そんなことないんです。なかなか上達しなくて」と謙遜すべきか、それとも「騒々しい」という遠回しの文句なのだと解釈して、「あら、いつもうるさくしてすみません」と謝るべきなのか。両方言っておけば間違いないが、おそらく場所が京都なら後者が正解なのだろう。
もはや都市伝説と化している、「ぶぶ漬け(お茶漬け)でもどうどすか?」というお誘いが、実は「そろそろ帰ってほしい」という気持ちを仄(ほの)めかすという話は、京都というとりわけ文化的前提が長く強く共有された土地ならではのものだ。
このように、文化的コンテクストも、テクストの読解には必須の要素となる。同じ文化の中に生きているかぎりはほとんど意識されない暗黙知だが、あるテクストを深く読むためには、書き手の生きていた文化、書かれた題材の背景となる文化についてのコンテクストを知る必要がある。
さらには、書き手個人の伝記的事実もコンテクストとなって、意図の理解を促すことがある(詳しくは第四講で考える)。
■京都人が「いけず」と言われる理由
書き手の意図を汲むために、どこまでこのコンテクストを広げなければならないかはその都度異なる。ただ、日本語は基本的にハイコンテクストな言語だとされている。すなわち、テクストの外部にまでコンテクストの網を張らなければ意図が伝わりにくいという特徴を持っている。先の京都人の会話などはその典型例だろう。
この点を指して、日本人や日本語は非論理的だ、と言われることも多い。たしかに、外部の人間からすると、テクストの表面上の意味と、それが意図するところのズレが大きく、その繋(つな)がりが見えにくい。同じ日本人でさえ、京都のぶぶ漬けの場合に、「あ、もうこんな時間に。そろそろお暇(いとま)します」とすぐに返せはしない。東男(あずまおとこ)なら遠慮なく、膳が運ばれてくるのを待ってしまうかもしれない。そして障子の裏で嗤(わら)われるのだろう。
これは多分に戯画化された状況だとしても、京都人が「いけず」と言われるのは、コンテクストに依存した会話をするからであり、余所者(よそもの)からすると不条理に見える場合がたしかにある。
なぜぶぶ漬けが「帰れ」と結びつくのか、そこには京都人でなければ読めない肌感覚のようなものがあるのか。
しかし、もちろん京都に長く暮らすうちに自然に身に付く感覚的な部分があるにしても、それは決して非論理的なものではない。
■京都人は非論理的でも意地悪でもない
しばしば日本人や日本語は非論理的であり、「日本人に論理はいらない」とさえ言われる(※2)こともあるが、それは「論理」という語の使い方による。もし明白で直接的な因果関係だけを論理というのであれば、たしかに京都を頂点とするような日本語のありかたは論理的とは言えないかもしれない。だが、先のぶぶ漬けと「帰れ」との間にあるのは、決して感覚的繋がりではない。
※2 たとえば、山本尚『日本人は論理的でなくていい』(産経新聞出版、2020年)。だが、山本自身は有機化学を専門とする科学者であり、本書も西洋型の論理だけで成し遂げられないことに対し、日本型の考え方で達成することを薦めるものだ。それは西洋から見れば論理ではないかもしれないが、一つの考え方の型として、別種の論理と言えるものである。
試みにその暗黙の繋がりを明示してみよう。
A「ぶぶ漬けでもどうどすか?」
《そろそろ食事の時間だが、Bがこの時間までいると思っていなかったので、もてなしの準備ができていない=ぶぶ漬けしか出すものがない》
B「あ、もうこんな時間に。お話が楽しくてついつい長居して。これでお暇します」
このような場合、《 》の部分が両者の間で共有されている暗黙知になる。
だがこれは、決して感覚によるものではない。明示されておらず、かつ飛躍が大きいとしても、たしかに論理の糸で繋ぐことができるものだ。Bは訓練によって、Aの暗黙の糸を論理的に瞬時に悟ったのである。京都人は決して非論理的でも意地悪でもない。ただ、その暗黙のコンテクストに依拠したコミュニケーションを読み解くには、また一つの鋭い論理が必要だということだ。
■日本語には日本語の論理がある
あまり外から人が入ってこず、同質的な空間が長く維持された場所独特の発展の仕方として、非常に多くの部分を暗黙の共有知としてきた。それは外部の人間からはほとんど見えないために、非論理的とも思われるかもしれないが、日本語には日本語の論理がある。「論理」というと唯一にして普遍であるように思われがちだが、数学的形式論理は一つでも、現実生活で求められる論理には、その社会に応じていくつもの型があるという(※3)。先に示した2×2=4が、置かれる場所によって異なる意図を示唆するのと同じだ。それゆえ、テクストに応じて、論理も使い分ける必要がある。論理を正しくつかむことで、相手の意図を正確に汲むことができるようになる。
※3 渡邉雅子『論理的思考とは何か』(岩波新書、2024年)は、アメリカ、フランス、イラン、日本にそれぞれ別の4種類の論理を挙げている。


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伊藤 氏貴(いとう・うじたか)

明治大学文学部教授

1968年千葉県生まれ。麻布中学校・高等学校卒業後、早稲田大学第一文学部を経て日本大学大学院藝術学研究科修了。博士(藝術学)。2002年に「他者の在処」で群像新人文学賞(評論部門)受賞。「高校生直木賞」実行委員会代表、教育出版『精選国語総合』『精選現代文』代表編集者を務める。著書に『奇跡の教室』(小学館)、『樋口一葉赤貧日記』(中央公論新社)、共著に『教育論の新常識』(中公新書ラクレ)、『国語教育が危ない!』(岩波ブックレット)など。

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(明治大学文学部教授 伊藤 氏貴)
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