▼第1位 死んだふりで「片目、片手、片足になりました」…80年間の新聞を分析して判明「人食いグマ」から生き延びる方法
▼第2位 遺体の両目は飛び出し、顔面はグジャグジャ…札幌に現れ、幼児含む4人を食い荒らした「最悪の殺人グマ」の正体
▼第3位 TikTokで子グマへの餌付けを撮影中に、母グマが後ろから現れ…自然をナメた「迷惑観光客」が辿った末路
人間を襲う凶暴なクマにはどのような特徴があるのか。ノンフィクション作家・人喰い熊評論家の中山茂大さんは「何らかの理由で冬ごもりしない『穴持たず』と呼ばれる個体には、注意したほうがいい。明治時代の北海道で死者4人、負傷者1人を出した『札幌丘珠事件』(以下、丘珠ヒグマ事件)は、『穴持たず』による熊害とされている」という――。
■凶暴なクマ「穴持たず」とは
連日のようにメディアを賑わせているクマ被害。死者12人(10月30日時点、環境省まとめ)を出した全国のクマによる人身被害は、過去最悪を更新することが確実となった。
ただそれも、クマの冬ごもりと同時に終息すると思われる。
クマの冬ごもりは例年、遅くとも12月中旬までには完了するといわれる。
しかし十分なエサが得られなかったり、適当なクマ穴が見つからない、何らかの要因で一度入ったクマ穴を放棄せざるを得ない等の理由で、冬季間も山野を徘徊する個体が稀にいる。このような個体は「穴持たず」といい、空腹を抱えているため極めて凶暴かつ危険とされる。
そして実際に起きた、このような「穴持たず」による凶悪事件が、明治11年に北海道で発生した「丘珠ヒグマ事件」である。
「丘珠ヒグマ事件」は、北海道開拓使の置かれた札幌府の近郊で起こったこともあり、当時の入植者らを震撼させた。また被害者の遺体の一部が、札幌農学校(現北海道大学)付属植物園に長らく陳列されたこともあり、道民の間ではよく知られた事件である。
そのため事件に触れた記録はいくつも残されているが、詳細な資料は乏しい。
■明治時代の北海道で発生した「凶悪事件」
本件については拙著『神々の復讐』(講談社)でも取り上げたが、今回新たな資料を入手したので再度検証を試みたい。
まず北海道帝国大学教授、八田三郎による『熊』(明治44年)を引用してみよう。
明治11年(1878年)12月25日の当夜は非常な雪降りであった。師走の忙しさに昼の疲れもひとしおで、炉に炭を焚きたてて安き眠りに就いた。一睡まどろむ間もなく、丑の刻と思しきに、暗黒なる室内に騒がしい物音がした。倉吉は目を覚まし「誰だッ」と云う間もあらず、悲鳴を挙げた。やられたのだ。妻女は夢心地に先ほどからの物音を聞いていたが、倉吉の最後の叫びに喫驚し、裸体のまま日も経たぬ嬰児をかかえて立ち上がった。この時背肌にザラッと触れたのは針の刷毛で撫でたような感じがした。熊に触れたのだ。
■落語に描かれた「襲われた経緯」
一方で三遊亭圓朝の戯曲『椿説蝦夷訛(ちんせつえぞなまり)』にも、この事件に触れた一説がある。
それから一日おいて十七日の晩のことでございます。倉吉は酒を飲んで囲炉裏のこっち側に子供を抱いて寝ております。向こうに丸竹を並べた縁の様なものがあって、ちょっと庭形になっている。裏手にある二畳の小間にお嘉代が寝ておりますと、かれこれ夜の三時頃、風もないのに庭口の雨戸がバタリと外れたから、目ざといお仙が眼を覚まして頭を上げて見ると、燈火は消えておりますが囲炉裏にトロトロ燃えている燃えさしの火影と差し込む雪明かりに透かして見ると、こはそも如何に、仔牛ほどもあろうと思う大熊がノソリノソリと這入って来ましたから、お仙は驚いたの驚かないではありません。思わず知らず大きな声をあげて、 仙「アレ倉吉さん、熊が来たヨー熊が来たヨー」と一生懸命に怒鳴ったけれども、倉吉は酒の機嫌でグッスリ寝込んだのですから眼が覚めません。お仙は気を揉んでアレエアレエと叫ぶうちに、熊は平気でノソリノソリッと倉吉の寝ている方へ参りまして、子を獲られた恨みを返すつもりでしょう。平掌をもって寝ている倉吉の頭をピシャーリッと打つと、大力なものですから倉吉の頭はひしゃげて、ただ一打ちでウンとも言わず息が絶えてしまいました。
「子を獲られた恨み」というのは、事件の数日前に倉吉が山鼻村のクマ穴で子熊を射止めたことになっているからである。しかし後述するように、実際の加害熊はオスの成獣なので、このくだりは圓朝の創作だろう。また文中に出てくる「お嘉代」とは、倉吉と妻女お仙が仕えていた武家にゆかりのある名家の娘で、訳あって倉吉宅に居候していた。
妻女は夢中で戸外へ逃げ出し、川向かいの石沢定吉宅に助けを求めた。
■力自慢の男性(20歳)は両手首を噛み切られ…
この間に、主人の倉吉のほか、長男の留吉、雇い人の酉蔵が殺された。
前出の『熊』には酉蔵についての記述はないが『椿説蝦夷訛』には登場している。酉蔵は当時20歳で、力自慢の壮者であった。
熊という獣は運動はのろうございますが大力がありますから、人間の一人ぐらい組み付いたのはなんとも思いません。酉蔵に組み付かれたままノソリと立ち上がって、酉蔵の左の手を小脇に挟んでブウーとうなりながら、その手首をバリリッと噛み切りましたが、酉蔵は剛気の男でございますから、少しもひるまず後ろから右の手を熊の首へかけて引き倒そうとする、熊はそれらに頓着せず酉蔵を引きずって二歩三歩あるきましたが、勝手が悪いという様子で立ち止まり、酉蔵の右手をつかんでその手首を噛み切りながら、体を屈めて酉蔵をむこうへ投げ飛ばしました。いかに剛気の酉蔵でも左右の手首を噛み切られてはもはや致し方がありませんから、苦痛をこらえて息を殺して死んだふりをしておりました。
■ヒグマの胃袋から見つかったもの
翌日、討伐隊が到着すると、倉吉は原形を止めないほどに食い荒らされていた。ここでも『椿説蝦夷訛』から引用すれば、
倉吉の死体を見ますと両眼を飛び出して横面がメチャメチャに潰れ目もあてられぬ有様で、また子供の有様はというに頭も手足もわからぬように熊に喰い取られて肋骨が半分あらわれていて、胸のあたりの肉が少し残って、その辺に生血が滴っています。
という凄惨な現場であった。
ほどなくして山林に潜んでいたヒグマが、開拓使に出仕する砲術名人、森長保によって討ち取られた。身の丈六尺三寸(約190センチ)のオスの成獣であった。
このヒグマは札幌農学校に運ばれ解剖されたが、その胃袋からは、赤子の頭巾や手、妻女の引きむしられた頭皮や、倉吉の足など、遭難者の肢体の大部分が得られた。
■入植者リストに見える「堺倉吉」の名前
生き延びた妻女は、実際には「お仙」ではなく「利津」といい、事件当時34歳であった。南部の生まれで、19歳の時に北海道に渡り、堺倉吉と同伴して丘珠村に落ちついた。
札幌市東区の札幌村郷土記念館が編纂した『東区拓殖史』によれば、当時の丘珠村は、いまだ鬱蒼とした樹海で、「石狩街道では、やや道幅広く開けているが、両側は大樹のため旅行者は熊害を恐れる程の有様で」とある。
また同書には明治4年の丘珠村の略図も添付されていて、注意深く見ていくと、丘珠街道(石狩街道)沿いに「堺倉吉」の名前が見える。
さらに明治4年の「札幌郡丘珠村人別調」という入植者リストに「堺倉吉」の名前がある。
第十六番
堺 倉吉 三七
妻 利津 二九
女 政 二
母 喜都 六五
この資料によれば、事件当時、倉吉は46歳、利津は36歳だったことになる。倉吉の母、喜都は事件発生時にはすでに死去していたのだろう。また「政」という女児の記載があるが、ヒグマに襲われたのは「留吉」という男児であった。政は夭逝して、新たに留吉が生まれたのかもしれない。
■数日前に熊撃ちを食い殺したヒグマだった
ところで今ひとつの資料『新版ヒグマ 北海道の自然』(門崎充昭 犬飼哲夫)では、事件発生日は明治11年(1878年)1月17日となっていて、その経緯も若干異なる。
事件発生の数日前に、円山と藻岩山の山間に熊撃ちに行った山鼻村の蛯子勝太郎が逆襲されて喰い殺され、ヒグマはそのまま「穴持たず」となって徘徊を始めた。
実際はどうだったのか。
『開拓使公文録』に、
危難救援の者、賞誉の儀上申 本年一月十八日午前三時当札幌郡丘珠村平民堺倉吉居小家へ猛熊乱入、倉吉ならびに同人長男、留吉儀は即死、倉吉妻リツおよび雇人姓不詳酉蔵は重傷を受け翌十九日酉蔵死去致し候(後略)(長官届上申書録 明治11年2月22日)
とあり、事件発生日時は1月17日の深夜、18日の未明である。また重傷を受けた酉蔵が翌日、死去したことがわかる。
■「丘珠ヒグマ事件」の真相
今ひとつ、同じ『開拓使公文録』に以下の記録がある。
警察課 札幌警察署 本月十一日、山鼻村において当地寄留の蛯子勝太郎を殺害、喰い殺した悪熊を討ち獲った者より申し付けられたところによれば、本月十二日に右熊は、平岸村より月寒村および白石村を経て雁来村で足跡を見失ってしまったが、本月十八日、丘珠村居住の堺倉吉の小家へ乱入、戸主倉吉並びに同人長男留吉を殺害、他に二人へ重傷を負わせ(後略)(取裁録 明治11年1月19日)
「他に二人へ重傷を負わせ」とは、利津と酉蔵のことだろう。この文書では、酉蔵は重傷ながら生きながらえたことになっているが、実際には19日に死亡した。おそらく情報が行き違いになってしまったのだろう。
また利津とともに逃れた「雇い人の女」とは、たまたま居候していた「お嘉代」のことかもしれない。
これまでの諸説では、この事件で死亡したのは3人で、その内訳は「倉吉、留吉、蛯子勝太郎」(犬飼哲夫、門崎允昭説)、あるいは「倉吉、留吉、雇人酉蔵」(八田三郎説)で食い違いが見られた。
しかし以上に示した資料を総合すると、犠牲者は「倉吉、留吉、酉蔵、蛯子勝太郎」となり、丘珠事件における人的被害は、死者4人、負傷者1人というのが正しい。
(初公開日:2025年11月2日)
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中山 茂大(なかやま・しげお)
ノンフィクション作家、人喰い熊評論家
明治初期から戦中戦後にかけて、約70年間の地方紙を通読、市町村史・郷土史・各地の民話なども参照し、ヒグマ事件を抽出・データベース化している。主な著書に『神々の復讐 人喰いヒグマたちの北海道開拓史』(講談社)など。
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(ノンフィクション作家、人喰い熊評論家 中山 茂大)

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