高市早苗首相の台湾発言を受け、中国は自国民に日本への渡航自粛を呼びかけた。中国国営メディアは日本経済への打撃を強調するが、実際に最も困惑しているのは旅行をキャンセルせざるを得ない中国国民だ。
一方で欧米メディアは、日本国内では冷静な受け止めが目立つと報じている――。
■中国国営紙は日本の経済苦をアピール
高市早苗首相による国会での「存立危機事態」発言を受け、中国は事実上の報復措置を実行。国民に日本への渡航自粛を呼びかけた。
以来、中国国営紙は英語版記事を通じ、日本への経済的打撃を国内外に華々しくアピールしている。だが、日本経済への影響もさることながら、真にいわれのない不利益を被っているのは他ならぬ中国国民との実態が浮かび上がる。
はじめに、ここ最近の中国各紙の報道を紐解こう。
中国共産党が管轄する国営メディア英字紙のチャイナ・デイリーは、高市首相の台湾に関する発言を「誤った発言」と断じ、日本経済に打撃を与えていると主張する。記事は国営放送である中国中央テレビの報道を取りあげ、11月15日以降、日本行き航空券のキャンセル数は54万件を超えたと報じた。
北京国際研究大学の教授は同紙に、観光が日本にとって自動車輸出に次ぐ第2の外貨収入源だと指摘し、「中国人旅行者が大幅に減少すれば、宿泊、飲食、小売、娯楽など幅広い分野の雇用に大きな影響が出る」と、日本経済への打撃を予測してみせる。
記事はまた、中国が日本最大の観光客の訪問元であるとし、2024年に中国本土の観光客が全外国人観光客支出の21.3%を占めていると強調した。
■「日本危険説」の無理筋
だが、そもそも中国が渡航自粛を呼びかけた理由は、「反中攻撃や犯罪の増加」だ。日本が危険な国であり、中国国民に危害が及ぶおそれがあるとする主張だ。

ところが、日本の治安の良さは一般に世界的に高く評価されており、中国の主張は国際的な共通理解に反する。日本政府は中国側の見解を否定しており、米タイム誌も「日本はこれを否定している」と日本政府の立場を伝えた。
フォーブス誌が取りあげた「世界で最も安全な国2026」調査では、オランダ、オーストラリア、オーストリアなどに次いで日本が世界9位にランクイン。公開されたトップ15リストに中国の名はない。日本は「人口が少ない国だけが安全だという原則を覆す例外である」と評価され、なかでも暴力犯罪に関する安全性の高さでは世界1位となった。
渡航自粛の根拠が否定された形だが、それでも中国メディアでは、相変わらず日本叩きの記事が目立つ。チャイナ・デイリーは北京の旅行予約サイトQunarのデータを引用し、11月17日までにソウルの検索数が日本の都市を抜いたと伝える。
中国国営タブロイド紙英字版のグローバル・タイムズは11月30日、「『中国の台湾』に関する誤った発言」が原因で、12月に予定されていた中国発日本行き5548便のうち、16%に当たる900便以上が欠航になったと強調。中国紙編集者のコメントを引用する形で、「こうした政治問題が続く限り、大半の中国人観光客は単純に他の目的地を選ぶだろう。日中関係の回復は結局、日本政府の選択にかかっている」と迫った。
■中国系ツアー会社が受けた打撃
たしかに中国客の減少で、日本の観光業界に一定の影響が生じることは否めない。しかし、最も大きな打撃を受けているのは、中国や日本で生きる中国国民でもある。

シンガポールのストレーツ・タイムズ紙が取りあげるのは、東京で働く中国人ツアーガイドの窮地だ。ガイドは2013年に自身のツアー事業を立ち上げ、これまで月に1000人から2000人の中国人観光客を受け入れてきた。中国政府が渡航自粛を呼びかけて以来、数日間のうちに4件のキャンセルを受けたという。
短期的には持ちこたえる見通しで、90%以上の顧客は予約を取り消していないという。ガイドはこう語る。「11月の影響は今のところ大きくないように見えます。出発日が近づくと、ホテルや交通機関は高額なキャンセル料を課すため、(キャンセルしても)経済的に割に合わないのです」
「しかし、来年の春節期間中の日本旅行を含む新規の問い合わせについては、確実に影響が出るでしょう」。短期的には限定的だが、中長期的な打撃は避けられない。
大口の顧客を失った旅行社もある。AFP通信によると、上海の旅行代理店マネージャーは「最も大きな影響を受けているのは団体旅行だ」と語る。この旅行代理店では、顧客の90%から予定していた日本行き旅行を取りやめ、代金を払い戻すよう迫られている。
■「夢の日本旅行が消えた」
日本で観光業に携わる中国系の人々は、収入の減少に戸惑う。

AP通信によると、北京に住む女性は昨年、夫とともに北海道でスキーロッジを開業した。仕事を辞め、200万元(約4400万円)を投じた夢の事業だった。
渡航自粛が呼びかけられると、2件のキャンセルが入った。すぐに他の中国人客で埋まったが、客の言葉に彼女は不安を覚えた。「中国が明確な姿勢を取った以上、それに従わなければならない」と一人の客は語った。個人の観光旅行に影響は少ないと楽観視していたが、あたかも政府の指示は絶対とでもいうかのようだった。
ロッジを予約していた別の客は政府系企業に勤務しており、職員たちは当面日本を訪れないよう指示されたという。客たちは様子見の状態だ、と経営者の女性は語り、さらなる状況の悪化を懸念している。
苦悩は旅行者側にも広がる。
中国で会計士として働く女性は、厳しい判断を迫られた。絶好の紅葉シーズン、日本への初旅行を心待ちにしていたところへ、政府方針を知った両親が「待った」をかけた。結局、女性は友人と計画していた旅行をキャンセルした。
友人はそのまま旅行に出かけ、怖いことなど何も起きなかったと後で女性に伝えたという。
女性はAP通信の取材に、「(安全だと)知っていたら、おそらくそのまま行っていたでしょう」と語る。「でも、何とも言えません。状況は本当に、私たちの意思ではどうにもならないのです」
■給料1.5カ月分がムダに
国営企業の一部では、組織立って日本旅行を禁止する動きが出ている。キャンセル料の痛手を負うのは個々の従業員だ。
「今月初めに日本旅行を申請していたのですが……」と切り出すのは、北京の国営病院に勤務する看護師の男性だ。週末を利用して日本へ旅行しようと休暇を申請していたが、突如、上司から中止するよう指示された。
サウスチャイナ・モーニング・ポスト紙に男性は、「(中国の)文化観光省が渡航注意を発表すると、部門の上司がそれを理由として、私の旅行を阻止したのです」と語る。
すでに男性は、航空券とホテル予約に約6000元(約13万円)を支払っていた。確かに中国系の航空各社は、キャンセル料の免除を発表している。だが同紙によると、この男性は海外の旅行予約サイトでチケットを取っていたため、大半は払い戻し不可だという。
「復路のチケットは払い戻しできるはずです。
しかし往路便とホテルは無駄になります」と男性は語る。払い戻しの条件は厳しく、「少なくとも1週間前にキャンセルしないと、何も戻ってきません」
男性の月給は4000元(約8万8000円)強だ。損失額の6000元は実に約1.5カ月分の給料に相当する。大きな痛手を受け入れられない男性は、思い切って許可なしで旅行することも検討しているという。だが、職場が国営病院であるだけに、上司に知られればリスクは大きい。給料1カ月半相当の損失とのあいだで心は揺れ動く。
北京の国営研究所に勤務する職員は、来月予定していた日本旅行の中止を迫られていると同紙に語った。「1カ月前に年次休暇を利用して日本旅行を計画しました」という職員。「研究所ははっきり『行くな』とは言いませんが、承認の手続きをずっと保留にしています。つまり、行ってくれるなということです」
中国人含め多くの国際観光客がこぞって訪れる、美しい京都や富士、活気ある東京や大阪の風景。こうした旅行先を事実上、中国国民は諦めざるを得ない。後には紙切れになった航空券だけが残される。

■「代わりに日本の客が増えている」痛手は限定的との声
一方で日本国内では、中国人観光客の減少を冷静に受け止める声が目立つ。
金子恭之国土交通大臣は、他国からの観光客が増えていることを指摘。「大騒ぎすることではない」と述べた。
発言は、現場の実感とも一致している。東京・浅草の古くからある商店街で宝石店を営む店長は、中国客が減ったものの、状況を特に懸念していないとAFP通信に語る。「中国人客が減り、日本人の買い物客が訪れやすくなりましたので、結果として売上はあまり落ちていません」
銀座の高級エリアで有名うどん店を営む経営者も、中国が渡航自粛を呼びかけて以来の数日間、売上への影響は即座には感じていないと語る。通常は客の半数程度が中国人だったというが、「急激で劇的な変化があったとは思いません」とAFPの取材に答えた。「もちろん、客が減るのは店としては残念です。でも日本人客が定期的に来てくれているので、極端に心配はしていません」
最も打撃が大きかったのは、日本市場で事業を営む中国系企業だ。
名古屋で働くオランダ出身のツアーガイドは、英テレグラフ紙の取材に、「日本に来る中国人団体ツアーの大半は、中国系の旅行会社がサービスを提供しています」「中国市場は大部分を自分たちで抱え込んでいるのです」と答えた。日本を訪れたい中国人を専門に扱っていた彼らにとって、影響は大きい。
金沢のガイドも同意する。「状況は心配していません。中国人観光客は中国人経営のレストランでお金を使う傾向があります。もちろん、中国人観光客に依存しているホテルもあり、そうした人々は心配しています。でも金沢では、観光客のほとんどは欧米人です」
■観光公害の抑制というメリット
もちろん、日本経済へ一定の冷や水となることは否めない。
米タイム誌は、年末までの中国人観光客減少による損失額が5億ドル(約780億円)から12億ドル(約1900億円)に上るとする市場調査会社の試算を取りあげている。今年7月から9月の期間、中国人旅行者は訪日外国人の消費額の3分の1近くを占めており、その影響は軽視できない。
一方で、青天井に増加を続けていた中国を代表とする観光客は、日本各地で観光公害を引き起こしてきた。今回の摩擦を契機に、その在り方は見直しを迫られるだろう。
2014年には1340万人だった訪日外国人は、昨年には3690万人へとほぼ3倍に増加し、新記録を樹立した。だが、地元民がバスに乗れず、ポイ捨てや私有地への無断立ち入りが問題化するなど、地元住民は不満を募らせてきた。
日本では、中国が「自主的な観光制限」を打ち出したと独自の捉え方で歓迎する声もある。戦略アドバイザリー会社アジアグループの日本担当マネージングディレクターはタイム誌に、「日本の一般大衆は概して、中国人観光客が減ることに無関心、あるいは場合によっては歓迎しているように見えます」と語る。
英国のツアー専門会社インサイド・ジャパンの担当者は、テレグラフ紙に、「過剰観光が問題になっている京都などでは、国際的な訪問者数の一時的な減少は、むしろ体験の観点から有益かもしれない」と述べた。
■「中国依存」のリスクが浮き彫りに
テレグラフ紙はやや皮肉な視線で今回の出来事を捉えている。「日本は観光客を減らしたかった。中国のボイコットが今、その役目を果たしている」
国際化する現代社会において、海外から魅力ある旅行先として人気を集めることは、日本に住む私たちとしても光栄なことだ。だが、その訪問元の偏りについては、これまで十分な議論が尽くされていなかった。
今回の渡航自粛勧告は明らかに、訪日客が政治的な武器として利用された実例だ。地理的に近く人口の多い国だからといって無制限に旅行客を受け入れれば、いつしか経済面で依存状態に陥ってしまう。
気に入らない事態が起きるたび強硬姿勢に出る国に対しては、意図して依存度を下げる施策が求められる。受け入れ元の国をより多様化してゆくことが、今後の日本の観光戦略として必要になるだろう。

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青葉 やまと(あおば・やまと)

フリーライター・翻訳者

1982年生まれ。関西学院大学を卒業後、都内IT企業でエンジニアとして活動。6年間の業界経験ののち、2010年から文筆業に転身。技術知識を生かした技術翻訳ほか、IT・国際情勢などニュース記事の執筆を手がける。ウェブサイト『ニューズウィーク日本版』などで執筆中。

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(フリーライター・翻訳者 青葉 やまと)
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