天下人・豊臣秀吉はどんな人物だったのか。歴史作家の河合敦さんは「相当な女好きで、地位が上がるにつれ、次々と若くて美しい女性を自分のものにしていった。
一方で、有能な正妻ねねのこともとても大切にしていた」という――。
※本稿は、河合敦『豊臣一族 秀吉・秀長の天下統一を支えた人々』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■信長の草履を温めた逸話はフィクション
松下家を放逐された秀吉はその後、故郷の尾張に戻り、同地を支配していた織田信長に草履取りとして仕えることになった。どうやって仕官することができたのか。
これに関しても諸説あるが、『太閤素生記』によれば、同じ村の出で小人頭(こびとがしら)として織田家に仕えていた一若(いちわか)の紹介だったとされる。同書によれば、それは天文22年(1553)のこと。この年、秀吉は17歳である。ただ、永禄元年(1558)だとする説もある。
さて、秀吉が草履取りになったある寒い冬の日、主君のことを思って懐で信長の草履温めていた。その行為に感心した信長は、以後、秀吉に目をかけるようになったという。この逸話はあまりに有名だが、江戸初期の太閤記類には登場せず、『絵本太閤記』が最初なので史実とは考えられない。
■25歳で12歳年下の女性と「恋愛結婚」
秀吉の初出史料(永禄8年)は、坪内利定という者に土地支配を認めたもので、この年までには秀吉が領地を持つ士分になっていたことは確かだ。

その4年前(永禄4年)、後世の「木下譜」によれば、秀吉は結婚している。お相手の女性は13歳(天文18年誕生説が有力)。数え年なので、いまでいえば12歳、小学校6年生ぐらいである。秀吉は12歳年上の25歳。結婚するには一般的な年齢だが、さすがに彼女のほうは早婚すぎる。ただ意外にも、2人は恋愛結婚だったといわれている。そんな秀吉の正妻の名だが、これまた判然としない。
昔は『太閤素生記』などに従い「ねね」と呼ばれていたが、この呼称は一次史料には登場しない。「ね」という自筆の書状があり、秀吉も「おね」と宛てた手紙を書いていることから、「ね」か敬称を入れて「おね」が正しいとされ、近年は映画やテレビドラマでは「おね」と呼ばれるようになっている。
ただ、このほかにも祢、禰、禰々、寧、寧々、寧子、吉子などの表記もあって、どう呼ぶのが正しいか断定しがたい。とはいえ、北政所や高台院(こうだいいん)ではあまり人間味を感じないので、本書ではなじみのある「ねね」と記すことにしたい。
■ねねの母が2人の結婚に猛反対した理由
ねねは、杉原(木下)定利と朝日の次女として生まれたが、母の朝日は秀吉が卑賤(ひせん)な出であることを理由に、二人の結婚に強く反対したとされる。
別説では、秀吉が結婚前にねねと性交渉したことを知って怒り、結婚に同意しなかったともいう。
ともあれ、朝日がひどく秀吉を嫌うので、見かねた朝日の姉・七曲(ななまがり)が手を差し伸べ、自分と夫の浅野長勝(信長の家臣。弓衆)の養女にしたうえで秀吉に嫁がせたと伝えられる。
秀吉夫妻の媒酌人は、主君信長の従兄弟・名古屋因幡守(いなばのかみ)敦順(あつより)(高久とも)だという説がある。敦順の妻・養雲院殿がねねの手習いの師匠で、因幡守が秀吉の将来性に期待し、身分が上の杉原定利の娘との縁談をすすめたのだとされる。だが、あくまで一つの説に過ぎず、織田家の宿老・柴田勝家が取り持った縁談だとするものもある。
研究者の小和田哲男氏は、信長公認の結婚だった可能性を指摘している。ちなみに秀吉夫妻が暮らす清洲(清須)城の足軽長屋には、前田利家夫妻も住んでおり、家族ぐるみの付き合いをしていたという。後に子に恵まれない秀吉夫妻は、利家の娘・豪(ごう)を養女にしているし、秀吉は後年、利家のことを「おさなともだち」と呼んでいる。
■死闘の日々を送る夫を妻がサポート
織田家に仕官して約20年、長浜城主となった秀吉だが、落ち着いて長浜の地に腰を据えていられなかった。伊勢・長島の一向一揆、甲斐の武田勝頼、越前一向一揆など、信長に従って強敵との死闘の日々を送っていたからだ。だから留守中の長浜領は、秀吉の重臣や一族たちが守っていた。

正妻のねねも領内統治に関与し、いったん秀吉が長浜城下の町人たちに発した命令を、ねねが秀吉に頼んで帳消しにさせたといわれてきた。
秀吉は、城下町の殷賑策として長浜の町人たちに年貢や諸税を免除した。ところが調子に乗った町人たちが、近在の農民たちを町に呼び寄せ、彼らにもその利得を与えようとしたのである。
農民が村を捨てて町に移動すれば、田畑は荒廃し税が入らなくなる。だから怒った秀吉は、町人たちの免税特権を撤回した。驚いた町人たちはねねに泣きついた。結果、ねねの説得により秀吉は命令を取り下げ、その旨をねねに手紙で知らせてきたというのだ。
■信長に愚痴った「女好き秀吉の悪癖」
ただ、福田千鶴氏(『人物叢書323 高台院』吉川弘文館)は、秀吉に再考を迫ったのはねねではなく、実母のなかだったという。当時、大名が親族の女性に与える書状は、直接当人には宛てて出さず、お付きの侍女を宛名とした。
この天正4年(1576)と想定される手紙は、「こぼ」という女性に宛てて出されている。彼女はねねではなく、秀吉の母・なかの侍女なのだ。いずれにせよ、当主の留守中に一族の女性が政治に関与していたことがわかる。

たとえばねねは、秀吉を同伴せずに、織田信長の安土城に土産物を持って訪問している。信長に会っているのだから、当然、その妻女にも進物を渡すなど女同士の外交もおこなわれたはず。
ちなみにこのときねねは、秀吉の女癖の悪さを信長に愚痴っている。
秀吉は相当な女好きで、地位が上がるにつれ、次々と若くて美しい女性を自分のものにしていった。その好色さは、外国人宣教師にまで伝わるほどだった。たとえば、ルイス・フロイスは、以下のように秀吉の悪癖を批判している。意訳しよう。
「秀吉はすでに50歳を過ぎているのに性欲が強く、それについては正常な判断力が保てず、御殿の中に若い娘を300名も囲っていた。さらには各地の城にも多くの娘たちを置いていた。家臣たちも秀吉のために美女を探しておき、彼が訪れるとその女を差し出した。秀吉は公家・大名から庶民の娘まで、欲しいと思えば、親が泣くのを無視して奪いとった」
■「妻として堂々とかまえよ」と慰めた
こうした秀吉の女癖は長浜城主時代にひどくなったようで、ねねも悩まされていたのだろう。そんな彼女の愚痴に対する信長の返信(朱印状)が奇跡的に現存する。
天正4年と推定されるその書状には、次のように記されている。
「あなたの容姿は以前会ったときより、倍以上美しくなった。なのに藤吉郎があなたに不足があると言うのは、まったく言語道断、曲事です。あなたのような素敵な女性は、どこをどう探しても、二度とあの禿げ鼠(秀吉)は得ることができないでしょう。だからあなたも、これからは身の持ち方を快活にし、妻として堂々とかまえ、やきもちなどは焼かないようにしなさい」
信長が部下の妻の愚痴を聞き、それを慰めるというのは、一般的なイメージから大きくかけ離れているが、面白くもある。
■唯一の跡継ぎを失い、子作りに励んだ?
この時期のねねは、正妻として辛い立場に晒(さら)されていたと思われる。結婚してから15年近く経つが、秀吉との間に子ができなかった。すでに彼女は28歳。当時にあっては、初産には厳しい年齢といえた。
ちなみに秀吉は、ずっと子供ができなかったといわれてきたが、近年の研究では、南(みなみ)殿との間に石松丸(のち秀勝)をもうけていたことがわかっている。
研究者の黒田基樹氏(『羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで』角川選書)によれば、南殿は「殿」がつくので「別妻」や女房衆のうち上臈(じょうろう)(最高位)にあったとする。秀勝は天正4年(1576)10月に死去した可能性が高いとされるが、すでに元服していたらしく、黒田氏は、ねねとの結婚以前に南殿が秀勝を産んでいた可能性を指摘する。

秀吉に実子がいたという説は意外だが、その秀勝はちょうどねねが信長に愚痴った年に死去しているなら、跡継ぎを失った秀吉が、焦って手当たり次第に女に手をつけ、子作りに励むようになったのかもしれない。
■実子はいなくても、養子を立派に育て上げた
結局、ねねが秀吉の子を産むことはなかった。ただ、秀吉が迎えた幼い養子たちを、幾人も手元で育てている。そういった意味では、血のつながりはないものの、ねねは立派な母親であった。代表的な養子としては、主君織田信長の五男・秀勝、前田利家夫妻の娘・豪、織田信雄の娘・小姫、ねねの甥・金吾(兄・木下家定の子。のちの小早川秀秋)などがいる。
小早川秀秋は、関ヶ原合戦で西軍を裏切り、戦いの最中に味方に襲いかかり、家康の勝利を決定づけたことで知られている。
ねねにとって金吾は、兄・木下家定の子、つまり甥にあたった。天正10年(1582)に生まれたとされ、4歳の天正13年にはすでに秀吉の養子として登場するので、本当に幼子のときから貰い受けたのだろう。跡継ぎに考えていた於次秀勝(信長の五男)が天正10年に死去しており、秀吉は妻ねねの甥を後継者にしようとしたのだ。
この一事をとっても、秀吉にとってねねがいかに大切な存在だったかがわかる。
■便秘を心配して「下剤を飲むといいよ」
なお金吾は、秀吉と淀殿の間に鶴松が生まれると後継者から外れるが、秀吉は鶴松から届いた手紙(家臣の代筆だろう)の返書に「両人の御かかさま」と記している。「両人の御かかさま」とは二人の母という意味。つまり秀吉は、実母の淀殿だけでなく、正妻のねねも鶴松の母としていたのだ。実子のいないねねに対する配慮だったことに加え、彼女を全面的に信頼していたのである。
弟の秀長とともに、秀吉に対するねねの貢献度は親族のなかでずば抜けていた。しかも宣教師のルイス・フロイスが「極めて思慮深く稀有の素質を備えている」と述べるほど、有能であった。
2人の関係がわかる天正13年秀吉の手紙が残っているが、そこには、
「下くだしを指し候て、少し大便おり候やうに致したく候。たゞし、大便いく日ほどおり候や。目出たき左右待ち申し候」(桑田忠親著『太閤の手紙』講談社学術文庫)
と書かれている。「下くだし」とか「大便」と言葉があるのがわかると思うが、じつはこれ、秀吉がねねの便秘を心配している手紙なのだ。「下剤を飲むといいよ。何日かして大便が出るといいね。その目出度い日を待っていますよ」という意味。
■秀吉の細やかな気配りが夫婦円満の秘訣
この年、秀吉は紀州、四国、越中攻めなど各地を飛び回り、関白となって政権を樹立した。目の回るほど多忙な日々を送っていたと思われる。そうしたなか、奥さんの便秘を気遣っているわけで、夫婦円満の秘訣はどうやら秀吉の気配りにあったようだ。
ただ、ねねとは何でも言い合える関係でもあり、それは、天正15年と推定される秀吉のねねへの手紙でよくわかる。「忙しくて仕方ないけど、手紙を書きました。急いで一つ尿筒(竹製の尿瓶)を送ってくれ。それから蜜柑を一桶分送るから、あなたは五つ取り、残りは豪が三つ、一つ半を金吾、残る半分は小姫にあげてくれ」と記している。
また、秀吉が宛てた手紙のなかに「ゆるゆるだきやい候て、物がたり申すべく候」との一節がある。「久しぶりにゆっくり抱き合いながら話そうね」と語りかけているのだ。このときねねは45歳。長年連れ添った老妻への愛情が見て取れる。何とも素敵な夫婦である。

----------

河合 敦(かわい・あつし)

歴史作家

1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数

----------

(歴史作家 河合 敦)
編集部おすすめ