※本稿は、三浦瑠麗『心を整える時間 軽井沢のくらし12ヶ月』(あさま社)の一部を再編集したものです。
■SNSもニュースチェックも忘れてしまう
時折、SNSを見るのもニュースをチェックするのも忘れてしまうことがある。実務家としてはよくない癖だが、わたしはどちらかというと作家としての比率が高いから、それはそれでよいのだろう。
頭の中にどれだけのものを入れておいて、どれだけの時間寝かせてどれほど出すのかというバランスは、その人の個性にもよるし、そのときどきで変わることが多い。情報を入れすぎると、他人の模倣や大勢の意見の最大公約数になってしまう場合だってある。また色んな人の意見を観測しすぎると、新規性を探ったりバランスをとろうとして自分の意見の目盛り位置を動かしてしまいがちだ。しかし、何も入れなければ刺激はなく学びもない。手触りがわかるようなほどほどの付き合いがいい。
人はつい知識を入れ込むことを重視しがちだ。けれども、知識を入れなければという圧は無駄な競争を生んでしまう。競うように情報を摂取してそれを発信し、意見を述べることがまるで勝ち負けのかかったゲームのようでもある。しかし、勝つことが目的でさえなければ、分からないことはすなわち面白いことであり、慌てることもない。
情報の渦の中に巻き込まれてしまうと、あらかじめ被せられた結論がありとあらゆる方向から降ってくるので、物事に面白さを感じにくくなるだろう。
どこの視点から物事を視るか。俯瞰するまなざしの遠さと寄ってみる近さを併用することが、どういうわけかわたしには昔から自然と身についていた。理想と現実のバランス。客観と主観の共存。ちょっとだけ非科学的なことを言うと、いかにも天秤座らしい性格。
■カメムシを「気持ち悪い」と思う理由
物事に寄って視る、というのが観察的態度だ。カメムシをじっと見ていると、その足の動きや旋回で彼らが混乱していることが分かる。「ああ、気持ち悪い! 怖い!」と思うのが主観である。そのとき人は虫を見ているようでいて見てはいない。カメムシはたしかにむやみに音を立て飛び回ることで物体として不快感を与えているが、それよりも「嫌な虫!」という概念として存在しているからだ。
もちろん、わたしも取りたてて虫が好きなわけではない。
こうした性格、あるいは傾向は、人間関係においても利点がある。怒ることが少なくなり、人を許せるようになること。短く言えば、「嫌だな、と思っても、そうなのだな、で片付ける態度」だ。
これはどちらかというと、人工物に満ちた街中でくらすよりも自然と付き合うことで育まれていくものだと思う。人びとは放っておいても地下鉄やバスは来るものと期待するが、自然と接するくらしの中では、いろいろなことを自分から進んでしなければいけなくなる。「このボタンを押せばこうなるはずだ」と当然視できなくなるということだろう。
■「くらしの手間暇」で情報から距離を取る
「仕方ないわね」というのはわたしの口癖のようなもので、それは忘れっぽさとともに案外、生きていくうえでの勁(つよ)さにつながるものなのかもしれない。
くらしに手間暇をかける。そうすると、まるで眼鏡を着脱するように情報から距離をとるきっかけになる。ちいさい頃よく、本やビデオなどをずっと見たあとは、眼の負担を減らすために遠くの山々を見なさいと言われた記憶がある。
SNS全盛時代はいわば近視眼の時代だ。距離が近すぎる。情報が多量で、動きも速い。果たしてその情報はほんとうに知る必要があったのか、わからないようなことも次々と目に飛び込んでくる。
そうした些細な情報は、見る人の反応を素早く呼び起こしては流れ去っていく。いちいち反応している間に時間が経ち、よけいな疲れが溜まっていく。
情報から少し距離をとること。その方がかえって全体像をつかみやすくしてくれるし、ストレスも減るだろう。
園芸というのはまさにそれに適した作業であると思う。パソコンを見ながら雑草を引き抜くことはできないし、スマホ片手に土地を耕すこともできない。自然を作りかえ手を入れる過程で、相手の育つ速度に、水や肥料を吸収する程度にあわせて、こちらが悠長に、折々に気にかけてやる必要があるが、花や樹はこちらに干渉してこない。
■社交のコツは「ぜんぶまで言わない」こと
人間同士のコミュニケーションにも、本来はそのくらいの間合いが必要となる。
わたしが感じているまったくその通りに他人に感じさせることはできない。コミュニケーションの不可能性と言ってしまえばそれまでなのだけれど、少しずつ触れ合うところで妥協していくしかない。
よほどしっかりと話を聞いてくれる人、気を許した人はまた別として、平たく表現すると、社交のコツは「ぜんぶまで言わない」ということだ。
情報の密と疎を使い分けること。すなわち余白を作ることで想像の余地を残すこと。余白が与えられることで、聴く人の体験のどこかに共鳴が生まれる。まったく同じ体験である必要はない。人と人とがまったく同じにはなれないからこそ、想像の余地を残しておくことが大切なのである。
■情報化社会に生きる人間にとってのリハビリ
SNSの社会にはこの想像の余地がまるで考慮されていない。いわゆる迷惑ユーザーが生じてしまうのは、短文テキストを中心としたコミュニケーションに慣れすぎて、そこに書かれていることがすべてだとナイーブにも勘違いしてしまうからだ。
相手の140文字の投稿の中に、自分が勝手に読み込んだ主張と根拠とその出典と、価値観を異にする人への配慮、言及されていなかった数多くの論点への態度表明、誤解の生じる余地のないような断り書きなどをいっぺんに求めてしまう。
そのうえ誰しもが自分と同じように感じることを強制しだすと、それはもう荒廃しかもたらさない。こうした要求に満ち溢れた環境に晒され続けていると、思考も単純化されやすい。その人自身の豊かさも失われてゆく。
ことばというのはそもそも誤解が多いものなのだけれど、短文を字義通り、それがすべてとして受け取り考える癖がついてしまい、その人自身の思考方法も変質してしまうからだ。
ひっきりなしに飛び交う情報からすこし距離をとり、手元にあるくらしとその外縁にある自然に接する。ストレスの多い情報化社会に生きる人間にとってはいいリハビリになる。情報は人間のためにあるのであって、情報のために人間があるのではないと思うのだ。
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三浦 瑠麗(みうら・るり)
国際政治学者
1980年10月神奈川県茅ヶ崎市生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科総合法政専攻博士課程修了、博士(法学)。東京大学政策ビジョン研究センター講師を経て、2019年より株式会社山猫総合研究所代表。専門は、戦争と平和に関する国際政治理論。
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(国際政治学者 三浦 瑠麗)

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