■「右肩上がりの時代」の終焉
40~50年前の昭和の終わり頃、老人といえば小金を持っているものだった。
普通に働いてさえいれば、右肩上がりで社会は成長し、給料も増え、貯蓄もでき、家や車も買え、退職金も出、暮らしていくには十分な年金も貰えた。
1971年生まれの筆者も、子供の頃はごくあたりまえに、齢をとれば多少なりとも裕福になるもの、と思っていた。
しかし、これが大きな間違いだった。いざ社会に出る齢になってみると、就職氷河期がはじまり、それが数十年にわたって続き、挙句の果てにゼロ金利、低年金があたりまえの世の中になった。
「右肩上がりの良い時代」を多少なりとも知っている人間にとっては、比喩的な意味ではなく、現代はまさに地獄……である。
■昔からあったロストジェネレーション
「悪いめぐり合わせに生まれてきたものだ……」
バブル経済の崩壊後の1993年から2005年にかけて社会に出、厳しい就職環境から正規雇用の職を求めることが非常に困難だったロストジェネレーション世代――いわゆるロスジェネ世代の人びとの多くは、そう思っているに違いない。
しかし、本当にそうだろうか?
戦後の日本が歩んだ、高度成長からバブルに至る時代の流れは、日本の歴史を見れば、非常にイレギュラーだったことが解る。
奈良時代にはじまった律令制度は、公地公民制を謳いすべての良民に等しく口分田を貸し与えて、安定的な生活を営ませようとした。しかしこの理想は瞬く間に崩壊した。生活が安定して人口が増え、口分田が足りなくなったのだ。
足りない口分田を補おうと開拓を奨励したがために土地の所有を認めざるを得なくなり、公地公民制は脆くも崩れた。やがて荘園制の時代になると、荘園を有している大貴族や大寺院ばかりが力を持ち、国家が弱体化し機能しなくなった。そこに、暴力装置として武士が登場するわけだが、三つの幕府はそれぞれに、自らが抱えた事情で滅んでいった。
鎌倉幕府は「御恩と奉公」を謳い、幕府に協力(奉公)した御家人には領地を与える(御恩)というシステムで成立したが、外国の侵略を打ち払った後に、恩賞としての領地を与えることができずに滅んだ。
ふたつに分かれた皇室を融和に導く抜群の調停力で成立した室町幕府は、やがて自らの後継者争いさえ調停できなくなり、戦国時代を招いた。
戦国の混乱を収めた江戸幕府は、身分制度によって下の者が上の者を倒してのし上がる下剋上を阻止したが、これがために社会が閉塞し、やがては滅びの道を辿った。
いつの世も、「右肩上がりのいい時代」なんて、アッという間に終わってしまい、時代の後半はいつもロストジェネレーションなのだ。
■江戸の武士たちが苦しんだインフレーション
江戸時代、時代の割を食ったのが武士だった。
士農工商の上に位する武士たちは、君主から禄を賜ることで生計を立てていた。たとえば500石の家禄とは、500石分の米が収穫できる土地を任されているということで、それを全部とりあげては農家の生計が立たないから半分を税として取り立てた。したがって実収は250石。
江戸時代、1万石以上の土地を任されている武士を大名といった。「殿様」というと大名のイメージがあるが、200石の土地を任されている武士も、多少の例外はあるものの目下の者からは「殿様」と呼称された。だから、江戸初期に500石の家禄を有していれば、それなりに豊かだったのである。
ところが、世の中が安定すると生産性が高まる。生産性が高まれば経済が発展する。経済が発展すれば人びとが豊かになる。そして、物の値段があがる。
社会が安定したのは良いが、それにともなってインフレーションが起こると、武士の生活はたちまち打撃を受けた。
物価は高くなったが、家禄は滅多なことでは増えない。昭和45(1970)年の大卒初任給3万9900円では、令和の生活が成り立たないのと同じ理屈だ。
■江戸時代にもあった年金的な制度「捨扶持」
江戸時代には、現代の年金に相当する「捨扶持」というものもあった。
隠居した老人や、親に先立たれた武家の子供、御殿奉公して婚期を逃した女性などに与えられる禄のことで、「もう役に立たない者に捨てる気持ちで与える扶持米」という意味である。考えてみれば、酷い言葉だ。
これは家禄とは別物で、老人や女性であればその人が亡くなるまで、子供であれば成人し、一人前の武士として主君に仕えるまで支給される。
とはいえ捨扶持は、ほんのささやかなものが多く、「石」なんて単位のものは滅多にない。一人扶持とか、せいぜい五人扶持くらいが関の山だ。時代劇でよく武士が「このサンピンがァ」などと罵られるが、あれは俸給が三両一人扶持という、最下級の武士を馬鹿にしたフレーズである。
扶持は土地ではなく、現物で支給された。一人扶持がどれほどの量かといえば、江戸初期はまだ一日二食が一般的で、成人男性は一回に2合半の米を食べるとされたため、「一人の男が1日に食べる米」として5合である。だから月にすると一斗五升、年間には一石八斗になる。
本当に「食べていくのがやっと」もしくは、「少し物価があがったらまったくやっていけない」ほどの高であるが、それでも捨扶持を貰える者はごくわずかだった。
■内職で花開いた武士本来のスキル
多くの武士たちは、先祖代々の家禄のまま、物価高の世の中を生きなくてはならなかった。
昭和初年に江戸の生き残りの老人たちから思い出話を収集した『増補 幕末百話』(篠田鉱造、岩波文庫)には、武士たちの内職の有様が記されている。
「旗元中根定之助様――このお屋敷は御家来が家根釘を拵えていました。有名のもので、家根屋で知らんものはない。チョット各お屋敷の内職を申せば、彦根(井伊様)の畳糸、板倉高八(高塚八蔵)の釣糸、米津の籐細工、榊原の提灯、橘の蝋燭の芯等がありました」――などとある。この他にも、金魚、朝顔、植木に楊枝、耳掻き、傘貼り、風車などなど、武家の名物内職は枚挙にいとまがない。
武家の内職に竹製品もしくは竹関連のものが多かったのは、「細工が手軽」という一方、武家屋敷には「たしなみとして竹が植えられていた」という背景がある。
そもそも中世の武家屋敷は、敵襲に備えて高台に作られた。あるいは土を盛るなどして、簡単ながらも掘や土塁を設けるのが一般的であった。そのようにして高低差が生れた地盤を固めるには、なにより竹を植えることが手軽な対処だったのである。そればかりではない。竹は、格子に組めば矢来や馬防柵になる。
すなわち竹は、重要な軍事物資だったのである。このため、戦国時代にはたびたび、勝手に竹や木を切ること(敵方に販売したり、味方の供給物資を失ったりすること)を禁じた竹木伐採禁止令が、出されている。ゆえに武士たち……ことに下士たちは、たしなみとして竹を扱いに慣れていたのだろう。
そう考えると、屋根釘も戦場で突貫工事に使う鎹などに通じるし、糸や灯りなども戦国時代には軍事物資として重要なものであった。
江戸時代の武士たちは、すっかり戦などしなくなってしまったけれど、生活苦という環境が先祖返りを促し、忘れかけていたスキルが甦った――と見ることもできるかもしれない。
そう考えると、低年金のうえに、「人生100年時代」などといわれて働かざるを得ない状況に追い込まれている地獄のような環境も、自らの「スキル」を見つめ直すいい機会と言えるだろう。
内職に励んだ武士たちにしてみれば、矢来を組むか細工物を作るかの違いはあっても、御奉公には変わりないのだから、案外面目躍如たる矜持で、細工に励んでいたのかもしれない。
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髙山 宗東(たかやま・むねはる)
近世史研究家、有職故実家
歴史考証家、ワインコラムニスト、イラストレーター、有職点前(中世風茶礼)家元。
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(近世史研究家、有職故実家 髙山 宗東)

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