■ジャズの批評がきっかけで音楽の世界へ
世の中には美貌、名誉、仕事の能力、運などすべてを持っている人はそうそういない。しかし、音楽評論家で作詞家の湯川れい子さん(89)は、その“すべて”を持っている人と言ってもいいかもしれない。そして、圧倒的な男性社会の音楽業界の中で、華麗に才能を開花させ、欧米のポップミュージックを日本に広めた第一人者でもある。
父は海軍大佐、4人きょうだいの末っ子として裕福な家庭に生まれた。両親ときょうだいからの愛情を一身に受け「甘やかされて育ったせいか、小さい頃から自己肯定感が高い子どもでした。家の白い壁にいたずら描きをしても怒られるどころか、上手だねって褒められましたから」と笑う。
生来の美しさを生かして10代で女優になったが、そのうち友人の影響でモダンジャズにハマった。ジャズ専門誌『スイングジャーナル』に読者として投稿したのが世に出るきっかけに。ジャズの本質を鋭く追求したところ、「こんなに激しい批評を本当に女の子が書いたのか?」と評判になる。編集部から「本気で原稿を書いてみませんか?」と請われ、1961年から有名なジャズのアーティストにインタビューを行い、署名原稿を書くようになる。取材は英語だが、本格的に語学を勉強したわけでなく、洋画を見まくって覚えた「耳英語」を駆使したそう。
「当時の映画館は席の入れ替えがなかったので、朝から晩までずっと同じ映画を観ていられました。1、2本目は字幕を見て、3本目はセリフだけに集中する。そんな調子ですから、いまだに私の英語は“インチキ”です(笑)」
世紀の大スター「キング・オブ・ロックンロール」こと、エルビス・プレスリーに夢中になり、ジャズ以外のジャンルの原稿も書くようになった。ジャズはアメリカ南部で発祥し、プレスリーもまた南部ミシシッピ州の生まれだ。「ラジオから流れてきたエルビスの歌を聴いてものすごい衝撃を受けたのです。南部のイメージが私の中でグーンと広がり、ジャズと同じルーツを持つ歌手だと思ったのです」と湯川さんは語る。
■結婚のプレゼントにプレスリーがキスをしてくれた
会いたい人には絶対に会う! をポリシーにしていたが、初めて彼の曲を聴いたときから会うまでに15年もかかっている。“ロックの王様”であるエルビスは、アメリカ人ジャーナリストでさえ容易には会えない雲の上の人。どうやったら会えるのかを模索し続けた。
最初の糸口は、来日公演で湯川さんが司会を担当したアーティストのパット・ブーンだ。「エルビスに会いたい」と訴えたところ、どうやらパットの事務所とエルビスの事務所が近いらしいと突き止めた。
「そこを取っかかりに、エルビスにインタビューさせてほしいと頼みましたが、マネージャーさんに何度も断られ、会えるまで随分時間がかかりました。1度目が1971年、そして2度目が1973年。やはりエルビスの大ファンだった夫に『彼に会わせてくれたら結婚してもいいよ』って言われたんです。夫には私からプロポーズしていたので『ならば、会わせてやろうじゃないの!』って(笑)」
一念奮起した湯川さんは、史上初の人工衛星を使って世界中に放映されたコンサートを収録したアルバム『エルビス・イン・ハワイ』のライナーノーツ(解説文)を書く。そのおかげもあって日本でもアルバムが大ヒット。レコード会社に頼んで記念のゴールドディスクをつくってもらい、それを贈呈するためにプレスリーに会いに行く運びとなった。
「そうしたら、マネージャーさんが、ご主人も一緒にいらしてくださいと。二人で訪ねた時、エルビスが『結婚のお祝いに何か欲しいものはありますか?』と言ってくださったので、『私にキスしてください』とお願いしたのです。彼はポッと顔を赤らめて、夫に『よろしいですか?』と許可を取って私にチュッとしてくれました。とても清潔で、純朴な南部の青年という感じでしたね。私の英語がちゃんとしていないだけに、親しみを持ってくれたのかもしれません」と湯川さんは当時を振り返る。なんとプレスリーは二人の結婚証書にも証人としてサインしてくれた。
好きな男性と一緒に憧れのプレスリーに会え、幸せの絶頂だった湯川さん。「日本では彼はあまり正当な評価をされていませんでしたが、私は誰よりもエルビス・プレスリーの音楽性をわかっているつもりです」というほど入れ込んでいたが、残念ながらその6年後にオーバードーズにより彼はこの世を去っている。葬儀にはアメリカまで文字どおり飛んで行ったそうだ。
そして、それから何十年も経った後に、プレスリーの前で愛を誓った夫から思いもよらない仕打ちを受けることになる――。
■ビートルズの日本公演でスタッフになりすまし
プレスリーの音楽的な影響を大いに受けたビートルズにも、驚きの方法で取材している。プレスリーにキスをしてもらうより前、1966年の武道館での来日公演のときだ。
「ビートルズが来日する数年前から私がDJとして担当しているラジオ番組で、何十回も彼らのレコードをかけています。それでも日本の記者クラブは男性社会で記者会見に呼んでもらえなかったんですよ。だからあらゆる手を尽くしてインタビューの会見場に入りました。そのとき、音楽雑誌の編集長の星加ルミ子さんと一緒だったのですが、メンバーの姿が見えた時に、二人でキャーッと叫んでしまって記者たちからものすごくにらまれました……」
星加さんもビートルズが来日する前に、彼らの単独インタビューを成功させた程の実力者。しかし、湯川さんともども「音楽業界の温泉芸者、恥を知れ!」と新聞に書かれてしまう。当時の日本は、女子が人前で嬌声を上げるなんて、はしたないという時代。
そこで、湯川さんは「どうやったら会えるだろう」と考えに考えぬいた。ジャーナリストと名乗っては絶対会ってもらえない。だが、“ビートルズがコンサートのときに武道館のスタッフがつけていた腕章を欲しがっている”という情報を聞きつけ、スタッフとして腕章を届けに行く体(てい)でビートルズが滞在しているホテルへと向かった。あっさり追い払われるかもしれないが「そこから先は君の腕次第だ」と情報をくれたコンサートのプロモーターは言った。
繰り返しになるが、彼女には「特集号」というミッションがある。是が非でも取材しなければならない。腕章の下には、一眼レフのカメラを忍ばせて(それまで使ったこともなかったが)。
「メンバーはホテルに缶詰にされていたので、退屈していたのでしょう。ジョン・レノン以外は皆私を好意的に迎えてくれました。ポール・マッカートニーが私に紅茶を出してくれたり、ジョージ・ハリスンが私とリンゴ・スターの写真を撮ってくれたり。
ビートルズの曲の素晴らしさはもちろん、彼らの素顔の様子を伝えた特集は大評判になった。男性の音楽評論家はとにかく理詰めで小難しい文章を書きがちだが、湯川さんの文章には、愛情がこもったミーハーぶりが散りばめられていた。素敵なものを素敵だと素直に伝えることはとても大切なのだ。
■着物を着て男にとりすがる女なんて「いねーよ!」
湯川さんは音楽評論家と並行して作詞家としても名を馳せる。デビュー作はエミー・ジャクソンの『涙の太陽』(1965年)で、英語の歌詞を湯川さんが担当。知り合いから頼まれて急遽詞を作り、謝礼として2000円(!)を受け取ったそうだ。洋楽のように聞こえるが和製ポップスであり、その8年後には安西マリアが、これも湯川さんの日本語の歌詞でカバーして大ヒットした。
作詞家として本腰を入れ始めたのはシャネルズの『ランナウェイ』(1980年)から。元々短いコマーシャルソングだったものをシングルとして発売するとミリオンセラーになった。そしてアン・ルイスの『六本木心中』(1984年)を手掛け、小林明子の『恋に落ちて-Fall in Love-』(1986年)もミリオンセラーに迫る勢いで売れ、作詞家としての地位を不動のものとした。特に『六本木心中』は、『ランナウェイ』や『恋に落ちて』ほどのセールスには至らなかったが、その世界観に圧倒された若い女性は多かった。
当時の日本はバブル真っ盛り。夜の六本木で繰り広げられる恋模様の情景が鮮やかに浮かび上がった。アン・ルイスの歌唱も優れていたが、湯川さんの言葉選びがとにかく洒落ている。サビ部分の「あなたなしでは生きていけぬ」と言いながらも「女ですもの、泣きはしない」というフレーズが強烈であり、自ら恋を仕掛けにいく清々しさに筆者自身もノックアウトされた。湯川さんも年下の夫に逆プロポーズしているが、ご自身の恋愛観を重ねているのだろうか――。
「それまでの歌で表現される女性は、なぜか着物を着て髪をアップにして、男に捨てないでととりすがる人が多くて。そんな女なんていねーよと思っていました(苦笑)。要するに当時の演歌を中心とした作詞家って男性ばかりで、彼らが妄想する都合のいい女を描いているんですね。でも、実際の女性はそうじゃない。多くの女性はこの男はダメと気づいたら、スッパリ切っちゃう。私の周囲のリアルな女性たちを描きたいと思ったのです」
80年代から作詞を本格的に始めたが、当時の作詞家はレコード会社の専属が多かった。そんな中でフリーランスの湯川さんは外様扱い。だからこそ、比較的自由に仕事ができたのかもしれないと言う。ただ、ヒットが続くと、作詞家協会やJASRACに入ってくれないか、という要請があり、そのうち理事の選挙に出てくれないかとエスカレートし、男性社会の面倒臭さに巻き込まれていくことになった。
当時の音楽業界は現場の99%が男性であり、セクハラやパワハラが当たり前の中で湯川さんは艶然と笑って孤軍奮闘。女性の活躍に嫉妬した男たちがタッグを組んで立ち向かってきたこともあったという。
「いろいろな嫌がらせはありましたけれど、でも結構冷静に見ていましたし、そんなことにいちいちかまってなんかいられないわよと思っていました(笑)」
■心を抉るような夫の裏切り
湯川さんは40歳で高齢出産をしており、15年ほど仕事と子育てに追われる毎日を送った。仕事が大好きでたまらない湯川さんは、日中は小学校の校長もした義父の手を借りるなどして仕事に出かけ、帰宅後も常に原稿の締切りに追われていた。お手伝いさんにも助けてもらったが、家にいる間は朝食をつくって子どもを送り出した。家事・育児に夫はまったく協力的ではなかったのが、いかにも昭和的。子どもをおんぶし、地味なひっつめ髪で仕事をしている当時の写真が残っており、そこには世間がイメージする華麗な“湯川れい子”の姿はない。
仕事でも家庭でも、苦しいことはたくさんあったはずだが、音楽の仕事に邁進した。プレスリーやビートルズ以外にも、ローリング・ストーンズ、マイケル・ジャクソン、マドンナ、フリオ・イグレシアスといったポップスターたちにインタビューをしては記事を書き、スターたちの知られざる素顔に触れている。音楽評論家として名声を欲しいままにし、作詞家としても大成功を収めた。冒頭のように、“湯川れい子”はすべてを持っている稀有な女性なのだ。
「幸せな人生ですよね?」と問うたところ、湯川さんは、一瞬間を置いて、「うーん……」と答えを濁した。
「60歳近くになって、夫がある日、置き手紙をして家を出てしまったんです。『助けてください。子どもができました』と。でも、前日の夜まで、私たちは仲良く手をつないで散歩していたんですよ。何がなんだかわからないまま、私と息子は取り残されました。しかも6億円もの借金を残されて……」
実業家だった夫は、バブルの崩壊で事業に失敗して多額の借金をつくったうえに、よその女性との間に子どもまでもうけていた。世界で一番愛し合っている夫婦だと思っていたが、一夜にしてそれは幻想に過ぎなかったことがわかった。借金返済のために自宅は競売にかけられ、経済的な困窮にも陥った。何より思春期の息子へのダメージが心配だった。
さすがの湯川さんも呆然自失状態だったかと思いきや、大好きな仕事に向き合っている時は嫌なことを忘れられたし、夫の両親(義両親)が湯川さんと息子(孫)を支えてくれた。完全に立ち直るまでには時間はかかったが、前向きに生きることができたそうだ。「でもね。多かれ少なかれ、生きていれば人は誰しも地獄を抱えているのではないでしょうか?」としみじみと語る。
しかし夫とはそれから30年後には、“親友”として関係を復活させた。夫は再婚相手とも別れて、30年ほど一人暮らしになり、最期は、息子とともに湯川さんが親友としての夫を看取ったという。今は彼が残した会社の顧問にも就任している。
「結局、私は彼を嫌いになれなかったんですね。やっぱり心底好きだったのだと思います」
亡くなった元夫に対して愛情を込めて、「元旦那」を省略して“元旦ちゃん”と呼ぶ。なんという愛の深さ、懐の深さなのだろう。
■「あいうえお」の法則を胸に生きる毎日
湯川さんは89歳の今でもラジオの番組のレギュラーがあり、その準備のために週のうち3日は書斎にこもって調べ物をしている。音楽評論はもちろん、音楽療法学会の理事でもあり、土日には講演会を行い、ゆっくりと休む暇はない。
「あと何年仕事がやれるか見当もつきませんけれど、でもオファーがあって、体力的にOKであればやっていきたいですね。まだ手をつけていないのですが、来年は1冊本を出す予定でいます」
加えて月に1回は「木曜塾」という会を主催し、著名人やアーティストを呼んでトークイベントも展開している。2025年の10月は歌手の原田真二がゲストだったが、コメントは歯切れ良く、彼との掛け合いも実にお見事だ。
SNSも駆使し、Xで有名なアイドルについて言及したことで大炎上したのは、最近のことだ。
「どんどんリツイートされて新聞記事にもなりましたけど、まあ、いいんじゃない? って感じ(苦笑)。でも、集団になって、意に沿わない意見を攻撃しようとするのは良くない風潮だなと。最近のSNSには精神的に余裕がない人が多いのかなと思いますね」
と炎上も意に介さない。
落ちこむどころか、相変わらず、日本人離れした美しさも保ち続けている。(失礼ながら)手元が見えにくいご年齢のはずが、アイラインもつけまつ毛もキレイに施され、一本千円の三つ編みを使った華やかなドレッドヘア。洋服はハイブランドではないがファッショナブルで、高いヒールの靴も履く。「毎日1時間かけてお化粧して、“湯川れい子さん”に仕上げるんですよ」とユーモアたっぷり。
そして、「今の推しは藤井風さん」と、いい意味のミーハーぶりも健在だ。音楽性の高さを熱く語っており、藤井風のアルバムのライナーノーツも手掛けている。
「私、幸せになるための“あいうえおの法則”を実践しているんです。“あ”は会いたい人に会いたい、“い”は行きたいところに行きたい、“う”はうれしいことがしたい、“え”は選ばせてもらいたい、“お”はおいしいものが食べたい。この鉄則はきっと、誰にとっても生きるエネルギーにつながりますよ」
特に“え”には深い感慨を覚える――。
人生で起きているすべての出来事は自分自身が選んだこと。夫だった男性の不実は許し難いことだが、相手のせいにはしなかった。最後は「元旦ちゃん」と呼び、良好な関係を取り戻したのだから。
きっと最期まで、湯川さんは「あいうえお」を実践し、まっとうしていくのだろう。
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湯川 れい子(ゆかわ・れいこ)
音楽評論家・作詞家
1936年東京都出身、山形・米沢市育ち。1960年(昭和35年)、ジャズ専門誌 『スウィング・ジャーナル』 への投稿が認められ、ジャズ評論家としてデビュー。その後、16年間にわたって続いた 『全米TOP40』 (旧ラジオ関東・現ラジオ日本)を始めとするラジオのDJや、早くからエルヴィス・プレスリーやビートルズを日本に広めるなど、独自の視点によるポップスの評論・解説を手がけ、世に国内外の音楽シーンを紹介し続けて今に至る。作詞家として 『涙の太陽』、『ランナウェイ』、『ハリケーン』、『センチメンタル・ジャーニー』、『ロング・バージョン』、『六本木心中』、『あゝ無情』、『恋におちて』などヒット曲多数。各レコード会社のプラチナ・ディスク、ゴールド・ディスクを数多く受賞。ディズニー映画「美女と野獣」「アラジン」「ポカホンタス」「ターザン」などの日本語詞も手がけている。
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(音楽評論家・作詞家 湯川 れい子 取材・文=東野りか)

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