■宣教師が書き残した「安土城に次いで有名な城」
イエズス会の宣教師、ポルトガル人のルイス・フロイスは、著書『日本史』に次のように書いている。
「明智は、都から四里ほど離れ、比叡山に近く、近江国の二十五里もあるかの大湖(琵琶湖)のほとりにある坂本と呼ばれる地に邸宅と城塞を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった」(松田毅一・川崎桃太訳)
「明智」とは、いうまでもなく明智光秀のことである。光秀が琵琶湖岸に築いた坂本城(滋賀県大津市)が、織田信長の安土城と並び称されるほど名高かった、と述べているのだ。
また、光秀と親交があった公卿で、吉田神社の神主でもあった吉田兼見の日記『兼見卿記』には、元亀3年(1572)12月24日の条に、「明智為見廻下向坂本、杉原十帖、包丁刀一、持参了、城中天主作事以下悉く披見也、驚目了」と記されている。坂本城で天主(守)を建設する現場を見学し、(壮大なので)驚いた、という内容だ。
信長が安土城を築きはじめたのは天正4年(1576)で、天守が完成を見たのが同7年(1579)なので、光秀の坂本城にはその6年ほど前に、すでに一定規模の立派な天守が建っていたことになる。坂本城が安土城と並んで「近世城郭の先駆け」と評されるゆえんである。
■大小の天守が建ち並ぶ水城だった
元亀2年(1571)9月の比叡山焼き討ちののちに、信長から近江国滋賀郡(主に大津市の瀬田川以西)をあたえられた光秀が、信長の命によって、京都と比叡山を監視する目的で築いたのが坂本城だった。
三重の水堀で囲まれ、それぞれの堀に琵琶湖の水が引き入れられた水城だった。また、織田信長が琵琶湖の制海権を握るための拠点、という位置づけでもあったと考えられている。
堺の豪商の天王寺屋津田宗達から3代にわたる茶会記録である『天王寺屋会記』によると、宗達の嫡男で光秀の茶の師匠だった宗及が、天正6年(1578)1月11日、光秀から坂本城に招かれ、茶会を開いている。
つまり坂本城内で船に乗り、安土城まで行くことができたという。これにより、両城のあいだに航路があったことがわかる。
また、『兼見卿記』の天正10年(1582)1月20日の条には、「為惟任日向守為礼坂本へ被下、御祓・百疋持参、面会、於小天主有茶湯・夕食之儀、種々雑談、一段機嫌也」と書かれている。茶の湯が催された場所が「小天主」と書かれており、この記述から、坂本城の天主(守)は1棟ではなく、大天守と小天守があったことがわかる。
■琵琶湖に沈む「幻の城」の石垣
しかし、坂本城は長年、「幻の城」と呼ばれてきた。天正10年(1582)6月2日の本能寺の変ののち、6月13日の山崎合戦で光秀が敗退すると、翌14日、光秀の娘婿の明智秀満は光秀の妻子と自分の妻を刺し殺したうえで、火を放って自害。壮麗な城は灰燼に帰してしまった。
その後、羽柴秀吉の命令で丹羽長秀がいったん再建し、城主になった。賤ケ岳合戦のための軍事基地としても使われたが、天正14年(1586)、城主だった浅野長政は、やはり秀吉の命であらたに大津城(大津市)を築いて移り、坂本城は廃城になった。
このようにわずか15年ほどしか存在せず、石垣をはじめとする資材は大津城築城に使われたため、遺構がほとんどなかった。それに、安土城に次ぐ城でありながら、絵図もまったく残っていなかった。
こうして歴史的価値と裏腹に打ち捨てられたまま、地上から痕跡が消え、住宅が建ち並ぶにいたった。昭和54年(1979)まで発掘調査さえ一度も行われず、琵琶湖の水位が下がったとき、湖底から石垣の一部が現れるのを除けば、ほとんど顧みられることもなかった。
■40年ぶりの調査で国指定の史跡に
そんな城が令和7年(2025)9月18日、国指定の史跡になったのである。国の文化審議会で評価されたのは、「織豊系城郭の立地や構造、築城技術等を知ることができる重要な城郭である」という点、そして「琵琶湖を通じた京への流通拠点に築城された政治的、軍事的、経済的に重要な城郭である」という点だった。
では、なぜいま坂本城が、こうして急に注目されることになったのか。さかのぼれば、地上に痕跡を残していない坂本城の遺構がはじめて具体的に確認されたのは、昭和54年に旧本丸と推定される場所で行われた発掘調査だった。その際、礎石建物の跡や大量の瓦などが発見され、御殿の跡ではないかと推測された。
それから40年以上を経た令和5年(2023)、宅地造成にともなう発掘調査が行われ、大きな発見があった。本丸と推定される湖岸から西に約300メートルの場所で、長さ30メートルを超え、高さ1メートル(元来は1.5メートルほどで、上部は崩されたと考えられる)の野面積の石垣で固められた、幅9~10メートルの堀の跡が見つかったのである。
また、堀に付随する舟入の遺構、礎石建物の跡などが発見され、坂本城の外郭すなわち三の丸の跡だと判断された。ほとんどが大津城に運ばれたはずの石垣が、この規模で残っていたことは、かなりの驚きをもって受け入れられた。
■湖底の遺構調査でわかったこと
この現地調査には全国から2000人以上が参加して、信長の時代における屈指の城の遺構に対する、関心の高さが浮き彫りになった。
折しも、琵琶湖の水位の低下により、本丸跡の坂本城址公園近辺でも、本丸のものと思われる石垣の遺構が、水面に姿を現すことが多くなっていた。この湖底の遺跡に関しても、大津市と京都橘大が約5300平方メートルについて、令和4年(2022)から、ダイビングやシュノーケリングなどによる共同調査を行ってきた。
その結果、湖中に残る石垣の北側や南側で石群や礫(れき)群が見つかった。湖中の石垣の南北の延長線上に位置する石群は、石の大きさが最大80センチほど。一方、礫群は湖岸近くに多くあって、沖に向かって張り出している部分もあった。船着き場や防波堤のような施設の跡だと考えられている。
こうした一連の発見を受けて、昭和54年に調査された本丸と推定される場所と、今回発見された三の丸の石垣と堀の、合わせて約1万1700平方メートルが、いよいよ国指定史跡になったのである。
■開発業者が理解してくれたことの価値
各所の遺構が連続して確認されると、坂本城の全体としての構造や、琵琶湖との関係性などが立体的に推定できるようになる。実際、今回の石垣と堀の発見で、三の丸の位置が、これまで想定されていたより100メートルほど琵琶湖側であることが判明した。
こうした考古学的な成果によって、往時の坂本城の規模も次第に明らかになり、模型やCGなどにより、かなり具体的に復元することも可能になるのではないだろうか。
また、開発業者が史跡の保存に理解を示したことも大きい。それにより、今後は遺構を整備して史跡公園として公開し、湖中の石垣を含めての景観整備にも期待がかかる。
こうした遺産を観光の振興に活かすことも、地域にとって重要なのはわかる。だが、観光のシンボルを拙速にこしらえるようなことはせず、歴史の実像が見えるような場所へと、地道に整備されることを強く望みたい。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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