なぜドイツは今も強制収容所関係者の犯罪追及を続けるのか。『終章ナチ・ハンター ナチ犯罪追及 ドイツの80年』(朝日新書)を出した朝日新聞記者の中川竜児さんは「ナチスの犯罪者を裁くドイツを取材すると、国際社会に対して民主的国家として再生するというドイツ社会の宣言だとも受け取れる」という――。

■Aから入り、Zで死に至る強制収容所
ベルリンに近いザクセンハウゼン強制収容所は、収容者に労働させ、搾取することを目的とした場所だったが、処刑場や火葬場(焼却炉)、ガス室も備えていた。処刑場などはタワーAから見ると、敷地の左手奥にあり、「ステーションZ」と呼ばれていたという。
収容所跡に整備された追悼博物館の副館長アシュトリット・ライは、理由をこう説明した。「収容者はまずタワーAから入って、Zで死に至る、そういう流れだったのです」
ステーションZがあった場所に建てられた屋根付きの施設を目指して歩く。処刑をしたという坑が残り、破壊された焼却炉が並んでいた。
ザクセンハウゼンでは過酷な強制労働や病気、飢え、処刑などにより、推定で10万人が命を落としたとされる。
元看守の男性はこの地で勤務した1943年7月から1945年2月までの期間に、約3300人の殺害を幇助(ほうじょ)したとして訴追されていた。ただ、男性の罪は「何年何月何日何時ごろに、この収容者をこういう方法で殺害した」という具体的なものではない。
男性は駅に到着した収容者の移送や収容所内での警備を担当していたとされるが、収容者を処刑したり、ガス室に押し込んだりした、といった証拠はなかった。看守としての勤務期間中にこの収容所で殺害された人々の大量殺害を手助けした、ということだ。言い換えれば、収容所の究極の目的が「大量殺害」だった以上、その収容所の日々の作業を支えた看守には、殺害に関して責任がある、という理屈だ。
■80年前の被害者の証言を集める
男性がここに勤務していたことは、資料などから、おそらく動かせない事実だ。
だが、広大な敷地を歩いて大量殺害の痕跡を見ていても、その男性の行為のイメージはなかなかつかめない。
購入した書籍には、親衛隊員らによる拷問や処刑シーンの写真や挿絵が載っていた。ビルト紙が掲載していた男性の現在と過去の写真を思い出し、「これがもし彼だったとしたら」と想像してみるが、やはり難しい。当然かもしれない、もう80年近く昔の出来事なのだから。
ライはザクセンハウゼンの被害者の証言を集め、この元看守の男性が所属した隊がどんな任務に就いていたかなど、訴追に向けた情報収集に協力した。「確かに彼は直接手を下していないかもしれない。でも、収容所は多くの人間によって運営されていた。小さな任務でも、それがなければ動かない、とても複雑な組織だった」。そうした収容所の実態も、時間をかけた研究の積み重ねによって明らかにされてきたものだという。
■91歳の元看守を禁固5年にしたミュンヘン地裁
ドイツで現在、こうした裁判が可能になっているのは、2011年の判決が背景にある。1979年に殺人罪の時効を撤廃したドイツは、今もナチの犯罪追及を続けている。
だが、捜査当局にとっては、当事者が殺害に直接関与したことを第三者らの証言などで立証しなければならないことが「壁」として立ちはだかる。
時の流れとともに、直接的な証拠や証言を集めるのは極めて困難になるからだ。敗戦が濃厚になった当時、各地の収容所などで、処刑施設や証拠書類が破壊・廃棄されたことも影響している。
2011年の判決は、この「壁」を取り払った。ドイツ占領下のポーランドにあった収容所の元看守、ジョン・デミャニュク(当時91歳)に対して禁錮5年の判決を言い渡したミュンヘン地裁は、「大量殺人を目的とした収容所に勤務した事実」を証明できれば、殺人幇助罪が成立すると導いた。
デミャニュク側は「収容所の看守をしていたことはない」と反論していたが、地裁は、配属記録などから勤務の事実は間違いないと判断した。
■「私は被害者であって加害者ではない」と主張
この判決については本書『終章ナチ・ハンター ナチ犯罪追及 ドイツの80年』で詳述しているが、デミャニュクはウクライナ出身の旧ソ連軍兵士だった。ドイツ軍の捕虜となった後、訓練を受けて看守になった。戦後はアメリカに移住したが、過去の経歴が発覚。イスラエルの裁判所で「別の収容所の看守」だったとして死刑判決を受けた。しかしその後に人違いが判明し、改めてドイツで裁判を受けるという、極めて複雑な経緯をたどった人物だ。
デミャニュクはドイツの裁判所では黙秘したが、「私はナチの被害者であって、加害者ではない」と一貫して主張していた。英紙ガーディアンによると、有罪判決を受けた後、弁護人は「ドイツがホロコーストに対する責任を逃れるために、外国人がドイツ人の犯罪の代償を負うべきなのか?」と憤ったという。
デミャニュクは上訴したが、判決の翌年の2012年、高齢者施設で亡くなった。
この判決を追い風に、ドイツの当局は改めて訴追の可能性がある人物のリストアップを進めた。その波は今も続いている。
■強制収容所のタイピストも被告に
2022年6月には同じザクセンハウゼン強制収容所で看守を務めていた別の男性(当時101歳)に禁錮5年の判決が、その年12月には、シュツットホーフ強制収容所のタイピストだった女性(同97歳)に執行猶予付き禁錮2年の判決が言い渡された。収容所に勤務していたとはいえ、直接の加害行為に加担しうる立場にあった親衛隊員や看守ではなく、一般の事務職でも「大量殺害を目的とした収容所に勤務していれば有罪」とみなされ、注目を集めた。
女性は、収容所の所長らの口述指示を文書に起こす作業などをしていた。商業学校を卒業した後は銀行に勤めており、優秀な事務員だったという。ガーディアンなどによれば、戦後も逃げ隠れはしておらず、収容所の元所長が被告になった裁判で証言もし、すでに知られた存在だった。それが、70年以上たって、本人が被告として法廷に立たされることになった。
高齢者施設で生活していた女性は、初公判の日に逃亡を図り、拘束されたこともあった。裁判では基本的に口をつぐんでいたが、終盤に「あの時、シュツットホーフにいたことを後悔している。それが私の言えるすべてです」と述べたという。

■ナチスの“大物”はどうなったのか
同じ強制収容所の元看守の例、さらには殺害という行為から離れた場所にいたタイピストであっても、殺人幇助罪が適用されている以上、今回の男性も裁判になれば、かなり高い確率で有罪になるだろうと予想できた。
ただ、看守やタイピストなど「小物」に対する裁判には、批判の声もある。そこには、「大物」はどうなったのか、という問いが横たわっている。
ナチスの犯罪者を追い続けたナチ・ハンターのジーモン(サイモンとも)・ヴィーゼンタールの指摘はこうだった。「昔のナチ連中が、相も変わらず、枢要の地位にずらりと並んで居座っている」
高齢になったとしても、組織の末端にいた下級職員であっても、罪を問うことの意味はどこにあるのだろう。
一般に刑罰の目的は「応報」と「予防」と言われる。応報は被害者が受けた被害の反作用として、加害者を罰する。予防は二つに分かれ、加害者本人が再び犯罪に手を染めないようにするという「特別予防」と、他人(社会)が同種の犯罪をしないようにするという「一般予防」の側面がある。
今のナチ犯罪の裁判はどちらだろう。やはり応報の側面がまずありそうだ。しかし、元看守やタイピストの殺人幇助罪の対象となる被害者は数千、時には万単位にもなる。それに見合う刑がそもそも存在するのだろうか、との疑問はわく。

■ナチス裁判が贖罪を伝える相手とは
予防はどうか。タイピストの女性は戦後、犯罪とは無縁の生活をしていたという。法廷供述からしても、彼女が「再犯」をするとは思えない。残るのは、社会に対する予防だ。二度と、こうした犯罪を引き起こさないために、裁きが必要ということだろうか。
あるいは、未曽有の犯罪を国家として引き起こしたことへの国際社会に対する贖罪(しょくざい)もあるかもしれない。時効を撤廃し、容疑者がいる限り追い続けることは、民主的国家として再生するという、戦後のドイツ社会の宣言とも取れる。
歴史家でもあるライの答えも、それに近いものだった。「私たちはここで何があったかを伝えなければならないのです」。伝える相手は、ドイツ社会であり、国際社会だという。
そして被害者や遺族にも言及した。「被害者は自分の受けた痛みを決して忘れられない。
傷や痛みをずっと抱えて生きている。証言し、被害を認めてもらう機会が必要です」

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中川 竜児(なかがわ・りゅうじ)

朝日新聞記者

1974年、愛媛県生まれ。横浜市立大学文理学部で哲学を学んだ後、2000年に朝日新聞社に入社。鳥取や大津、京都、大阪など主に関西で勤務した。2010~11年、ドイツに語学留学。金沢総局次長を経て、2021年12月からGLOBE編集部員。GLOBE特集では「変わる刑務所」「たかが髪、されど髪」「Rock is Back」「Non Alcohol 醒めゆく時代」などを手がけた。


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(朝日新聞記者 中川 竜児)
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