■幕府の弾圧を乗り越えた蔦屋
2025年の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(NHK)の主人公は江戸時代後期の出版業者・蔦屋重三郎でした。重三郎を熱演してきたのは、俳優の横浜流星さん。重三郎は江戸の日本橋に店を構え、大田南畝、恋川春町、山東京伝、曲亭(滝沢)馬琴、喜多川歌麿、葛飾北斎、東洲斎写楽といった才能あふれる戯作者・浮世絵師を見出し、その才能を開花させてきました。
しかし、田沼意次の政権が終わりを迎え、老中・松平定信による寛政の改革がスタートすると、重三郎の商売に暗雲が立ち込めてくるのです。徳川幕府は版元に対して出版取り締まり命令を下し、出版物の表現内容に対し、規制を強めてくるのでした。寛政3年(1791)には蔦屋が刊行した山東京伝の『娼妓絹籭』『青楼昼之世界錦之裏』『仕懸文庫』という洒落本が遊廓を題材とした猥りで不埒(ふらち)なものということで、摘発されます。京伝は手鎖50日、重三郎は罰金刑となりました(重三郎は財産の半分を没収されたとの見解もあれば、いや、そうではないとの異論もあります)。
弾圧を受け、蔦屋の寛政3年の刊行物は『吉原細見』(吉原遊廓の総合情報誌)1種、黄表紙4種、洒落本3種、狂歌本3種の合計11種と減っていきました(前年は21種)。その後、蔦屋は戯作者の過去の名作を改題し刊行したり、蔦屋から刊行された絵本の版権譲渡も行っているので、経営等で苦労している様が垣間見えます。
蔦唐丸(蔦屋重三郎)作、北尾重政画『身体開帳略縁起 3巻』、寛政9年(1797)。重三郎は蔦唐丸のペンネームで黄表紙の文章も書いていた。死去した年に刊行したこの本の巻末には新年の挨拶に訪れた裃姿(かみしもすがた)、蔦屋の家紋を付けた蔦重が描かれ、「今年は執筆者がいないので、自らの作をお目にかける」という口上が記されている。
■脚気が進行、48歳で死去する
しかし、そのような冬の時代の最中にあっても、重三郎は新たな才能を発掘しようと目を光らせていたと思われます。寛政6年(1794)に「謎の浮世絵師」として現代においても有名な東洲斎写楽の役者絵を売り出したこともその表れでしょう。写楽の活動は翌年始ですぐに止まってはしまうのですが……。
写楽との関係が終わりを迎えた頃、重三郎はそれまでに関係が冷え込んでいたとされる浮世絵師・喜多川歌麿の作品『青楼十二時』を刊行しています。浮世絵界に足掛かりを残しておくために歌麿と「復縁」したとも考えられます。
ところがそれからしばらく経った寛政8年(1796)の秋、重三郎は重い病となります。重三郎の病は脚気(かっけ)(ビタミンB1が欠乏して起きる病気)だったとのこと。彼の病は本復することなく、運命の日、寛政9年(1797)5月6日を迎えるのでした。
■「自分は今日の正午に死ぬだろう」
その日、重三郎は「自分は今日の正午に死ぬだろう」と予言したとされます。それだけ気力・体力含めて衰えていたのでしょう。自らの死期を悟った重三郎は、「家事」について「処置」した後に妻と別れの言葉を交わします。ちなみに「べらぼう」では、重三郎の妻は「てい」と言い、女優の橋本愛さんが演じています。
妻と別れの言葉を交わした重三郎でしたが、予告した正午になっても息絶えませんでした。その時、重三郎は「命の幕引きを告げる拍子木がまだ鳴らないな」と述べ、笑ったとされます。ところがこの言葉の後、重三郎が口を開くことはありませんでした。同日夕刻、重三郎はこの世を去ります。48歳でした。
重三郎は生前「志気英邁(しきえいまい)」で細かいことにこだわらず、人と接する時は「信」をもって接したとされます。そうした性格が一癖も二癖もある多くの作家を惹きつけて、共に仕事をしようという気にさせたのでしょう。重三郎の世話になったこともある滝沢馬琴は気難しい性格と評されていますが、重三郎の死を悼み「夏菊にむなしき枕見る日かな」との歌を残しています。
■2代目蔦屋になったのは誰か
重三郎は48歳で亡くなりますが、蔦屋はそれで途絶えた訳ではありません。重三郎には跡継ぎがいたのです。しかしそれは重三郎と妻との子ではありませんでした。このことから二人の間には子はいなかったと推測されます。
それは番頭の勇助でした。重三郎の死後に番頭・勇助が養子となり2代目「蔦屋重三郎」となるのです(本稿では紛らわしいので、勇助もしくは2代目と記述していきます)。重三郎が亡くなる直前に「家事」について「処置」したことは先述しましたが、おそらくその時に「勇助に跡を継がせよ」ということを妻に話したと思われます。番頭の勇助は重三郎からかなりの信頼を得ていたと考えられます。
2代目「蔦屋重三郎」となった勇助ですが、日本文学研究者の評価は残念ながら高くありません。例えば「初代が敷いてきた路線をそのまま延長していく技倆(ぎりょう)は二代目には備わっていなかった」などと評されているからです(鈴木俊幸『蔦屋重三郎』平凡社)。刊行された黄表紙などが低調だったこともその評価に響いているようです。
■北斎をプロデュースした2代目
勇助は初代・重三郎が築いてきた人脈を確保していました。葛飾北斎は初代・重三郎よりも、2代目との関係の方が深かったとの説もあります(北斎と重三郎はそれなりに仕事をしていたとの異説もあり)。北斎は2代目のもとでは、狂歌絵本を描いたりしています。北斎は初代・重三郎の死から2年後(1799年)に狂歌絵本『東遊』を蔦屋から刊行。
その中には耕書堂(重三郎の書店)の様子も絵として描かれているのです。蔦屋で働く人々の姿、耕書堂で浮世絵を物色する武士の姿などが描かれています。喜多川歌麿と初代・重三郎は大河ドラマで描かれたように深い関係にあり(時に冷却期間もありましたが)、前に述べたように生前には「復縁」していました。歌麿は2代目のもとでも絵を描いており「山姥と金太郎」などが知られています。
山東京伝や滝沢馬琴も2代目のもとでも仕事をしているので、勇助はこうした作家たちとも良好な関係を保っていたのでしょう。ちなみに『東遊』で描かれた蔦屋の店頭にも、山東京伝の作品『忠臣(大星)水滸伝』が宣伝されています。同書は北尾重政が画を描いています。重政もまた初代・重三郎と共に仕事をしてきた仲でした。
日野原健司(太田記念館主席学芸員)は勇助について「希代のプロデューサーだった初代と才能を比べるわけにはいかないのでしょうが、人柄は良かったのではないでしょうか」と述べています(「『AROUND蔦重』20 二代目蔦重――敏腕プロデューサー亡き後の耕書堂」『美術展ナビ』)。
先程も述べたように癖のある作家たちとやり取りしていくには、人柄が良くなければやっていけない面もあるでしょう。もちろん、それは初代・重三郎にも言えることですが。ですから筆者は初代も2代目も人柄は良かったと考えています。
■後継者は初代蔦重を超えられなかった
蔦屋は5代目まで続きますが、天保8年(1837)には『吉原細見』(吉原遊廓の総合情報誌)の株を伊勢屋三次郎に譲渡しています。初代・重三郎はこの『吉原細見』の編集や刊行で頭角を現し、ビジネスを展開してきました。その株を譲ったのですから、よほど経営に困窮していたのでしょう。
経営を好調のまま持続させていくことは難しいものです。初代・重三郎でさえもこれまで言及してきたように商売が順調な時ばかりではありませんでした。初代・重三郎は自分の後継者たちの経営を泉下からどのような想いで見つめていたでしょうか。
参考文献
・松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002年)
・鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社、2024年)
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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
歴史研究者
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。歴史研究機構代表取締役。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。
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(歴史研究者 濱田 浩一郎)

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