■人手不足とは無縁の町工場
岐阜県の山里に囲まれた工場を訪れると、79歳と18歳の従業員が隣り合って作業に打ち込んでいた。
79歳男性は、昨年、妻の介護から復帰したばかりの最年長従業員だ。カメラを向けると裏ピースをつくり、若者たちは笑顔で応えてくれた。年齢も境遇もまるで違う人たちが一緒に働く。これが工場の日常だ。
Tシャツプリント加工会社の「坂口捺染(さかぐちなせん)」は、衰退産業とも呼ばれるアパレル加工業界にありながら、年齢・国籍・健康状態・雇用形態を問わない「多様性採用」を徹底している。
例えば、高齢者、シングルマザー、ハンディキャップのある人、引きこもりを経験した人、現在病気の治療をしている人など、“働きづらさ”を抱える人を積極的に受け入れている。
3代目社長の坂口輝光(てるみつ)さんは、従業員の高齢男性と肩を組み、「このおっちゃんは俺に畑の一角を買わせて、休憩中に自家栽培しとるんだわ。
人手不足が叫ばれるなか、坂口捺染には“働きづらさ”を抱えた人たちを含めて約200人が集まり、応募も途切れない。なぜこの町工場には、人が自然に集まり続けるのか――。
■社長らしからぬ“緩い空気”
この会社の採用の基準は、会社の都合ではなく「社会の現状」だ。特に子育て世代やシニア層など、働きたくても働きにくい人たちに目を向けているという。「働けない人たちがおるんやったら、うちがそういう会社になれば困らないやんっていう考えなんだわ」と坂口さんはあっけらかんと語る。
坂口さんは約200人の従業員の顔と名前、性格をすべて把握している。通りかかる従業員には「元気しとる?」と声をかけながら、「あいつ、年中パーカー着とるんだわ。変わっとるやろ」「あの子はな、ずっと引きこもりだった。今頑張って働いとる」と、背景まで私に教えてくれた。
坂口さんの風貌も相まって、その物言いはどこか憎めない。彼と話す従業員たちも目上の人と話しているというより、近所のお兄さんと話しているような自然な距離感だ。この心地よい“緩さ”こそが、幅広い人たちを受け入れ、結果として人が集まり続ける組織文化を生んでいる。
■「人と同じこと」を嫌う少年だった
1982年、坂口さんは岐阜市で生まれた。幼い頃から「人と同じこと」を嫌い、常に自分の行動軸で生きてきた。
中学では応援団長や学級委員長を務める一方、周囲と同じ行動はとらず、しばしば先生に怒られ、両親はたびたび呼び出された。同級生に無視をされたり、机をわざと離されたりしたこともあったが、それでも「そんなことより、女の子と一緒にいる方が楽しい」と気に留めなかった。
高校卒業後、父親から「どうせ日本にいても働かないだろう」と勧められ渡米。カリフォルニアの短大を4年かけて卒業した。
22歳で6歳年上の日本人女性と結婚した後も、日本で就職せず、妻とともに「海外で自分たちがどこまでできるか挑戦しよう」と旅に出る。
ハワイからロサンゼルス、そしてカリフォルニアへ。その期間は100日を超えた。
■異文化で身に付けた“ギバーの精神”
坂口さんはただ一人の日本人として彼らと共に土木の仕事に加わった。メキシコ人たちはよく問題を起こし、「捕まったから刑務所に迎えに来てくれ」という連絡が坂口さんのもとに入った。時には嘘をつかれたり、仕事をすっぽかされたりなどしたが、彼はまったく嫌に思わなかったそうだ。
むしろ脳裏にあったのは、「とにかく仲間を喜ばせたい」という思い。頼まれた以上の仕事を引き受け、メキシコ人たちから「よくやった、ありがとう」と感謝されることが何よりの喜びになっていった。
坂口さんはこう語る。
「昔からだけど、『テイク(受け取る)』が嫌いなんだわ。『ギブ・アンド・テイク』も好きじゃない。ひたすら『ギブ(与えること)』でいいと思ってる。たとえうちの従業員に100回嘘をつかれたとしても、俺は101回目を本気で信じるよ」
異文化の地で鍛えられたこの徹底した「ギバーの精神」は、のちに坂口捺染の経営哲学となる。
■求人広告を出しても定着しなかった
2004年に帰国し家業に就いた坂口さんは、現場の課題に直面する。工場は古く、残業が多い。時期により仕事量の差が激しい。月30万円を投じて求人広告を出しても、入社した人がすぐに辞めてしまう――そんな状況だった。
「暑いし、狭いし、臭う。男しかいない」と、坂口さんは思い出しながら首を振った。当時の家業は、働く人にとって魅力的な環境ではなかったのである。
坂口さんは「このままでは人が来ない」と危機感を覚え、選んだのは設備投資だけではなく、“地域に居場所をつくる”という全く別軸のアプローチを採った。
ある日、子どもが公園で遊ばなくなったり、不登校の子が増えているというニュースを見て、「子どもが集まれる場所を工場の一角につくれないか」と着想した彼は、近隣の公園で遊んでいた小学4年の女の子3人組に相談した。
「最初は当然『何、このおじさん?』だよね。
こうして、工場内に簡易的な駄菓子屋が誕生した。
さらに、在庫となった無地のTシャツに駄菓子屋のロゴを入れ、「うまい棒を1本買ったらTシャツ1枚プレゼント」という企画を実施。子どもたちは次々に友達や家族を連れてきて口コミは一気に広がり、2カ月で約5000人もの地域住民が工場を訪れた。
■駄菓子屋コミュニティが「採用の母体」に
駄菓子屋を通じて「この会社は子どもを大事にする」「雰囲気が明るい」という評判が地域に広がり、ある母親が「ここで働きたい」と声を上げたことが転機となった。そこから応募が増え、100人以上がエントリー。現在の150人超の従業員の多くが、この駄菓子屋コミュニティから生まれている。
地域貢献が、そのまま“採用の母体”になった瞬間だった。
ここでふと疑問が浮かんだ。これらの活動を、先代の社長である父は何も言わなかったのだろうか? そう聞くと、彼は「なかった。それがすごいなって思う」と言った。
「俺が27歳で専務になった時、今の活動のようなことをやってみたいって親父に話したのね。
■87歳の高齢者を雇って気づかされたこと
坂口捺染では、子育て世代や高齢者、病気やハンディキャップのある人など、一般には“雇うのが難しい”とされる人たちが次々と働き始めている。会社側の都合ではなく、「本人が今どう生きたいか」に合わせて働き方を決めるからだ。
正社員から業務委託へ、週5日から週1日へ。ライフステージに応じて働き方を自在に変えられる。その象徴が、87歳の女性を雇用したときの出来事だった。彼女は体力面から週1回、2時間だけ工場に来ていたが、次第に送り迎えをする娘も高齢になり、やむなく退職することになった。
坂口さんは「たくさん気づきをもらった」と振り返る。
「いざ雇うとなった時、仕事の中で事故があれば『もしかしたら』って危機感を覚えたし、働くってお金だけじゃないんだって教えてもらった。その女性は働いたその2時間で『社会とのつながりを持てた。ボケ防止になった』って。この2つが彼女の喜びだったんだわ。もしこれがバリバリに働ける年代ばかりの会社だったら、この喜びを一緒に感じられないよね」
坂口さんにとって、この女性は“働くことの本質”を教えてくれた存在だった。働くとは年齢でも体力でもなく、“人生の支えになるかどうか”――そう気づかせてくれたのだ。
■利益を従業員にギブする
坂口さんが経営者としての軸を固めたのは、コロナ禍だったという。
「あの時は価値観だったり行動力だったり、危機感だったり、いろいろなものが俺の中で鮮明になった。俺が守らないかんのは、従業員。そしてその家族。『みんなを守るために何をしないかんのか?』と考えて浮かんだのは、“安心”と“きっかけ作り”だと思った」
坂口捺染では、薄利の業界にもかかわらず、現場の10年目社員で年収500万円、20年目近くで700万円、なかには1000万円という給与水準を実現している。
その原資は何か。前編で詳しく触れたように、この工場は現在、1枚50円前後の加工賃で全国からプリント加工の仕事を集めている。工場をほぼフル稼働させることで薄利でも利益を積み上げる仕組みを築き、学校行事やライブ、テーマパーク、お土産店などアパレル業界向け以外の案件を幅広く取り込んできた。
さらに「最短納期」「自社一貫生産」「小ロット対応」という3つの武器によって、急ぎの高単価案件も確実に受注できる体制を整えている。その結果、売上は約20倍(2004年比)へと伸び、利益率も20%超に到達した。こうした“薄利多売を強みに変えた構造”が、人に思い切り投資できる土台になっているのだ。
■「戻れる場所がある安心感」
その根底にあるのは「生活の不安をゼロにしたい」という考えだ。
坂口さんは自分自身にはほとんど保険をかけない一方、従業員には年間70万円相当の保険(生命保険の積立、中退共など)を全員に付保している。大型の取引があった今期は、社員に2回のボーナスに加え、特別ボーナスを支給したという。
「(特別ボーナスは)1年目の人で80万円くらい。今の時代、なかなかないでしょう? パートさんはと言うと、いわゆる130万の壁があるから、代わりにレストランに全員招待して、一緒に食べる会を開いた」
また、雇用保険に加入していないパート従業員が育休や治療で動けなくなった場合でも、会社が独自に給与の約60%を保証する。育児休暇も、未加入者には会社が2年間保証する。
「この会社に属している、戻れる場所があるというのが安心感になっている。それが何にも勝る価値だと思う」
坂口さんの言葉には、海外で“ひたすらギブを貫いた”若い頃の経験が生きていると感じる。利益の最大化ではなく、「この人が生きていけるか」を最優先する経営。それこそが、坂口捺染に人が集まり続ける理由であり、売上20倍の裏側にある“見えない競争力”なのだろう。
■経営哲学を形にした新施設
坂口さんが言う「きっかけ作り」とは、従業員にとっても地域の人にとっても、“前向きな変化が起きる場所をつくること”だ。その考えを形にしたのが、昨年8月に新設した複合施設「TWR」である。
敷地にはヤシの木が並び、カラフルな建物が立ち並ぶ。まるでアメリカ・カリフォルニアの海辺のような開放的な空間で、駄菓子屋・アパレルショップ・カフェが同じ場所に共存している。
夕方になると学校帰りの小学生が多い時は100人ほど集まり、カフェでは従業員用の弁当も販売されるなど、地域と会社、子どもと大人が自由に交ざり合う場になっている。
TWRは店舗の集合ではない。“誰かのために動きたい”という坂口さんの哲学を、空間ごと形にしたものだ。
近隣の工場には、B型就労所の人たちが収入を得られるよう自動販売機とゴミ箱を設置。営業が終わる18時以降は、本社ビルで映画上映やピラティスのレッスンを開く。すべて坂口さんの自腹で行われ、利益目的ではない。
■子育ては妻に任せきりだったが…
どこまでもギバーの精神を貫く坂口さん。彼は結婚当初、「第一が仕事、第二が従業員の家族、第三にわが子」という優先順位を妻に伝えている。そのため、子ども2人の子育ては、妻に任せっきりだったそうだ。
それでも、子どもたちは父を誇りに思っているようだ。大学生の長女・ピナさんは「パパがいろいろな活動をしとるから、私も何かをしてみたい」と、岐阜の魅力を発信する“6代目濃姫”として活動。高校生の長男・路歩(ろあ)さんは、坂口さんの母校・県立岐阜商の野球部員として奮闘中だ。「早く親父と働きたい」と語っているという。
「俺を好いてくれてる2人を見てると、嫁が『お父さんがあれだけやっておるもんで、あんたら自由に暮らせるんよ。幸せなんよ』って言ってくれてたんだと思う。直接小言は言われるけど(笑)」
山々に囲まれたこの町で育ったヒーローは、今日もまた、誰かの“居場所”をつくり続けている。
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池田 アユリ(いけだ・あゆり)
インタビューライター
愛知県出身。大手ブライダル企業に4年勤め、学生時代に始めた社交ダンスで2013年にプロデビュー。2020年からライターとして執筆活動を展開。現在は奈良県で社交ダンスの講師をしながら、誰かを勇気づける文章を目指して取材を行う。『大阪の生活史』(筑摩書房)にて聞き手を担当。4人姉妹の長女で1児の母。
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(インタビューライター 池田 アユリ)

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