■信長は「猿に似ている」と笑って採用
信長につかえた年には両説ある。甫菴太閤記は永禄元年9月1日だというから、彼が23の時だ。太閤素生記は18の時とする。前書では、信長に直訴して、実父がお家に仕えたことのあるものであると言い立てて、召しかかえていただきたいと嘆願したところ、信長は、
「面がまえが猿に似ているわ。気軽できびきびしているようじゃ。心も素直であろうわ」
と笑って、召しかかえたという。
豊鑑では、直訴は直訴だが、信長が川遊びして帰る途中に待ちかまえていたという。祖父物語では、信長の小人頭(こびとがしら)の一人、一若(いちわか)という者が中村の生まれであったので、これの推薦で草履取りに召しかかえられたという。
いずれが正しいか、今となっては確かめようもない。確かなことは20前後に信長に仕え、それはごく卑賤(ひせん)な役であったとしかいえない。
■出世のためにトイレに潜伏していた?
かくして仕えたものの、彼の名が史料価値の高い史書に出て来るのは、彼が33歳の秋からだ。
彼が信長の草履取りであった時、実に忠実で、どんな時刻に信長が呼んでも、声に応じて出て来たとか、寒夜に信長のはきものをおのれの背中に入れて温めていたとかいう話は有名であるが、名将言行録にある話は何から引いたかわからないが、最も示唆(しさ)に富んでいる。
秀吉は信長側近の小姓らに自分の名と顔を知られるために一策を案じて、小姓らの小便所の下に潜んでいて、上から小便をかけられると、
「何者なれば人に小便をしかけるぞ」
ととがめた。相手はおどろいて、
「知らずしてしたことじゃ。かんにんせよ」
とわびる。すると、
「知りたまわずしてのことなら、もっともなことでござる。いかにもかんにんしましょう」
とゆるす。相手は聞きわけのよい者じゃと、皆知るようになったという。
昔の小便所の構造は、数年前江州彦根市の井伊家の下屋敷だった家で一見した。その床下は自由に人の出入りの出来る、はなはだ開放的なものだが、それにしても、一人くらいならだが、いく人にも同じようなことをしたとあってはいぶかしい話だ。
しかし秀吉が早く出世するには早く信長とその側近に自分を知られるがよいとあせったことは事実であろう。これはそれを具体的に表現したのだと考えれば面白い。
■清洲城の修繕をあっという間に完成
このほか、秀吉のこの時代の話はずいぶんあるが、すべて伝説的なもので、一々書いてははてしがない。甫菴太閤記に伝えるものだけを簡単に書く。
その一つ。
ある時、清洲城の塀が百間ばかりくずれた。信長は修理を命じたが、20日かかってもまだ完成しない。信長の供をしていた秀吉はひとりごとした。
「油断もすきもならぬこの戦国の世に、あぶないことじゃ。万一、隣国の敵どもが押しよせて来たらば、どうなることぞ。悠長さにもほどがあるわ」
信長は聞きつけた。
「猿め、何をぶつぶつ言っているぞ」
秀吉はさすがに言いかねて渋っていると、信長は秀吉の腕をねじ上げてどなった。
「さっさと言えい!」
秀吉は余儀なきていで、思うところを言った。
「ふん、そういうならば、汝(われ)には自信があるのじゃろう。
秀吉は百間を10区域にわけ、人数を10組にわけて、割普請(わりぶしん)にして督励(とくれい)したところ、2日目にはもう出来上った。
信長が鷹狩から帰って検分すると、あたり一帯塵一つとどめず掃除し、検分に便利なように塀の腕木ごとに松火(たいまつ)をかけて明(あか)りわたっていた。
「やったの、猿。あっぱれじゃ」
信長は感じ入り、扶持(ふち)を加増してやったという。
■信長に怒鳴られても出しゃばり続けた
その二。
ある時、秀吉は信長に言上した。
「この清洲のお城は水が乏しゅうございます。小牧山は要害もよく、また便利な土地でござれば、これにお移りになるがよろしいと存じます」
信長も内心これに気づいていたのであるが、費用を思ってひかえていたところであったので、立腹をよそおい、
「猿めが何を知るか! 猿思案で、家中(かちゅう)の者の迷惑も考えず、おれにさしずがましいことを言う。しばり首にしてくれるぞ!」
と、さんざんに叱りつけた。(後に信長は小牧山に移転している)
こんな調子で、秀吉は気づいて言わざるなく、機会ある毎に出しゃばってはよく叱られたので、人々は皆、
「あれほど面の皮の厚いやつは見たことも聞いたこともないわ」
と嘲笑したが、秀吉は一向気にせず、出しゃばりつづけた。
■強敵・謙信との衝突を前に、独断で帰国
天正5年8月、信長は柴田勝家を主将として、丹羽長秀以下の諸将領の大部分をこれにつけて加賀に出動させた。
謙信は恐るべき敵だ。その用兵は天才的神気(しんき)があり、その軍勢は精鋭無比、これと戦って互角な勝負が出来たのは、4年前に死んだ武田信玄以外にはないと思われていた。だから、織田軍は緊張し切って向った。
秀吉もこの加賀派遣軍の中にいたが、加賀に入ってしばらくすると、主将である柴田勝家と意見が衝突したので、信長にうかがいも立てず、さっさと帰国してしまった。
どういう意見の衝突であったか、その点は信長公記も明記していないからわからないが、思うに秀吉としては、かねてから仲の悪い柴田の指揮の下に戦わなければならないのを不愉快に思っていたところに、意見が衝突したので、いい機会にして帰国したのではなかったかと思う。
■いくらお気に入りの部下でも許されない
これは明らかな軍令違反だ。いくら秀吉がお気に入りであっても、信長としては激怒せざるを得ない。「曲事の由御逆鱗(げきりん)なされ」と信長公記にある。思うに、
「けしからんハゲネズミめ! 目通りかなわぬ! まかりさがってつつしみおろう!」
と、雷鳴のような声でどなりつけたにちがいない。
ハゲネズミというのは、この頃信長が秀吉の妻ねねに出した手紙の中で、秀吉のことをこう書いているのだ。
信長はアダ名をつけたり、アダ名式に人を呼ぶことばの創作が実にうまい。まぬるい人間は大(おお)ヌル山である。明智光秀は頭がはげているからキンカ頭(金柑頭?)であり、秀吉は色黒の痩せた小男でいつもちょろちょろと敏捷に走りまわっているからハゲネズミというわけだ。
■連日、家来たちを呼んでどんちゃん騒ぎ
さて、秀吉は信長に叱られて長浜にかえったが、一向に謹慎などはしない。
「これまでは合戦合戦で、一日としてのんびりとくつろげる日はなかったが、今こそひまじゃ。こんな時に楽しまんでは、楽しむ時がない」
と言って、毎日家来共を呼んで酒宴をひらき、また能役者を呼んで能見物して楽しんでいる。家来共は、こんな風ではさらに信長の怒りを挑発するにちがいないと心配して諫言したが、一向きかない。
「かまうな、かまうな」
と笑って、ますます遊びほうけている。
■陰気くさくしていると、余計な疑念を生む
家来共は秀吉と仲のよい竹中半兵衛に忠告してもらおうと思って、半兵衛のところへ行って頼むと、半兵衛はニコリと笑って言ったという。
「それは筑前殿に深い考えがあってなさっているのじゃ。信長公のご性質は、そなたらもよく知っているであろう。もし、筑前殿が家に居すくんで陰気くさい様子なんどでいられるなら、筑前殿は二十余万石の大名なり、持城の一つ小谷はあれほどに要害の名城なり、きっと、筑前は、上様をうらんで謀叛を企てているようでありますなどと、ざん言を奉る者が出て来、それが度重なれば、それをご信用になることがないともかぎらぬ。
これは真書太閤記にある話で、真偽のほどはわからないが、信長の性格の一面と、秀吉が人間心理の洞察の名人であったことを最も手際よく物語っている。
さらにまた、かつては目立とう目立とうとあせって、そのあまりには危険をかえりみなかった秀吉が、この頃では信長の疑惑を避けることにずいぶん用心深くなっていることがわかる話になっている。
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海音寺 潮五郎(かいおんじ・ちょうごろう)
作家・小説家
1901年生まれ。国学院大学卒。中学の国漢教師を勤めた後、創作に専念。1929年「うたかた草紙」が「サンデー毎日」大衆文芸賞に入選。1932年長編「風雲」も同賞を受賞。1936年『天正女合戦』で直木賞を受賞。1957年に完結した『平将門』は新時代の歴史小説の先駆となった記念碑的大作。日本史への造詣の深さは比類がない。他に『武将列伝』『列藩騒動録』『孫子』『天と地と』『西郷隆盛』『西郷と大久保』『幕末動乱の男たち』『江戸開城』『二本の銀杏』など著書多数。1977年、逝去。写真(かごしま近代文学館所蔵)
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(作家・小説家 海音寺 潮五郎)

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