豊臣秀吉が織田信長の家臣になるまでの経歴には謎が多い。歴史に名を残す成功者であるにもかかわらず、一体なぜなのか。
作家・海音寺潮五郎さんの著書『武将列伝 戦国揺籃篇』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。
■あだ名の「猿」は申年生まれだから?
秀吉の前半生はほとんどわかっていない。諸太閤記の中で最も史料的価値の高い川角太閤記は本能寺の事変から書き出して、前半生には全然触れていない。
秀吉と同時代の竹中重門(半兵衛重治の子)の豊鑑(とよかがみ)は、「尾張国愛知郡中村郷のあやしき民の子なれば父母の名も誰かは知らん」という書き出しで書いてはあるが、簡潔をきわめて、書いてないも同然だ。甫菴(ほあん)太閤記は相当くわしいが、明らかにウソとわかることが多いので、信用できない。
第一、生年月日からはっきりしない。天文5年丙申(ひのえさる)正月元日という説があり、同年6月15日という説があり、天文6年丁酉(ひのととり)2月6日という説があり、一定しないが、ぼくは天文5年生まれであったように思う。
彼は幼い時「猿」と異名されていたというが、それは生まれ年の干支から来たと思うからだ。天文5年は申年である。しかしながら、その異名も、顔つきから来たとも考えられるから、断言しているわけではない。
■母親すらも覚えていない日に誕生した
年がわからないから、月日に至っては一層わからない。元旦生まれというのは、彼が曠古(こうこ)の大英雄であり、大好運の人であるところから、これほどの人物が普通の日に生まれるはずはない、一年のうちで最もめでたい元日の生まれであろうというところから考え出されたものであろう。
うがった考え方をすれば、生まれた月日がはっきりしないから、こんな説も出たのだといえよう。
秀吉の母大政所(おおまんどころ)はずいぶん長生きした人で、朝鮮陣の時まで生きていたのだから、大政所に正確な記憶があれば、こんな様々な説の出るはずはない。何しろあやしき民だ。貧民には誕生日の記憶などないのが古今普通だ。大政所にも記憶がなかったのであろう。
しかし、これが正月元日という特別な日に生まれたのなら、いくら在郷(ざいごう)の百姓婆さんでも記憶していないはずはなかろう。元日に決定しないで各説あるのは、元日の生まれでなかった証拠になるとも言える。
■秀吉と弟・秀長とは異父兄弟だった説
太閤素生記(すじょうき)と明良洪範にはこうある。
「秀吉は織田信秀(信長の父)の足軽木下弥右衛門の子である。母は愛知郡曾根村(素生記ではゴキソ―御器所―村)の生まれ。弥右衛門は戦場で負傷して身体不自由になったので、愛知郡中村に引っこんで百姓となった。
二人の間に女の子と秀吉とが生まれたが、その後弥右衛門は病死した。
母は織田家の同朋(どうぼう)(お坊主・武家で使役する剃髪姿の給仕)の筑阿弥(ちくあみ)というものが病気のため織田家を浪人して中村に引っこんだのを入夫として迎え、その間一男一女を生んだ。男は後に大和大納言秀長となり、女は家康夫人朝日御前となった」
この説は、渡辺世祐博士の「豊太閤と其家族」によると、秀吉の姉のひらいた京都村雲寺の瑞竜院書出しの木下家系図と全く一致するから信用してよいとある。
ついでに書いておく。木下弥右衛門が織田家の鉄砲足軽であったというのは、古来の伝えであるが、鉄砲の伝来は天文12年8月だ。その以前に鉄砲足軽などあろうはずがない。
■貧農の子の幼名が「日吉丸」のはずがない
しからば、秀吉の幼名は何といったかといえば、これまたはっきりしない。日吉丸なぞ説明するまでもなくウソだ。これは甫菴太閤記で使いはじめたのだが、大名の若君のような名前を貧農の子につけよう道理がない。
こんな見えすいたウソを書くから、この太閤記は甫菴の生きている頃から評判が悪い。当時は秀吉の頃からの生きのこりの武士たちが相当いたのだが、その人々が「虚妄(きょもう)多し」と爪はじきしているのである。
「猿」といったという説もあるが、これはアダ名、あるいは呼び名だろう。改正三河後風土記には、「与助」といって、どじょうをすくって売っていたとある。

以上で、一応素姓だけはわかったが、どんな工合にして成人していったかは、これまたわからない。
■修行先の光明寺での話は盛りすぎている
甫菴太閤記では、8歳の頃、僧となるために同国の光明寺という寺に入れたが、学問仏道の修行にはまるで不熱心で、武ばったことを好んで乱暴ばかりする。寺では持てあまして、家へ送りかえそうとした。すると、秀吉は、父が怒ってせっかんするであろうと思い、
「おらを送りかえしたりなんぞしたら、一々坊主共を打ち殺して寺に火をつけるべ」
と脅迫する。坊さんらは弱って、美しい帷子(かたびら)や扇子などを持たせて、きげんを取り取り帰したと、現代ならまるで少年院入りの少年のような書き方をしている。
作為がすぎるようである。気に入らない。寺に入れられたことは事実かも知れないが、幼年にしてすでに英邁(えいまい)の気にあふれていたということを表現しようとしての小説くさい。
しかし、もう少し甫菴太閤記をたどろう。
かくして10歳の頃家にかえったが、何しろ貧家だ。口べらしのため奉公に出したが、どこにも尻がすわらず、遠江・三河・尾張・美濃4カ国の間を転々として奉公してまわった。
■100万円相当の金を持ち逃げしたことに
20歳の頃、遠江の小大名で、駿河の今川家の被官である松下嘉兵衛尉之綱(ゆきつな)に仕えたが、これは武家なのでなかなか奉公ぶりがよく、主人の気に入りとなった。
ある日、松下が、
「尾州の織田家の家中では今どんな具足(ぐそく)がはやっているか」
とたずねたところ、秀吉は、「胴丸というのがはやっています。これは唯今までの桶皮胴(おけがわどう)とちがいまして、右の脇で合わせて伸縮自在でございますので、便利であるとて、皆用いています」
と答えた。
「いかさまそれは工合がよさそうな、汝(われ)行ってもとめて来てくれぬか」

「かしこまりました」
嘉兵衛は金子(きんす)五、六両を渡した。
秀吉はその金をたずさえて尾張に向ったが、大功は細瑾(さいきん)をかえりみずじゃ、あとで出世して恩返しすればよいはずと、その金を持ち逃げにしてしまったと、完全に拐帯(かいたい)犯人にしてしまっている。
甫菴太閤記では、秀吉はこの金で身支度をととのえて信長に直訴して小者として召抱えられることになっているが、小者の身支度にどうしてこんな大金がいろう。金子五、六両というと、金地金(きんじがね)で二十匁か二十四匁だ。現在の金地金の値段にして4万5千円か5万5千円弱だが、使用価値からいえば、100万円にも相当する。信ぜられない話だ。
■伝記によってエピソードがまったく違う
太閤素生記では、16歳の時、父がかたみとしてのこしおいた永楽銭一貫文から少しもらって、清洲の城下で木綿針を仕入れ、それを食べ物やわらじとかえつつ遠江に行き、浜松の町はずれ引馬(ひくま)川のほとりを白木綿の垢(あか)づいた着物を着てさまよっているところを、松下に見出されて奉公した。
奉公ぶりがなかなかよいので、松下も気に入って納戸役(なんどやく)まで申しつけたが、小姓共がこれをねたんで、筓(こうがい)・小刀・印籠・巾着・鼻紙等、何か紛失すれば、
「猿があやしい」

「猿めがあのあたりをうろうろしていたぞ」
などと、あらぬ疑いをかけていじめるので、松下はふびんに思い、永楽銭三十疋をあたえて、これで本国に帰れと暇を出したとある。
豊鑑にはごく簡単に、16の時ただひとり遠江国へさすらい行きて、松下につかえたとある。
■信長に仕えるまで、ほぼ謎に包まれている
要するに、信長につかえるまでの秀吉の閲歴(えつれき)はほとんどわからない。
思うに継父とのおれ合いも悪ければ、口べらしの必要もあって、年少にして家をとび出し、各地を放浪して歩き、その間に遠江で松下嘉兵衛尉に奉公したというごく大まかなことしかわからないのだ。
松下への奉公は諸書の記述が一致しており、後年彼がえらくなってから松下夫妻を招待して厚遇した記録もあり、松下を遠州久能三万一千石の大名に取立てている事実もあるから信じてよかろう。
この松下招待の事実も、改正三河後風土記では、秀吉は若い時与助といって、どじょうなどすくって売って生活を立てていた時期があるので、「太閤様はどじょう売りの与助といわれていたのじゃ」と世間でいわれるのをいやがって、自分も武家奉公をしていたことがあることを示すためにやった演出だと、はなはだ意地悪い書き方をしている。
徳川家にとっては好意のもてない秀吉だからでもあろうが、それ故にこそ鋭く事実をせんさくしているのだとも言える。
■罪を犯しながら食つなぐ生活だったのでは
疑問は、秀吉ほどの人物の前半生が、どうしてこんなにあいまいであるかだ。一体、ああいう異常な成功者は、その出世前のことを、それが悲惨であればあるほど、自慢ばなしとして語りたがるものだ。ことに秀吉は陽気な大ボラ吹きで、大言壮語癖のあった人だ。大いに昔のことを語りそうなものであるのに、まるで語っていない。
思うに、信長に仕えるまでの秀吉の生活は悲惨にすぎて、彼自身が思い出すのも不愉快であったのではなかろうか。世は戦国だ。家を飛び出して放浪して歩く少年に、吹く風が温かろうはずはない。搔っぱらいもしたろうし、泥棒もしたろうし、かたりもしたろうし、乞食もしたろうし、放浪する戦争孤児のような生活であったろうと思う。

矢作(やはぎ)橋上の蜂須賀小六との出会いや、小六の下についての盗賊行為など、もとより事実ではないが、それに類したことはあったにちがいない。松下からの金子拐帯(きんすかいたい)も、象徴的に描出したものとすれば意味がある。
■「あの境遇には戻りたくない」が原動力に
こんな想像をするのは、信長に仕えてからの秀吉の奉公ぶりが勤勉にすぎるからだ。できるだけ信長の目にふれようとして出しゃばりもするし、気に入られようとして実に無理な奉公もしている。
同輩や先輩をおしのけて、口出しをするし、人が二の足も三の足もふむような困難な仕事を進んで引き受け、引き受けるや、遮二無二に仕上げている。こういう働きは普通の生活体験をして来た人にはできない。人生のドン底の経験をして来て、再びあのいやな境遇に転落したくないと、かたく決心している人にしてはじめて出来ることだと思うのだ。
秀吉が社会の最下層から出発して、信長という伯楽(はくらく)を得るや、急坂を駆け上るような立身をし得たのは、天稟(てんぴん)もあり、運の好さもあり、努力もまたあったにちがいないが、根本的にはこの悲惨な経験から来た覚悟のすわりにあると、ぼくは見ている。

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海音寺 潮五郎(かいおんじ・ちょうごろう)

作家・小説家

1901年生まれ。国学院大学卒。中学の国漢教師を勤めた後、創作に専念。1929年「うたかた草紙」が「サンデー毎日」大衆文芸賞に入選。1932年長編「風雲」も同賞を受賞。1936年『天正女合戦』で直木賞を受賞。1957年に完結した『平将門』は新時代の歴史小説の先駆となった記念碑的大作。日本史への造詣の深さは比類がない。他に『武将列伝』『列藩騒動録』『孫子』『天と地と』『西郷隆盛』『西郷と大久保』『幕末動乱の男たち』『江戸開城』『二本の銀杏』など著書多数。1977年、逝去。写真(かごしま近代文学館所蔵)

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(作家・小説家 海音寺 潮五郎)
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