※本稿は、河合敦『豊臣一族 秀吉・秀長の天下統一を支えた人々』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■53歳にして、待望のお世継ぎが誕生
53歳の秀吉にとって思いもかけない事が起こった。実子が生まれたのである。多くの妻妾を抱えながら、子に恵まれなかった秀吉にとって青天の霹靂だったろう。しかも生まれたのは男児だった。よもや自分に跡継ぎができるとは予想もしなかったはずだ。
子供の母親は信長の妹・お市(いち)と浅井長政の長女・茶々、後の淀殿(よどどの)である。
浅井長政が信長に滅ぼされたとき、母親のお市と三姉妹(長女の茶々、次女の初(はつ)、三女の江(ごう))は城から救出された。救ったのは羽柴秀吉だったとされる。
さらに信長の死後、お市は柴田勝家に嫁ぎ、三姉妹は母とともに越前国北ノ庄城に入ったが、数カ月後、秀吉に包囲され、お市は勝家とともに城で自害した。このとき三姉妹は助けられたが、茶々は15歳、初は14歳、江は11歳になっていた。
江や初は嫁に出されたのに、年上の茶々が嫁がなかったのは、すでに秀吉の側室になることが決まっていたからだという説が強い。
■美女と小男の「不釣り合いなカップル」
茶々の身長は167センチ程度といわれ、現存する肖像画を見ると大変な美人である。信長から「禿げ鼠」と呼ばれた貧相な秀吉にはふさわしくないし、茶々にとって秀吉は両親を死に至らしめた男。当時は政略結婚が一般的だったが、茶々は心の底では秀吉をどう思っていたのだろうか。
ともあれ、秀吉の側室になった茶々のことを以後は淀殿と呼ぶことにする。
のちに秀頼も産む淀殿だが、昔から悪女だと信じられてきた。たとえば、秀頼は秀吉の実子ではなく、淀殿が別の男と密通してできた子。それをだまして秀吉の寵愛をうけ、秀吉の死後は強面(こわもて)の女城主として大坂城で豊臣家の実権を握り、家康に天下を譲ることを拒み続け、豊臣家を滅ぼした愚かな女。そんな印象を持っている方も多いかもしれない。
ちなみに、淀殿が産んだ男児が秀吉の子ではないという話は、宣教師のルイス・フロイスも『日本史』に書き残しているように、当時から噂として立ちのぼっており、この件が大事件に発展した。
■「父親は秀吉ではない」落書きに大激怒
天正17年(1589)2月25日、京都の聚楽第(秀吉の邸宅)の表門に貼り付けられた落書きが見つかった。
ちょうど淀殿が秀吉の最初の子を妊娠した時期だ。落書きの内容ははっきりしないが、数種の歌が書き付けられていたようで、その内容は「淀殿の子の父親は秀吉ではない。多くの側室がいながらずっと子供に恵まれなかった秀吉に、急に子ができるなんて怪しい」といった類いのものだったようだ。
すると、この落書きに怒った秀吉は、事件の4日後、聚楽第の門番をしていた17人の武士の鼻と耳をそぎ落とした上で逆さ磔(はりつけ)にしたのだ。全員拷問するつもりだったが、正妻・ねねの願いによって7人は拷問を免れたという。
■子供から老人まで100人以上を殺害・処刑
同時に秀吉は、犯人逮捕を厳命した。
やがて犯人の牢人たちは大坂天満の本願寺に逃げ込んだことが判明。そこで秀吉は本願寺の住職(門跡)・顕如(けんにょ)に牢人たちを引き渡すように命じ、自分自身も大坂へ乗り込んで行った。さらに秀吉の重臣・石田三成と増田長盛が本願寺に対し、即座の犯人引き渡しを求めた。仕方なく顕如は、関係者の尾藤道休を殺し、その首を差し出した。
それでも怒りが収まらない秀吉は、道休をかばった僧侶を含めた数人を捕まえて殺害。さらに道休が住んでいた家を町ごと焼き払い、町の人びとを連行して60人以上を六条河原で処刑したのである。その中には80歳を超える老人も7歳に満たない子供もいた。
その後も逮捕者が続き、あわせて103人がこの事件で殺された。たかが落書きなのに完全に常軌を逸している。愛憎という個人的な感情のために権力を振りかざす、まさに狂気の沙汰といえよう。
ともあれ、秀吉は淀殿の妊娠を喜び、彼女が無事出産できるよう淀(よど)城を築いている。人びとの好奇の目から守り、安心できる場を確保してやったのだ。彼女を淀殿と呼ぶようになったのは、この淀城から来ているのだが、研究者の福田千鶴氏は「彼女を『淀殿』と呼ぶ史料は一点も確認できない」(『淀殿 われ太閤の妻となりて』ミネルヴァ書房)という。
同氏によれば、浅井氏、茶々、淀、大坂、御台(みだい)、御上(おかみ)、お袋、母堂(ぼどう)などさまざまに呼ばれていたそうだ。
■子供に恵まれなかった正室ねねの心境
淀殿は天正17年5月27日に無事、男児を出産する。よほど嬉しかったのか、秀吉は出産の前祝いとして諸大名に黄金6千枚、銀2万5千枚を大盤振る舞いしている。
8月末に鶴松は淀殿とともに淀城から大坂城へ移った。鶴松は輿(こし)に乗って移動したが、彼に従う行列は華美で、多くの人びとが見物のために殺到した。鶴松の傅役(もりやく)には秀吉の親族・浅野長政(ねねの義兄)が任じられた。結果、大坂城の奥御殿(妻子の居る場所)が手狭になるので、秀吉はねねと母のなか(大政所)を聚楽第に遷(うつ)している。
秀吉の正室は「ねね」(寧(ねい)、北政所(きたのまんどころ))。糟糠(そうこう)の妻として知られているが、秀吉との間に実子はできなかった。そういった意味では鶴松の誕生により、淀殿の立場は急激に上昇していった。
これについてねね自身がどう思ったかわからないが、「奥御殿にいて寧や大政所に仕えていた女性たちの既得権を損ねるような問題」(福田千鶴著『淀殿 われ太閤の妻となりて』ミネルヴァ書房)があり、「不平・不満をいうものがおり、それが秀吉の耳に入って機嫌を損ね」、奥女中たち数名を首にしようとしたが、「寧に免じて許す」(前掲書)ことにしたという。
■平安時代の最高権力者には正室が2人いた
福田千鶴氏は、鶴松に続いて淀殿は秀頼を産むが、それによって側室から正室にのぼったと考える。
福田氏は「武家社会において貴人の妻を一人とし、それ以外の女性を側室=妾とする考え方は、江戸時代になってから」のことだとし、「御堂関白こと藤原道長の場合には、倫子(りんし)・明子(めいし)という二人の北の方(正妻)が」いたと摂関家の例をあげ、「秀吉は武家関白として最高の地位にあり、実質的には天皇を超越する権力と権威を掌握し、しかも死後は豊国大明神としての神格化(王権化)をはかった天下人である。
■淀殿が「悪女」「淫婦」と語り継がれた理由
ねねと淀殿はよく仲が悪かったというが、それを示す史料は存在しない。
秀吉の死後、ねねは大坂城を引き払って京都に移り、淀殿が秀頼とともに大坂城本丸に座した。以後、ねねは京都で秀吉を祀まつった豊国神社に頻繁に参詣し、慶長8年(1603)には出家し、2年後には秀吉の冥福のため高台寺を創建し、その門前に住んで慰霊につとめた。
小和田哲男氏は「秀吉の死後の『後家』の役割の一つ、亡き夫の菩提(ぼだい)を弔う北政所としては、大坂や伏見より豊国社に近い京都に居を定めるのは当然のなりゆきだったといってよい。ちなみに、『後家役割』のもう一つは、大坂城に残った淀殿が分担することになる。ふつうの場合、この『後家役割』は二つとも一人の女性が担うわけであるが、秀吉の場合はちょうど二人の正室が分担する形になったのである」(『北政所と淀殿 豊臣家を守ろうとした妻たち』吉川弘文館)と論じる。
また先の福田氏は、淀殿悪女伝説が生まれた所以は、この淀殿=側室説にあるとする。
江戸時代以降、側室を妾と考え賤(いや)しむ風潮があり、さらに江戸中期に淀殿「淫婦」説も加わったとする。それは「豊臣氏は徳川氏によって亡ぼされたのではなく、『淀殿』の不義により内部から崩壊していったのだ」と理由づけ、「徳川氏による天下支配を正当化しようとする見方が」(『淀殿 われ太閤の妻となりて』ミネルヴァ書房)あったのだとする。
■秀長は「後継者」の最有力候補だった
突然、鶴松という秀吉の息子が誕生したことで、当然、秀吉の後継者問題、ひいては豊臣政権のあり方に大きな変更が生じた。
すでに秀吉も50代前半、この年代であれば家督を譲って後見に回る大名も少なくなかったし、後嗣(こうし)を定めている大名が多かった。
ただ、秀吉が逝去した場合、後継者の最有力候補は豊臣秀長であったろう。秀吉の唯一の弟であり、「名代」や「取次」として軍事・外交分野で顕著な功績を残し、長年天下平定事業を支えてきたからだ。
■甥・秀次や養子の秀勝には荷が重い
続く候補といえば、長久手の戦いで失態を犯したが、その後は順調に手柄をあげ続けた甥の秀次だ。さらに、養子の於次(おつぎ)秀勝(信長の五男)が没したあと、2年前に秀吉の養子となった秀次の弟(秀勝)もいる。
ただ、秀勝については養子ではないという説もあるし、秀次と秀勝は20歳そこそこ。まだ若く、秀吉の後継者としては荷が重すぎる。そういった意味では、秀長が適任だった。
九州平定以後も、秀長は外交分野で大きな働きをしてきた。
たとえば、毛利輝元の接待である。聚楽第行幸から3カ月後、中国の雄・毛利輝元が初めて一族の小早川隆景や吉川広家に伴われて上洛してきた。天正16年(1588)7月のことだ。
大坂に来た輝元の接待役を担ったのは、やはり秀長だった。彼は自分の宿所に輝元を招いたが、その場には秀吉も現れ、さらに織田信雄や徳川家康、そして一族の秀次や秀家も顔を出して懇談したという。
9月には輝元に加え、小早川隆景と吉川広家ら毛利一族を大和郡山に招いている。
■秀長のおもてなしに毛利一族は大満足
詳しいことは『輝元公上洛日記』に記されているが、河内将芳著『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(戎光祥出版)を参考に、その概略を紹介しよう。
秀長は、毛利一族を4日間国元で接待した。まずは屋敷に招いて室内で能をおこない、茶会を開いた。続いて、彼らの奈良見物に同行し、東大寺の大仏や興福寺、若草山、猿沢の池などを一緒に見物したあと、池のほとりの寺院で、三人だけでなく、その家臣全員に料理と酒をふるまったのだ。
さらにその夜にも夜物語をしようと、輝元らを秀長の屋敷に呼び寄せ、そこでお囃子(はやし)を聞きながら食事を楽しんだ。『輝元公上洛日記』は筆に記しがたい接待だったと書いており、輝元が大いに満足したのは間違いないだろう。
さて、話を戻そう。
淀殿の妊娠が発覚すると、秀吉と秀長、さらには血族大名との間がギクシャクしてくる。
■豊臣兄弟の関係性に不穏な空気が…
河内将芳氏(『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』)によると、秀吉は京都に大仏をつくろうと考え、秀長の領国紀伊から木材を集めていたが、このとき木奉行をしていたのが、秀長の家臣・吉川平介であった。
ところが、「天正十六年十二月にその平助が『熊野山の木』『二万本』を切り、大坂にて売り払ったさい、『過分に』『代金』をうけとったかどで秀吉の命で『召し捕』らわれ」(前掲書)処刑されたのだ。
これにより「秀長も『天下の面目』を失ったと評されることにな」(前掲書)り、しかもこの件で天正17年になっても「秀長が秀吉に『御見参』(対面)できなかった」というのだ。
これまで一度も、秀長の面会を秀吉が拒否したという記録はない。しかも、平介の犯罪行為を見ても、そこまで秀吉は怒ることだったのだろうか。なにか秀吉が秀長を牽制しているようにも思える。
■「我が子に政権を譲りたい」欲が見え隠れ
養子の秀勝も、秀吉との間でいざこざを起こしている。秀勝は、秀吉に対して領地(二十八万石)が少ないことを訴えたという。このため怒った秀吉から勘当され、居城亀山城も奪われ、四万石程度に減らされて大垣城へ移されている。
この事件は、鶴松誕生後のことなので、体(てい)よく養子の秀勝を貶(おとし)め、後継者から外そうとする秀吉の魂胆に見えなくもない。
いずれにせよ、鶴松の誕生により、我が子に政権を譲りたいと熱望し始めた秀吉は、親族に対してそれまでの扱いを変えていったように思われる。
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河合 敦(かわい・あつし)
歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数
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(歴史作家 河合 敦)

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