天下人・豊臣秀吉の後継者となったのは、息子の秀頼だった。歴史作家の河合敦さんは「もともと甥の秀次が後継者と目されていたが、秀頼の誕生によって秀次の人生はがらりと変わった」という――。

※本稿は、河合敦『豊臣一族 秀吉・秀長の天下統一を支えた人々』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■予想外の男児誕生で揺らぐ秀次の立場
文禄2年(1593)3月頃、淀殿の妊娠がわかり、同年8月、男児を産んだ。それが後の豊臣秀頼である。おそらく、秀吉にとっても想定外の事であったろう。
まだ淀殿が妊娠中の5月、秀吉は正妻のねねに次のような手紙を送っている。
「私は子供を欲しいと思っていないので、そのことをあなたに知っておいてほしい。私の子は鶴松だったが、あの世に行ってしまったので、今度生まれてくる子は、淀殿だけの子にすればよいと思う」
何とも意外な反応といえるが、再び懐妊した淀殿に対するねねへの配慮なのかもしれない。実際、息子の誕生を知ると、急ぎ秀吉は名護屋城から大坂城へ戻っている。
幼名は「拾」と名付けた。拾った子はよく育つという迷信からとった名前だった。
■「日本国を5等分し、1つを秀頼に…」
ただ、息子が生まれると、とたんに政権を甥に譲ったことが惜しくなった。秀頼が誕生した翌月、秀吉は秀次と会い、「日本国を5等分し、そのうち4つをおまえにやるので、1つを秀頼に与えてほしい」と求めたという。

秀吉が溺愛する秀頼に宛てた手紙である。
「御ゆかしさ、申すばかり候間、やがてやがて歳末に参り候て、(略)口を吸い申すべく候。たれたれにも、少しも御すわせ候まじく候」(桑田忠親著『太閤の手紙』講談社学術文庫)
口を吸いとは、キッスのことだ。なんと秀吉は、秀頼に会うたびに我が子に接吻していたことがわかる。
また、淀殿に宛てては、
「ひろいに乳をよくよくのませ候て、ひとね候べく候。乳足り候やう、飯をもまり候べく候」と書いている。
「ひろい(秀頼)にとにかくたくさん乳を呑ませなさい。そのためには、乳がよく出るよう、食事をたくさんとるように」という意味である。鶴松は乳母が育てたが、秀吉は当時としては珍しく、淀殿自らに養育させることにしたのだ。
■まだ生後数カ月の秀頼の婚約を取り決め
おそらく関白秀次は、我が子に政権を譲りたいという秀吉の気持ちをありありと感じとったことだろう。この前後からしばしば体調を崩すようになり、10月からは2カ月にわたって熱海へ湯治に出向いてしまう。この間、秀吉は秀次にかわって再び政務を統括するようになった。

秀次が熱海から京都に戻ると、秀吉はまだ秀頼が生まれて数カ月しか経っていないのに、秀次の娘と秀頼の婚約を取り決めた。ただ、この頃になると、秀吉と秀次の関係は緊張状態に入ったようだ。たとえば、秀吉が秀次の領国である尾張の検地を勝手におこなうなど、その支配に干渉し、統治の不手際を糺ただすこともあった。
秀吉は秀次に関白職に加えて邸宅の聚楽第も譲り、自身は新たに隠居所として京都近郊に造った伏見城へ移っていた。この地は指月岡(しげつのおか)と呼ばれ、古代から宇治川沿いの月見の名所だった。
風流な地であるとともに伏見の名が「不死身」に通じるので験(げん)を担いだのではないかといわれている。近年の発掘によって、当初の隠居所は宇治川沿いにつくられた方形居館だったことがわかった。内部は堀によって三つの区画に分かれていたようだ。
■隠居場所を壮大な城に作り替える
それが秀頼が生まれたあと、隠居所は大規模な城郭へ作り替えられることになったのである。大坂城には秀頼を入れ、自身がここを居城とすることにしたからだ。
また、和平交渉のため明の使いが来日することから、外国使節に己の威厳を示すべく壮大な城に作り替えようとしたのだともいう。こうして本格的に大城郭への改造がはじまり、朝鮮へ渡海していない北国や東国の大名たちが工事を担った。

天守は淀城から移築された。諸大名に対しては伏見城下に屋敷を設けるよう命じた。宇治川を挟んで伏見城の対岸には向島(むかいじま)城(支城)をつくり、二つの城を美しい橋(観月橋)で連結した。
文禄3年4月の直江兼続の書状には、秀吉がわざわざ普請(ふしん)現場まで顔を出し、工事に携わる人びとに声をかけていたとある。人たらしらしいエピソードだが、城ができるのが楽しみで仕方なかったのだろう。
■養子の金吾をとてもかわいがっていたが…
この年の7月には、かつて自分の後継にと考えていた金吾を小早川隆景の養子にしてしまった。金吾は正妻・ねねの甥で、3歳のときから彼女の手元で育てられていた。
天正16年(1588)には、秀吉は諸大名に対し金吾宛ての起請文(きしょうもん)を提出させており、これによって秀吉の後継者たることが内外に示された。しかし、鶴松が誕生したため後継の地位から外れた。ただ、秀吉夫妻の養子という立場は変わらなかった。
鶴松没後、関白についたのは秀吉の甥・秀次であったが、それは金吾がまだ幼かったからで、相変わらず秀吉は我が子としてかわいがっていた。秀次に家督を譲ったが、金吾には自分の遺領(隠居領)を与えるつもりでいた。

文禄2年3月には、ねねが金吾につれなくしたことを手紙で叱りつけている。朝鮮出兵のさい、12歳の金吾は名護屋まで出陣したのだが、暇乞いに大坂城のねねのもとにやって来た金吾に対し、ねねは冷たくあしらい、武具や諸道具を調えてやらなかったのだ。
名護屋城で秀吉に対面した金吾は、それを愚痴ったようで、秀吉はねねに対し「いったいどうしたことだ。あなたがかわいがってやらなくては、誰が金吾をかわいがってやれるのだ。あなたは子供がいないのだから、金吾だけを我が子だと思い、どんなことでも聞いてあげなさい」と諭した。
■後継者争いの火種になる前に、養子へ
なぜねねは金吾に冷たくしたのだろうか。実父が死んだばかりで金吾のことまで頭が回らなかったとか、あまりに暗愚すぎる金吾を毛嫌いするようになっていたとか、手塩にかけて育てた金吾の戦支度をするのが嫌だったなど諸説あるが、一次史料はないので真相はわからない。
ともあれ、秀頼が誕生すると後継者争いを避けるためだろう、あっさりと金吾を小早川隆景の養子に出してしまった。隆景は毛利元就の三男で、孫で毛利家当主の輝元を兄・吉川元春とともに支えてきた。この体制を毛利両川(りょうせん)と呼ぶが、とくに隆景は智将として知られ、秀吉に気に入られて独立大名のような扱いを受け、このときは筑前一国と肥前国二郡(三十万七千石)を領する大大名だった。
金吾を養子にしたいと申し入れたのは、隆景のほうだったと伝えられる。当初秀吉は、まだ実子のいない毛利輝元の養子にしようと考えていたという。
それを知った隆景が、本家の血筋が絶えるのを防ぐために跡継ぎに金吾を迎えたとされる。かくして金吾は隆景に引き取られ、筑前に去っていった。
このように秀吉は、急速に秀頼後継体制を構築していったのである。
■秀吉と秀次の「微妙な関係」は改善されず
こうした状況のなか、秀次は焦りを覚えたはずだ。なんとか秀吉と良好な関係を保とうとたびたび秀吉のもとに伺候し、贈り物などを贈った。ねねも、秀吉と秀次の仲を取り持つよう、さまざまな努力を払った。が、それは無駄な努力に終わってしまった。
文禄4年(1595)2月、蒲生氏郷の遺領をめぐって確執がおこった。秀次は嫡男の蒲生鶴千代(秀行)に会津の相続を認めた。ところが秀吉がこれに異論をとなえ、蒲生家を改易にしようと動いたのだ。
最終的に鶴千代はお家取り潰しを免れるが、それは、秀次が秀吉の措置に強く反対したからだといわれる。太閤秀吉に対し、関白秀次が政治力を示した瞬間だったが、ちょうどこの時期、秀次は立て続けに弟たちを失っている。

天正20年(1592)9月、朝鮮へ渡海した豊臣秀勝(小吉)が陣中で病没してしまったのである。秀勝は、於次(おつぎ)秀勝(秀吉の養子で信長の五男)が没したあと、秀吉の養子になって秀勝の名と遺領の亀山領を踏襲したとされる。
ただ、黒田基樹氏(『羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで』角川選書)によればそうした事実はなく、すでに於次秀勝が存命のときから秀勝を名乗っていただけでなく、於次秀勝の死後、秀吉の養子になった事実はないという。ただ、亀山領を領したことは事実である。
■豊臣一門の「ナンバー2」が命を落とす
豊臣秀勝は、お市(いち)の三女(淀殿の妹)・江(ごう)と天正13年に結婚している。
秀勝と江の間に生まれた完子(さだこ)は、江が徳川秀忠に再嫁するさい、淀殿が猶子(ゆうし)として育てることになった。
天正15年、秀勝は右近衛権少将にのぼり、羽柴丹後少将と名乗るようになり、小田原平定後の天正18年には甲斐一国(二十二万石)を与えられた。その後、美濃国岐阜城主となり、天正20年11月には参議にのぼる。豊臣一門としては、秀次に次いでナンバー・ツーであった。
しかしこの年に朝鮮出兵のため渡海を命じられ、8千人を率いて海を渡って壱岐に入り、対馬を経て巨済島へ渡って城郭づくりに励んでいたが、そこで病を得てあっけなく亡くなってしまった。
■大事な兄弟を失った矢先、決定的事件が
さらに不幸は続く。今度は豊臣秀長の名跡を継いだ秀保が文禄4年(1595)4月に没してしまったのである。17歳であった。これにより、秀吉を支えた大和大納言家は断絶したのである。
秀勝と秀保の二人は、秀次にとって秀吉における秀長のような存在だった。こうした血を分けた兄弟を相次いで失ったことも、秀次政権(権力)の弱体化につながったといわれている。
秀次は同文禄4年春以降、たびたび秀吉の住む伏見城へ出向くようになる。両者のあいだで何が話し合われていたかは定かではないが、おそらく秀吉が、秀次に政治の実権を自分に返すよう迫っていたのではあるまいか。
文禄4年7月3日、日本国が暗夜になるような、秀次と秀吉の決定的な対立があったと『大かうさまくんきのうち』(太田牛一著)に記されている。それがどんな出来事かは不明ながら、秀次がいる聚楽第に石田三成ら秀吉の奉行がやって来て、いきなり謀反計画の有無を詰問してきたという。
秀次は明確にそれを否定し、ただちに秀吉に誓詞を差し出し、己の無実を主張した。
■謀反の罪で身柄拘束、関白職を剥奪された
それから5日後、秀次は秀吉の居る伏見城まで来るよう連絡を受ける。そこで一人で出向いたところ、伏見城ではなく、木下吉隆の屋敷に案内され、身柄を拘束されてしまった。
秀吉は、秀次の関白職を剥奪したうえ、「7月10日に秀次を高野山に追放した」と公表した。ただ、秀吉に会い、許されないことを悟った秀次が、髻を切って自ら高野山へ入ったという説もある。
7月12日、秀吉は高野山の木食(もくじき)応其(おうご)に対し、秀次の家臣数を10名に制限し、親類縁者を置くことは認めず、刀や脇差の帯同も禁じるとした。そして幽閉した部屋の出入口に番人を置き、昼夜厳しく見張るよう指示した。同時に側近や諸大名に対し、自分が定めた法を遵守するとともに秀頼に対する忠誠を求める起請文を提出させた。
7月15日、秀吉は福島正則らを遣わし、秀次に切腹を申し渡したのである。ただ、謀反の罪を着せられた秀次が、怒りのあまり抗議の自害をしたという説もある。
■寵臣3人を介錯し、名脇差で切腹した
後世の編纂物だが、秀次のすさまじい死に方をみると、自害の可能性が高い気がする。
主君秀次の切腹に先立って、小姓の山本主殿(とのも)は秀次から下賜された国吉の脇差で腹を割いた。同じく小姓の山本三十郎も下賜された厚(あつし)藤四郎の脇差で切腹、続いて不破万作も鎬(しのぎ)藤四郎の脇差で割腹した。
すると秀次は、腹を切った3人の首を立て続けに打ち落としたのだ。見事な介錯であった。その後、東福寺の虎岩玄隆が腹を切った。こうして寵臣たちがあの世に旅立つのを見送ったあと、秀次は厚藤四郎という名脇差で切腹、雀部(ささべ)重政に介錯をさせて息絶えた。享年27であった。
■「殺生関白」としての非道なエピソード
秀次の死後、秀吉の意向もあって、謀反人として秀次は悪く言われるようになり、その後は太閤記類や軍記物で殺生関白として悪逆非道な人間に貶められた。
女たちを連れて女人禁制の比叡山にのぼって宴会をおこなったり、動物を狩ったりするとともに、北野天満宮では面白半分に盲人に酒を飲ませて腕を切り落としたり、武芸に熱中するあまり真剣で相手と立ち合って平然と斬り殺したり、千人斬りといって辻斬りを楽しんだり、鉄砲で農民を撃ち殺したりすることもしばしばだったといわれるようになる。
ただ、ルイス・フロイスによると、実際に秀次は罪人の処刑役は自らつとめたらしい。寵臣の首を次々と打ち落としたその死に様からも、人を処刑する所業は好んだと思われる。また、刀剣集めが趣味で、名刀を数百本所持していた。そうしたことに尾鰭(おひれ)がついて、後世の殺生関白像ができあがってしまったのだろう。

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河合 敦(かわい・あつし)

歴史作家

1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数

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(歴史作家 河合 敦)
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