豊臣秀吉は貧しい農民の家に生まれ、一代で天下人にまで上りつめた。歴史作家の河合敦さんは「最晩年、病にかかった秀吉がもっとも心を砕いたのは、自分の実力で手にした天下を息子の秀頼に継承させることだった」という――。

※本稿は、河合敦『豊臣一族 秀吉・秀長の天下統一を支えた人々』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■形見分けなど「終活」を進める秀吉
慶長3年(1598)6月になると、秀吉はかなり重篤な病態になっていく。翌7月には、配下の大名や公家たちに遺品や金銭の分与(形見分け)をおこなっている。そのうえで諸大名に対し、改めて6歳の秀頼への忠誠を誓わせた。
ただ、重篤ではあるものの、常に病臥していたわけではなく、比較的体調の良い時は、伏見城の普請(ふしん)場に出向くこともあった。晩年の秀吉は隠居所として伏見城をつくり、その後、大城郭に改変していた。
ところが入城から2年後の文禄5年(1596)閏7月、慶長大地震によって建物の多くが倒壊してしまった。このため、元の場所から少し離れた木幡(こはた)山に新たに城が築かれ、翌年にこの城(新伏見城)に移っている。ただ、その後も新城(木幡山伏見城)の普請は各所で続いていた。
また、新城近くにある醍醐寺の再建現場にも出向いたようだ。この寺に天皇を招くつもりだったからだ。新たな醍醐寺の金堂は、高野山から解体して運んできたお堂だった。
興味があったのか、秀吉はその移築工事の様子も見に来たという。
■重臣・徳川家康とは良好な関係だった
秀吉の病の回復を祈って神楽がたびたび催され、諸社寺でも加持祈祷(きとう)が盛んになされたが、やがて尿失禁が見られるようになり、7月に入ってからは気絶したり、意識がもうろうとする事が多くなった。
そうしたなか相変わらず神楽が催され続けたが、誰の目にも回復の見込みがなく、臨終が間近に迫っていることは明らかだった。
当時、豊臣政権を支える重臣のうち、圧倒的な力を持っていたのは江戸の徳川家康だ。領地だけでいえば、秀吉より家康のほうが石高(こくだか)は上だった。豊臣家の蔵入地(直轄地)約二百万石に対し、家康は南関東を中心に二百五十万石以上を領していた。
しかも家康は、戦いで秀吉に敗れて臣従したわけではない。秀吉のほうが妹と母を人質に差し出し、朝廷の高い官職につけ、辞を低くして家臣になってもらった経緯がある。だから秀吉は、常に家康に気を遣い、豊臣一門のごとく別格扱いをしてきた。
ただ、家康のほうも律儀に秀吉に尽くし、その政権を誠実に支えた。だから死の間際にあっても、秀吉は家康を全面的に信用していたようだ。
■「天下人の地位を家康に譲っていた」説
研究者の高橋陽介氏は、こんなユニークな説をとなえている。

慶長3年7月14日のフランシスコ・パシオの報告書に「自らの死期を悟った秀吉は、最大の実力者である徳川家康に後事を託し、政権をゆだねた。また、秀頼が成人したあかつきには政権を返還するよう、家康に依願した。秀吉は、諸大名のまえでこのことを申しわたし、起請文を差し出させ、さらに家康に対しても起請文を差し出すように命じた」(『秀吉は「家康政権」を遺言していた』河出書房新社)とあることを主な根拠として、秀吉は生前、天下人の地位を家康に譲ったと論じているのだ。
ちなみにパシオはまた、こんな報告もしている。
「秀吉は病状が悪化すると城中でもっとも高い奥まった座敷に移ることにした。秀頼が決別の許しを申し出ると、秀吉は「今後は予を父と言わず、家康を父とよぶがよい」といって、秀頼を家康に託し」(福田千鶴著『淀殿 われ太閤の妻となりて』ミネルヴァ書房)た。
また、福田氏は「多門院の日記に茶々と家康が秀吉の遺言で婚姻したという噂を書きとめている」(前掲書)と述べている。
こうしたことを考えあわせると、秀吉が天下人の地位を一時的に家康に譲り渡した可能性は十分ありえる。
■秀吉が家康を伏見城に留めた「狙い」
一方、まったく逆の説をとなえているのが、矢部健太郎氏である。
矢部氏は「太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚」(『浅野家文書』)など秀吉の遺言をいくつか分析し、「豊臣政権の『権力』の象徴は、あくまで大坂城」で、「大坂城と伏見城とでは、城としての機能や規模、軍事的な動員能力などに大きな差があった」とし、それを根拠に「家康を伏見に残した秀吉には、『政務を総覧』させることではない、別の意図があった」(『敗者の日本史12 関ヶ原合戦と石田三成』吉川弘文館)と推論する。
その意図というのは、家康を「脆弱な伏見城周辺」に置き、「『人質』として畿内に留め置き、容易に帰国させない状況を生み出す」(前掲書)ことだというのだ。
矢部氏は「実際に家康が豊臣政権の政策決定を牛耳ったわけではないし、伏見には家康と前田玄以、もしくは長束正家、大坂には利家らがいるような状況にあっては、『合議制』などを実際に運営できたか否か、はなはだ疑問である」とし、「政権の本体は、豊臣宗家の当主・豊臣秀頼とともに、大坂城にあった」(前掲書)と論じている。

つまり、この遺言の目的は、家康の封じ込め作戦だったというわけ。実際、別の遺書(早稲田大学蔵)では、家康は3年間の在京を命じられており、矢部氏の解釈をとると、この危機的な境遇から脱するため、家康は秀吉の死後、強権を発動して政権内で主導権を奪おうとしたことになる。
■一流の名医たちが交代で治療に当たった
慶長3年(1598)6月に入ると、秀吉は食事もろくに喉を通らなくなってしまった。寵愛する豪に宛てた6月17日の手紙(現代語訳)を紹介しよう。
「万が一のときのために、この手紙を書いておく。病気になって心許ないまま、筆を走らせている。私はこの15日間、飯を食べることができなくなり、とても閉口している。昨日は気を紛らわすために城の普請場に出てみたが、かえって調子が悪くなり、ますます衰弱してしまった。お前も病気だと聞いたが、ぜひ養生してほしい。元気になったらまた顔を見せておくれ」
そして翌7月に入ると、ほとんど寝たきりの状況になり、7月1日におこなわれた神楽の効果もなく、前述のように尿失禁や気絶をすることもしばしばだった。もちろん豊臣政権は秀吉の治療に最善の手を尽くした。
篠田達明氏によると、「医師たちは侍医団を構成して輪番(りんばん)診脈による集団治療をおこなった。
伏見城奥殿に集められた顔ぶれは秀吉の側近で医師団の総指揮をとった施薬院全宗をはじめ、長老格の曲直瀬玄朔、半井通仙院、半井明英、竹田定加、盛方院坂浄慶、祐乗坊瑞久、秦宗巴といった当時の錚々(そうそう)たる名医たちった」(『戦国武将のカルテ』角川ソフィア文庫)という。
■秀吉の心身を蝕んだのは脚気だった?
秀吉の病だが、一次史料からでは特定するのは困難である。
胃がん、肺がん、梅毒、脳梗塞などの可能性が指摘されているが、医師の若林利光氏は、その症状から脚気(かっけ)だったのはないかと考えている。
その論拠として、「秀吉は体調を崩すまでは醍醐の花見に見られるように普通の生活を送っていた。脚気は比較的健康な人に突然やってくる病気なのだ」と述べ、「次に秀吉の意識レベルの変動だ。死んだかと思われたほど悪化していたものが、蘇っている。これは脚気によるウェルニッケ脳症で起こる錯乱状態で説明できる。そして臨終間際の狂乱状態は、ウェルニッケ脳症の振戦せん妄で説明できる。また、愚かしいことを口走った後に正常に戻って秀頼のことを案じることができたというのも、振戦せん妄症状が一過性であるという脚気の特徴とよく一致するのだ。このように、秀吉の最期に見られた精神症状は、見事に脚気によるウェルニッケ脳症で説明できる」(若林利光著『戦国武将の病が歴史を動かした』PHP新書)という。
■「天下を我が子に確実に継承させたい」
歴史の専門家とは異なるユニークな見解である。確かに昔は脚気を予防するビタミンB?が豊富な麦飯を好んだようだが、やはり茶会や宴席で食べている食事を見ると、脚気の可能性は否定できない。

ともあれ、死に際して最も秀吉が心を砕いたのは、己が実力で手にした天下を幼い秀頼に確実に継承させることであった。そこで5人の有力大名(五大老)が話し合いによって政治方針を定め、5人の側近(五奉行)が政務を分担するよう命じた。
この頃から秀吉は、秀頼に忠誠をちかう誓詞を頻繁に諸大名より提出させるようになった。また、五大老と五奉行間でも誓詞が交換された。
たとえば家康は、8月5日に五奉行に宛てて八カ条の起請文を送ったが、そこには
「①秀頼への奉公、②法度置目(おきめ)の遵守、③私の遺恨を企てないこと、④徒党しないこと、⑤知行方(ちぎょうがた)については秀頼が成人する前には執り行なわないこと、⑥奉行衆に対する讒言(ざんげん)を取りあげないこと、⑦公私とも隠密の儀は他言しないこと、⑧家康の一類・家来に不届きがある時は申し出るよう依頼する」(藤井讓治著『人物叢書 徳川家康』吉川弘文館)
といったことが記されていた。この誓詞を読むと、秀吉が死んだ後に不安定な政情に陥ることを予見しているような文言である。
■最後の力を振り絞り、五大老に頼んだこと
8月、秀吉は、完全に寝たきりになってしまった。ただ、家康が誓詞を提出した8月5日は一時的に意識がはっきりしたのだろう。家康や前田利家ら五大老たちを枕元に集め、自ら書いた遺言を披露した。以下、原文で紹介する。
「返す返す、秀頼事、たのみ申し候。五人の衆たのみ申し上げ候候。
いさい五人の者に申しわたし候。なごりおしく候。以上。秀頼事、成りたち候やうに、此の書付の衆として、たのみ申し候。なに事も、此のほかにはおもひのこす事なく候。かしく」(桑田忠親著『太閤の手紙』講談社学術文庫)
再三繰り返しているが、とにかく心配だったのは、最愛の息子・秀頼の将来だった。秀頼が天下人としてなり立つように豊臣政権を支えて欲しいと五大老に哀願したのである。
たぶん涙や鼻水を流しながら、枕元に集まった家康たちに手を合わせてひたすら拝んだのではないだろうか。その情景が思い浮かぶ。この期におよんでまで権力と愛息に執着する姿は、醜悪でみじめで哀れに思えてくる。
■貧農の子から天下人に成り上がった男の最期
8月18日の午前2時頃、ついに豊臣秀吉は息絶えた。62歳であった。当時としては決して短命ではなかったが、当人としてはさぞかし無念だったろう。
「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
これが秀吉の辞世である。名も無き両親のもとに生まれ落ちた自分が大名に成り上がり、陽の昇るような勢いで栄達の階段を駆け上り、天下を掌握するとは考えもしなかったはず。大坂城での天下人の暮らしはまさに一炊の夢だったのではないか、そんな感慨が人生最後に秀吉の胸中に去来したようだ。
秀吉の遺体は立派な棺におさめられ、とりあえず伏見城の庭園に安置された。ただ、その死については、一部の大名以外には完全に秘匿された。武家社会に動揺が走るのを避けるためであった。朝鮮半島では、大勢の大名たちが必死に戦っていた。彼らが太閤の死を知ったら、士気にかかわってくる。
ルイス・フロイスは、うっかり秀吉の死を漏らしてしまったある大名の家来は磔(はりつけ)に処されたので、みな仰天して口をつぐんだとその著書『日本史』で語っている。
朝鮮にいる日本軍については、徳川家康が中心になって、すみやかな撤兵作業がおこなわれていった。

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河合 敦(かわい・あつし)

歴史作家

1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数

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(歴史作家 河合 敦)
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