■アメリカ人のお手本となったケネディ家
僕の幼少期には無限の可能性を信じるこの空気が背景にあり、そのために母も僕らに大きな期待をかけていた。僕は母と父の両方に等しく育てられたが、母は時計の針を8分先にすすめていて、僕らは母の時間に合わせて行動した。
母は最初から家族について壮大な構想を抱いていた。父が大きな成功を収めることを望んでいた。成功はお金よりも評判の問題であり、コミュニティとより広く市民団体や非営利組織で果たす役割によって定義される。
子どもたちには学校とスポーツで優秀な成績を収め、積極的に人と付き合い、すべてに全力を投じてやり遂げることを期待していた。大学へ進学するのは当然だと思っていた。そこでの母自身の役割は、妻と母親として家族の支えになることと、コミュニティで影響力ある人間になることで、それがやがて母のキャリアになる。
はっきり口にしたことはなかったが、おそらく母にとってゲイツ家のお手本は当時の最も有名な家族、ケネディ家だったのではないか。さまざまな悲劇と問題に襲われる前の1960年代はじめには、この有名一族は見た目がよく、成功を収め、活動的で、スポーツ好きで、洗練された暮らしを送るアメリカ人一家のお手本だった(メアリー・マクスウェル・ゲイツをジャッキー・リー・ケネディになぞらえる母の友人もひとりならずいた)。
■「整理された状態」を保つことがルール
僕らは母が築いたルーティン、しきたり、規則の構造に従って暮らした。
ベッドを整え、部屋を掃除して、アイロンのかかった服を着て、1日の準備を整える――毎日のこうした平凡な作業が神聖な儀式だった。ベッドが乱れたまま、髪がぼさぼさなまま、シャツに皺が寄ったまま家を出てはいけない。
子ども時代に何度もくり返し耳にした母の命令は、いまでは僕の一部になっている。もっとも、いまだに従ってはいないが。
■成績優秀な姉と「問題児」の弟
「テレビの前でものを食べないの」、「テーブルに肘をついたらいけません」、「ケチャップのボトルをテーブルに持ってきたらだめでしょう」(調味料を出すときは、小さなお皿と小さなスプーンを使わなければいけない)。母にとっては、こうしたささいなことが秩序だった生活の基本だった。
1962年、1年生から2年生にかけての僕は、姉のクリスティといっしょに短い坂をのぼってビュー・リッジ小学校まで歩いた。学校ではクリスティがすでに先例をつくっていて、先生たちはその型のとおりに僕も振る舞うものだと思っていた。
クリスティはルールを守る。車に乗っているときは後部座席からスピードメーターを見ていて、制限速度を超えるたびに父に知らせる。
僕はそんな子ではなかった。その数年前に母が保育園の先生に予告していたとおりだ。小学校に入るころには、家でたくさん本を読んでいた。自分で学び方を学んでいて、新しい知識をすぐに吸収できる感覚が好きだったし、物語を読んでひとりで楽しんでもいた。
だが学校の勉強はのろのろとすすむ。学んでいることに興味をもちつづけるのがむずかしく、考えがあちこちへ飛んだ。何かに注意をひかれたら、席から飛びあがったり、しつこく手をあげたり、答えをがなり立てたりした。授業を邪魔しようとしていたわけではない。すぐに心が昂ぶって抑えが効かなくなるのだ。
■両親は学校の先生を夕食に招待した
ほかの子たちともうまくなじめないと感じていた。10月下旬に生まれた僕はクラスメイトの大半より幼く、見た目も実際に幼かった。
母と父がほかの親よりも密に先生と連絡を取っていることは僕も察していた。ほかの家族は学年の最初に子どもの担任を夕食に招いたりするだろうか? するとは思えない。母と父には自然なことで、子どもの教育に力を入れている証だった。クリスティと僕にはただ恥ずかしいだけだ。
わが家のダイニングルームのテーブルで先生が食事しているのは、どこかおかしな感じがする。長年のあいだに辞退した先生はひとりだけだ。ツナ・キャセロールでもてなされるのは利益相反になると恐れたらしい(その先生は学年が終わってから招きに応じた)。
■「がっかりさせないで」という無言の圧力
母と父は成績のことをうるさく言わなかった。ふたりの期待は、ほかの家族について語る母の口ぶりから伝わってくる。
その子たちのようになってはいけません、と言われたことはない。だが母の悲劇的な語り口から、僕らは無言のメッセージを受け取った。のらくらしていてはだめ。優秀な成績を収めるの。がっかりさせないで。
報酬制度も導入された。Aひとつにつき25セント。オールAだと好きなレストランへ連れていってもらえる。選ばれるのはたいてい地上185メートルの〈アイ・オブ・ザ・ニードル〉、真新しいスペースニードルのてっぺんにある回転レストランだ。いつもクリスティの成績のおかげでそこへ行けた。自分の成績とは関係なく、弟だからいっしょに連れていってもらえるのだ。
■祖母は友人であり教師でもあった
そのころには、母は地元の非営利団体でボランティアをして過ごす時間が増えていた。のちにユナイテッド・ウェイと呼ばれるようになるジュニア・リーグなどの団体だ。午後は出かけることが多くなり、姉と僕が学校から帰ってくると祖母のガミが家で待っている。玄関でガミを見るのがうれしくてたまらなかった。
僕らを家のなかに招き入れ、ピーナッツバターを塗ったリッツのクラッカーなどのおやつを出してくれて、学校のことをあれこれ尋ねる。そのあとはいっしょに本を読んだりゲームをしたりして、やがて母が帰ってくる。ガミは3人目の親のようだった。
休暇中の旅行、クリスマスのスケート・パーティー、夏の避暑地への旅、家族の行事にはたいてい参加する。よその家族は、ゲイツ家の面々と会うときには祖母もそこにいると知っていた。だれよりもおしゃれに服を着こなし、真珠のネックレスをつけて、髪を完璧にセットして姿を現す。
それでもガミは自分が親代わりだとは思っていなかった。ガミは僕らの友人であり、辛抱強い教師だった。
■「紛争解決」という言葉は食卓で学んだ
父が帰ってくると、間もなく夕食がはじまる。たいてい母は、本を読むのをやめなさいと僕に言う。食事中の読書は禁じられていた。夕食は一家団欒の時間だ。
母が聞いた話によると、JFKの父、ジョセフ・ケネディはあらかじめ一人ひとりの子どもにテーマを与え、夕食の席で話をさせたという。将来の大統領は、ニンジンを齧る合間にアルジェリアの概要を説明させられたのかもしれない。
このケネディ家のしきたりと、団欒の時間に学べる大事なことについて、僕らは夕食の席で話し合った。母と父は何かを暗誦させようとはしなかったが、僕らはその日の出来事を話し、母と父も自分たちの話をする。こうした会話を通じて僕は大人たちの生活を想像するようになり、大人たちが暮らす広い世界で起こっていることに思いをめぐらすようになった。
「マッチングファンド」や「紛争解決」といった言葉を初めて聞いたのも夕食の席だ。母がジュニア・リーグのキャンペーンやユナイテッド・ウェイの課題について語るなかで出てきた言葉で、母の声は真剣な調子をおびていた。
■人生哲学を子どもに何度も教えた母
だれもが公平に扱われるべきだ。どの問題も慎重に検討されなければならない。1ドル1ドルが賢明に使われるべきだ。母は人生哲学をひとつの言葉にまとめていて、僕らは頻繁にそれを耳にした。「よき世話役〈スチユワード〉」たれ。母の定義はメリアム゠ウェブスターの辞書の定義と同じだ。任されたことを慎重に、責任をもって管理すること。まさに母のことにほかならない。
父は当時、スキール・マッケルヴィー・ヘンケ・エヴェンソン&ウルマンで働いていた。強硬かつ徹底した訴訟で知られる法律事務所だ。法廷のブルドッグを演じることが父の気性に合っていたとは思えないが、陸軍のときと同じく、いい訓練になると思っていたのだろう。
父が手がける訴訟の細かい点までは理解できなかったが、事務所から重要な仕事を任されていることはわかっていた。父の最大のクライアントで成長中の地元化学薬品企業、ヴァン・ウォーターズ&ロジャースの名がいつも話題にのぼっていた。
■正義感の強い父が憤った「ある事件」
弁護士という職業が何かを知りもしないうちから、法律とは尊敬すべき何かなのだと父から感じとっていた。父の話を聞くと、強い正義感の根本にあるものが垣間見えた。
キャンウェル委員会についての話も聞いた。母と父の学生時代にワシントン大学を席巻した反共産主義の魔女狩りのことだ。州議会議員でこの委員会のトップを務めていたアルバート・キャンウェルは反対尋問と異議申し立てを禁じ、ほかの公正確保の手段も平然と無視した。
その数年後に全国規模でおこなわれるマッカーシー聴聞会の先がけとして、この委員会は無実の人たちのキャリアを台なしにした。父の恩師もふたり犠牲になる。父は聴聞会の報道に愕然とし、委員会の目に余る不正に軽蔑を覚えた。
■裁判ドラマより残業する父のほうが興味深い
母と父はたまに大人気のテレビドラマ『ペリー・メイスン』を見せてくれた。優秀な刑事事件弁護士が手がける裁判を中心に話がすすむ。エンドクレジットが流れる直前に厄介な事件が魔法のように解決し、大団円を迎える。父の話を聞いていた僕は、法律(と人生)はそんなに単純なものではないと知っていた。
父が手がける案件はとんでもなく複雑そうだった。父は夕食後もたいてい遅くまで起きていて、ダイニングルームのテーブルで書類の山と格闘し、翌日の訴訟案件の準備をする。テレビで見る仕事よりずっと地味だが、僕にははるかに興味深かった。
ボランティアや社会貢献などについて、母と父がやや高潔で立派すぎるように聞こえるかもしれないが、それは仕方ない。実際そういう人だったのだ。多くの時間を計画や会議、電話や運動などに費やし、コミュニティを手助けするために必要なことをなんでもやっていた。
父は朝には学校運営用の地方税を支持する看板を身につけてサンドイッチマンとして街頭に立ち、夜には会長を務める大学YMCAの役員会に出席する。僕が3歳のとき、母はジュニア・リーグのプログラムの責任者として、4年生の教室で博物館の収蔵品を見せた。
僕がこれを知っているのは、新聞で取り上げられたからだ。母と僕と医療用品の箱を収めた写真の下に、こんなキャプションがついている。「“ティリカム・ボックス”に入った昔の医療用品キットを調べる3歳半の息子、ウィリアム・ゲイツ3世を見守るウィリアム・ゲイツ・ジュニア夫人」
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ビル・ゲイツ(びる・げいつ)
技術者、経営者、慈善家
1975年に旧知のポール・アレンと共にマイクロソフト社を設立。現在はゲイツ財団の会長を務めている。また、グリーン・エネルギーやそのほかの気候変動に関わる技術の商業化を目指すブレイクスルー・エナジー、および革新的な原子力の開発に投資するテラパワー社の創業者。3人の子どもがいる。著書に『地球の未来のため僕が決断したこと』『パンデミックなき未来へ 僕たちにできること』(いずれも早川書房刊)など。
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(技術者、経営者、慈善家 ビル・ゲイツ)

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