■世界トップレベル大学の「試練」
大学入学後の数カ月は、お菓子屋さんにいる子どもみたいな気分だった。無限に存在するかのような専門家と知的刺激に目がくらんでいた。
1年生の人文学の授業「ギリシア古典の興隆」では、ジョン・フィンリー教授がホメロス、ヘロドトス、アリストパネスを映画のように現代の生活・文学と結びつけた。プログラミングの限界に挑戦させてくれる自主学習の自由が僕は大好きだった。上級微分積分学のクラス「数学55」でジョン・マザーの問題と格闘し、切磋琢磨するなかで得た友情からエネルギーをもらっていた。
だが最初の学期の終わりごろには途方に暮れていた。僕は1学年に90人もいない小さな学校からハーバードへやってきた。レイクサイドでは、きっかけを掴んだあとはたやすく優秀な成績を取り、みんなに認められた。教師、学校管理者、親の緊密なコミュニティにも支えられていた。
みんな僕が普通とはちがい、頭がよくて不器用な子だと知っていて、ときどき背中を押されたり(“演劇の授業を取りなよ、ビル!”)、自由を与えられたり(“もちろんだ、1学期休んで働いてきなさい”)する必要があることもわかっていた。
■各高校のトップが「いちばん」を目指す
ハーバードでは僕はひとりぼっちで、はるかに大きなプールで泳いでいる。
これを切実に感じたのは、有機化学の授業に出たときだ。数百人の受講者はほとんどが医学部進学課程の学生で、医者になるまでの長い道のりに欠かせないハードルとして、この授業でいい成績を収めようと固く決意していた。僕がこれを履修したのは単純な理由からで、モリス博士の高校化学が大好きだったからだ。医学部へすすむつもりはなかったが、それでも有機化学は次の段階として自然だと思えた。
巨大な講堂の前にいる教授を食い入るように見つめながら、クラスメイトたちはとんでもなく分厚い教科書を危なっかしく膝にのせ、色のついた球と棒のキットでてきぱきと分子を組み立てている。僕は怖じ気づいた。
■36時間動き、学生寮で12時間寝る日々
学期がはじまって数週間の時点で、有機化学の授業には行かなくなった。成績はすべて期末試験で決まるのだから、学期末までにすべてを学びさえすればいい。有機化学の授業は録画されていて、科学センターで視聴できる。講義に出席しなくてもそれを見ればいい話だ。
ハーバードにはリーディング期間というすばらしいものがあった。
友人たちには極端だと思われても、自分にはしっくりくる日々のリズムに身を委ねた。勉強とプログラミングに取り組み、36時間眠らずにいることもあった。疲れに負けるとウィグA‐11へ戻って12時間以上眠る。服をすべて着たまま眠ることも多く、ときには靴も履きっぱなしで、いつも黄色い電気毛布を顔にかけて日の光を遮っていた。
目を覚ますとジム・ジェンキンスかサムといっしょに何か簡単なものを腹へ詰め込み、場合によってはアンディとジムのところへ立ち寄ってから授業や図書館へ向かったり、エイケン研究所へ戻ったりする。何カ月もこうしたルーティンをくり返した。
■「ハーバード大学でいちばん」の記録を樹立
入学したとき、僕はリネン・サービスに申し込んだ。金銭的に余裕のある学生の贅沢だ。週に1度、毎日使うシーツを洗濯ずみの一式と交換してもらえる。
洗濯室の人が名簿で僕の名前を調べると、少なくとも1カ月半が経っていた。「すごいな、新記録だぞ!」と笑う彼に僕は汚いシーツを手渡した。立ち去るときにこう思った。“おい、これは立派な成果じゃないか。少なくともひとつ、ハーバードでいちばんになったんだ!”
学期末が近づきビデオルームへ足を運ぶと、有機化学のクラスメイトたちがたくさんいて驚いた。みんな教科書をひらいて分子のモデルを手に持ち、1学期きちんと出席した講義を録画で復習している。ビデオは理解するのがむずかしかった。ときどき音声が途切れる。画面が真っ黒になり、映像が見えずに教授の言葉が意味不明なところもある。
ビデオを見ていると、クラスメイトたちが一斉にいくつかの白い水素原子と黒い炭素原子を合体させ、これは異性体的に対称なのか、それとも対称的に異性体なのかと話し合っている。
“なんだこりゃ”僕は思った。“もうおしまいだ”
その授業の評価はCだった。大学で取った最低の成績だ。春学期に有機化学の後半は履修しなかった。
■アドバイザーからの忘れられない一言
1年生にはアカデミック・アドバイザーがつき、専攻を選ぶまでの助言を受ける。学生は2年生になると専攻を決めることを求められるのだ。僕は秋に担当アドバイザーと会えなかった。春学期のはじめに彼のオフィスから電話があり、面会の時間を決めた。
僕はコンピュータ科学関係の大学院の授業をひと足先に履修させてほしいと求めていて、彼もそれを耳にしていた。僕は大学側を説得し、最初の学期にそうした授業をひとつ聴講していた。AMATH251a「オペレーティング・システムのアーキテクチャ」という授業である。
一方、ほかの授業ははっきりと何かの専攻につながるとは思えなかった。数学55の後半を取り、生理心理学の授業に登録していた。「生物学的な機械として見た有機体の行動」に焦点を合わせた科目である。
僕のアドバイザーは化学科の教員で、彼とはすばらしい関係を築くことになる。このうえなく親切で、専攻の候補を検討する手引きをしてくれた。だが最初の面会ではぎょっとさせられた。
何を話したのか正確には憶えていないが、僕は当時の自分に典型的な、あのせかせかした思考の流れに飛び込んだ。未来のコンピュータはいまのほこりをかぶった古めかしい代物とはまったく異なるものになると熱く語り、心理学の授業に登録したのはいつの日かコンピュータが人間の脳の力に匹敵するようになるからだと説明する。
この言葉の渦にすっかり呑み込まれて、アドバイザーは言った。「きみはとてもませているな!」
■友だちからも「悪ガキ」と思われていた?
そのときまで僕をそう呼ぶのは母だけで、褒め言葉として使われてはいなかった。こちらが口答えをしたり反発したりすると、「ませた子ね」と母は言う。
彼は僕の正体を見抜いている。僕はまた問題児の5年生に逆戻りしたのだ。
「信じられる? あいつに“ませている”って言われたんだけど!」
寮に戻って友人たちに話し、アドバイザーが礼儀の一線を踏み越えたことを確かめようとした。だれも反応しない。
「ませているだなんて。あまりにも失礼だよ」
「でもビル、きみは実際ませているじゃないか」
アンディが言う。さらにがっかりした。友だちにまで悪ガキだと思われていたのだ。きみはこの言葉の意味を知らないんだとアンディは言う。調べてみろよとだれかに言われて、実際に調べてみた。
“ひときわ早い成長……非常に若い年齢で成熟した特質を示すこと”
■「数学の達人」という自信があったが…
僕は同年代の子よりも大人と話すほうが楽で、大人の知識(と自分が思うもの)に通じていた。そんな役をみずから演じていた。速読家で数学の達人、トレイ・ゲイツ。株と特許、ミニコンピュータの登場、ナイロンの発明について話ができる頭のいい子。その根底にあったのは、知的に恐れを知らず、何にでも興味があって、教えてくれるのならなんだって学ぶ準備があるという自信である。
早熟と言われる年齢はいつまでだろう? どこかの時点で人は大人になり、大人として評価されるようになる。ただの好奇心旺盛な子どもではなくなる。
学校生活の大半で、僕は数学こそが最も純粋な知の領域だと思っていた。いま考えると当然だが、母数の大きなハーバードでは、たとえ生来の才能があっても自分よりできる人がいる。そのうちのふたりは僕の親友だ。
■自分は「まがいもの」だと気づいた
数学55の勉強会では、助け合いながらこっそり互いの点数も把握していた。より広い数学オタクの界隈にもこれは当てはまる。みんながほかのみんなの動向を知っている。ウィグBのロイドは数学21aのテストでAを取った、ピーターかだれかがマザーのレジュメに誤りを見つけた、といった具合だ。
その日にだれがいちばん思考が速くて頭が切れたのか、最初に「わかった」と言ってみんなを正解に導くことができたのか、だれもがわかっていた。毎日トップを目指して頑張った。最初の学期の終わりには、このヒエラルキーのなかで自分は望んでいた位置にいないことがわかった。数学55の上位ふたりはアンディとジムだ。
たいていの基準でいえば僕はよくやっていた。最初の学期にB+をもらい、数学55ではかなりの好成績だ。だが僕のシビアな見方では、その成績は自分の知識よりも怠慢を証明していた。B+とAの差は、クラスのトップとまやかしの人間との差である。厳しく現実を見るなら、クラスの全員が周囲のだれよりも数学のできる人だったはずだ――その時点まで。
全員がSATの数学で800点満点を取っていた。自分がいちばんできるだろうと思って大学へ入学した。いちばんでないとわかると、それまで自分で自分をだましていたことに気づく。僕に言わせれば、僕らはまがいものだった。
■数学でトップクラスになることの難しさ
その授業でもっといい成績を取れなかったことで、自分についての考えを見直すことを迫られた。いちばん頭がいいこと、だれよりも優秀であることが僕のアイデンティティだった。その立ち位置を楯にして不安を隠していた。そのときまで、自分にとって大切な知的活動でほかの人のほうがはるかにすぐれていると感じた経験はごくわずかしかなかった。そうした場合には、その人たちから学べることを吸収した。
今回はそれとはちがう。自分には優秀な数学の頭脳はあっても、トップクラスの数学者をほかから際立たせる洞察力はないのだと気づきはじめた。才能はあっても、根源的な発見をする能力はない。10年後の自分の姿が見えた。大学で教えているが、画期的な仕事をする力はない自分。ジョン・マザーのようにはなれないし、宇宙の深い神秘に数学が触れる領域で仕事はできない。
僕だけではない。その冬に寮で話しているとき、アンディとジムも途方に暮れて心の危機に直面していることを打ち明けていた。ふたりともマザーをお手本にしていて、純粋数学をつづければあんなふうになると思っていた。マザーは優秀だが自分の世界で生き、具体的なものからは完全に切り離されているようだ。
その時点ではわからなかったが、アンディはそれから1年もしないうちに純粋数学に燃え尽き、3年生のときに1学期休学して、応用数学専攻で卒業した(のちに法律の学位を取ってウォール街で税金の専門家になる)。ジムは物理学の学位を取って卒業した(その後、コーネル大学で有名な物理学の教授になる)。
■「どうしてコンピュータをやらないんだ?」
数学55の仲間のひとり、ピーター・ギャリソンも同じような気づきを経験した。彼にとって純粋数学は至高の芸術のようなものだった。ミケランジェロの『ダビデ像』の偉大さをピーターは理解できたが、それほど完璧なものは自分にはとうてい生み出せないとわかっていた。純粋数学者になるには、ミケランジェロになれると信じられなければならない(ピーターはほかならぬハーバードで科学史の影響力ある教授になる)。
僕は何になるのだろう? 親からは暗黙の期待があった。その2月にリックに書いた手紙で僕はこう語っている。「先週、親とニューヨークへ行った。劇を観たり、高級レストランへ行ったり。ふたりは僕がビジネスか法律を選ぶのを望んでいる。口に出しては言わないけどね」。ニューヨークで何があったのかはわからないが、こうした選択肢を母と父が望んでいる気配を感じとったのだろう。「僕はまだ何も決めていない」
実は潜在意識のなかではすでに答えに近づいていた。ハーバードの友人の多くは、僕が数学にこだわっているのはおかしいと考えていた。ロイド・トレフェッセンという友人(結局、数学者になった)から、当然の結論へ目を向けるようにうながされたのをはっきり憶えている。「コンピュータがとても得意じゃないか。どうしてそれをやらないんだ?」
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ビル・ゲイツ(びる・げいつ)
技術者、経営者、慈善家
1975年に旧知のポール・アレンと共にマイクロソフト社を設立。現在はゲイツ財団の会長を務めている。また、グリーン・エネルギーやそのほかの気候変動に関わる技術の商業化を目指すブレイクスルー・エナジー、および革新的な原子力の開発に投資するテラパワー社の創業者。3人の子どもがいる。著書に『地球の未来のため僕が決断したこと』『パンデミックなき未来へ 僕たちにできること』(いずれも早川書房刊)など。
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(技術者、経営者、慈善家 ビル・ゲイツ)

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