※本稿は、山崎雅弘『日米軍事近現代史 黒船来航から日米同盟まで』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■日本とアメリカの関係は「揺るぎない」?
日本国の総理大臣がアメリカ合衆国との二国間関係について言及する時、「揺るぎない日米同盟」という威勢のいい言葉がしばしば使われる。
例えば、石破茂首相(当時)は2024年11月15日、ジョー・バイデン米大統領(同)との日米首脳会談後に行った記者会見で、「揺るぎない日米同盟を、今後も更に発展させ、更に緊密に連携していくということで、一致をみたものであります」と述べた。
この言葉を報じる新聞やテレビも、特に疑問を差し挟むことなく無批判に伝達する。
日々、こうした光景を見せられる日本国民は、日米同盟とは日本が近代国家になってからずっと続いている「不変的な友好関係」であるかのように、錯覚しそうになる。
だが、日米同盟という二国間の関係は、今後も「揺るぎない」と言えるのか?
■80年前は「戦勝国」と「敗戦国」だった
近現代史をひもとけば、日本とアメリカの同盟関係の歴史は、それほど長いとは言えない。例えば、アメリカとその元宗主国であるイギリスの政治と軍事の同盟関係は、第一次世界大戦(1914~18年)へのアメリカの参戦(1917年)から数えても100年以上の歴史があり、共に元イギリスの植民地だったアメリカとカナダ、アメリカとオーストラリア、アメリカとニュージーランドの同盟関係も、日米同盟よりは長い。
これらの国々は、長らくキリスト教プロテスタントの白人が政治の実権を握っていたこともあり、軍事同盟の結びつきはきわめて強固で、政府の諜報機関が軍事を含む外国の機密情報を共有する特別な関係(通称「ファイブ・アイズ」)を構築している。
そして、アメリカとイギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの同盟関係は、各国が対等な主体として築き上げてきたものである。
一方、日本とアメリカの現在の同盟関係は、始まりからして、これらの5カ国の関係とは大きく異なっている。第二次世界大戦の「戦勝国」であるアメリカが、「敗戦国」日本を自国に都合のいい形で従えるという、いわば「主従関係」を基礎としている。
■アメリカによる日本の主権侵害は続いた
敗戦国の日本が戦勝国の占領統治から脱して、国家主権を取り戻す転機となった「対日平和条約(通称サンフランシスコ講和条約)」の調印がなされた直後の1951年9月8日、当時の吉田茂首相がサンフランシスコ北西の米軍施設(プレシディオ基地)を訪れて一人で署名した「日米安全保障(安保)条約」が、戦後の日米同盟の出発点だった。
この年を起点とするなら、日米同盟の歴史は、今年で74年となる。
その後、1960年1月19日の「新日米安保条約」調印(日米安保条約の改定)により、形式的には日本とアメリカが対等であるかのような体裁が作られたが、実際には「日米地位協定」などの行政分野の取り決めにより、アメリカ政府やアメリカ軍による実質的な日本の主権侵害が、さまざまな形で許容されてきた。
■不確かな関係であることと認めたくない?
このような「戦後の日米同盟」が築かれる前には、日本はアメリカと全面的に敵対し、日本兵とアメリカ兵が戦場で殺し合う、容赦ない全面戦争を戦う関係にあった。
1941年12月8日の日本軍による真珠湾への奇襲攻撃から、1945年8月14日のポツダム宣言(無条件降伏)の受諾(昭和天皇による録音演説のラジオ放送でその事実が日本国民に知らされたのは翌15日)までの3年と8カ月、日本政府と陸海軍は交戦国アメリカ(およびイギリス)への敵意を国内で煽り、日本国民の間では「鬼畜米英」という憎しみを込めた言葉が日常的に使われていた。
冒頭に記した日本国の総理大臣の言葉は、こうした歴史的な経過を踏まえて読むと、きわめて軽薄な印象を受ける。むしろ、大国アメリカとの同盟関係が永遠に続くことを願うという、切実な願望が込められた、情緒的な言葉遣いに思える。
歴史のスパンで考えれば、将来において日米同盟が何らかの理由で解消される可能性は当然ありうるが、日本政府も国民の多くも、日米同盟という二国間関係は決して「未来永劫続くとは限らない不確かなもの」だという現実を直視したくないのかもしれない。
■新興国アメリカが植民地競争に参戦
政府レベルでの日米関係が実質的に始まったのは、1853(嘉永6)年7月8日に起きた「黒船来航」、すなわちマシュー・ペリー米海軍代将率いるアメリカ海軍東インド艦隊の浦賀(現神奈川県)沖への出現という、日本史上の一大事件がきっかけだった。
当時のアメリカは、ヨーロッパのスペインとポルトガル、イギリス、フランス、オランダによる地球規模での植民地と市場の開拓競争に、出遅れて加わった新興勢力だった。
アメリカ合衆国という国の歴史は、1776年7月4日の「アメリカ独立宣言」を挟んで行われた、イギリス植民地からの独立戦争(1775~83年)と共に始まった。この戦いでの勝利により、アメリカはニューハンプシャーやニューヨーク、メリーランドなど東部の13州を最初の国土とする、共和制の連邦国家として誕生した。
その後、同国はフランスからの植民地の購入などで領土を西へと拡大し、南の隣国メキシコとの戦争(1846~48年の米墨戦争)で勝利した後、中西部の広大な領域(カリフォルニア、ユタ、ネヴァダの各州と、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラド各州の一部)を、メキシコからの割譲によって自国へと組み入れた。
■ペリー率いる黒船が日本に来航した理由
ペリー率いる黒船の来航は、この割譲を定めた1848年2月2日の「グアダルーペ・イダルゴ条約」から数えて、5年5カ月後のことだった。
北米大陸の横断征服に成功し、新天地カリフォルニアを獲得したアメリカは、太平洋に面した植民地と市場の開拓競争で新たなステップを踏み出し、すでにヨーロッパ各国が参入していた中国の権益獲得に乗り出すための北太平洋航路(大圏コース)を切り開いていった。
また、当時の世界ではマッコウクジラの脳油(鯨蠟(げいろう))が灯油や機械油、ろうそくや石鹸の材料として広く利用されており、アメリカは太平洋でも大規模なクジラ漁を開始した。その捕鯨船団が、太平洋の反対側で中継基地として利用するのに適した場所として、白羽の矢が立てられたのが、マッコウクジラの棲息環境にも近い日本列島だった。
これらの事実が示す通り、ペリーの黒船来航は、地球規模での国益追求の一環としてなされたものであり、いわば「地球儀(グローブ)の上で立案された」計画だった。
■地球儀で考えるアメリカ、地図で考える日本
アメリカの政府機関や軍上層部で取り交わされる文書には、しばしば「西半球」や「東半球」という地球儀を想定した言葉が使われるが、アメリカは黒船の時代からすでに「グローバルな視点」で世界規模の戦略を組み立てていたのである。
一方、同時代の日本は、いまだ物質面で近代化の波に乗れていない北西太平洋の島国であり、当時の欧米諸国が運用した遠洋航海の船団を、日本は保有していなかった。
外交や軍事を含む政治全般を取り仕切った徳川幕府は、制限つきで出入りを許したオランダ人を通じて、欧米の文化や専門技術、宗教、社会システム、政治などについて断片的な知識を得ていたが、海を越えて外の世界に打って出る手段を持たない状況では、思考の範囲も必然的に、日本近海とその対岸という狭い範囲に留まっていた。
現存する最古の地球儀は、1492年に現在のドイツ(ニュルンベルク)で製作された「マルティン・ベハイムの地球儀」で、16世紀末には「南蛮(スペインとポルトガルを指す当時の呼称)渡来物」として日本にも持ち込まれ、やがて複製品が作られた。だが、徳川幕府が影響力を行使できる日本周辺以外の領域は、日本人には手の届かない世界だった。
それゆえ、当時の日本(幕府)における外国諸勢力への対処法の検討は、立体の地球儀ではなく、日本を中心として描いた平面の地図上だけで完結していた。
■日本の外交は「点と線で捉える思考」
外国勢力と自国の関係も、当時の日本(幕府)においては、日本対中国(清)、日本対ロシア、日本対イギリス、日本対オランダ、日本対アメリカなど、二つの点を線で結ぶような形で個別に考慮されていた。
このような、対外関係を「点と線で捉える」という思考形態は、戊辰戦争(1868~69年)で徳川幕府を倒した薩摩と長州が大日本帝国政府を樹立した後も、そのまま継承された。日清戦争(1894~95年)は日本対清国、日露戦争(1904~05年)は日本対ロシアの図式で、第一次世界大戦はイギリスとの関係重視という体裁をとりつつ、実質は日本対ドイツという図式の戦いだった。
それに続くシベリア出兵(1918~22年)も、米英仏などの連合国と共に参加したロシア革命への干渉戦争だったが、派遣された日本軍の行動は他国との連携を欠き、ウラジオストク方面でもバイカル湖方面でも、日本対赤色革命勢力という構図だった。
満洲事変(1931~32年)と日中戦争(1937~45年)も、国際協調の姿勢を捨てた単独行動としての、日本対中国(中華民国)の戦争で、1941年12月に開始したアジア太平洋戦争(当時の大日本帝国での呼称は、日中戦争を含め「大東亜戦争」)も、全体では日本対連合国という形ではあったが、実際の戦争遂行においては、日本対アメリカと、日本対イギリス、日本対オランダの戦争を並行して行うような形だった。
■マルチタスクが苦手な日本人の“大失敗”
複数の周辺国との力学を平面上で読み解くという「面で捉える思考」を、日本の政府や軍上層部は苦手としていた。パソコンの用語で言うなら、徳川幕府も大日本帝国政府も、対外戦争を個別の「シングルタスク」という形で直列的に処理し、同時並行的に複数の国との利害調整を行いながら対処するという「マルチタスク」の能力は著しく弱かった。
その典型が、日中戦争を「日本対中国という二点の図式に留まらない、間接的な対英米戦」と理解することに失敗し、対英関係や対米関係の悪化という副次的影響を軽視したまま対中戦争をずるずると泥沼化させ、最終的にアメリカの「対日石油禁輸」(1941年8月1日)という決定的な出来事を引き起こすに至った一連の流れだった。
すでにヨーロッパで侵略行動を開始していたドイツおよびイタリアとの軍事同盟への参加(1940年)や、当時フランスの植民地だったベトナム(仏領インドシナ)の北部と南部への進駐(1940~41年)も、それがイギリスおよびアメリカへの敵対行動に当たるという認識が薄く、新たな世界大戦で一方の陣営に身を置いた自覚も薄かった。
対するアメリカでは、幕末における日本との条約交渉から現在に至るまで、日本との関係は個別の二国間問題に留まらない、同国の世界戦略の一環と位置づけられ、「点と線」ではなく「面で捉える思考」で検討と具現化がなされてきたと言える。
■トランプを相手に日本はどうしたらいいのか
つまり、我々が単純に「日米同盟」と呼ぶ日本とアメリカの二国間関係は、双方で思考のスケールや視座の高さが異なる、非対称な形をなしているのである。
本書は、このような思考形態の違いに留意しながら、ペリーの黒船来航から第二次世界大戦期の直接対決を経て現在に至る172年間の日米関係の歴史について、主に軍事と安全保障政策の観点から振り返るものである。
2025年1月20日にアメリカで第2期トランプ政権が発足し、同年10月21日に高市早苗が日本の内閣総理大臣に就任したあと、日米の同盟関係とアメリカ軍・自衛隊の協力関係も、新たな時代に入りつつある。
これからの日米関係は、どのような方向に進んでいくのか。一寸先の見通しも揺らぎ始めた動乱期の今、日本とアメリカの関係はどうあるのが日本人にとって望ましいのか。
それを考える判断材料の一つとして、本書の内容を役立てていただければ幸いである。
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山崎 雅弘(やまざき・まさひろ)
戦史・紛争史研究家
1967年大阪府生まれ。軍事面に加えて政治や民族、文化、宗教など、様々な角度から過去の戦争や紛争を分析・執筆。同様の手法で現代日本の政治問題を分析する原稿を、新聞、雑誌、ネット媒体に寄稿。著書に『[新版]中東戦争全史』『1937年の日本人』『中国共産党と人民解放軍』『「天皇機関説」事件』『歴史戦と思想戦』『沈黙の子どもたち』など多数。
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(戦史・紛争史研究家 山崎 雅弘)

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