日本の学校には、薪を背負って本を読む二宮金次郎の銅像が多く建てられた。なぜ彼は子どもたちの「お手本」とされたのか。
小学校教諭で銅像教育研究家の丸岡慎弥さんの著書『銅像が教えてくれる日本史』(扶桑社新書)より、一部を紹介する――。
■儒教に基づき、道徳と経済の調和を説く
読者の皆さんは、二宮金次郎の銅像というと、まず小学校や中学校を思い浮かべるのではないでしょうか。勤勉や読書を連想させる二宮金次郎の銅像ですが、金次郎は経済についても、このような言葉を残しています。
道徳なき経済は罪悪(犯罪)であり、経済なき道徳は寝言である
実は、道徳と経済を調和させようとする思想は、二宮金次郎という人物の大きな特徴の一つです。そして金次郎は経済行為を通して道徳教育を行ったのです。この教育を「五常講(ごじょうこう)」といいます。
五常とは、儒教の基本的な五つの徳目「仁・義・礼・智・信」のことを指します。仁とは慈愛の心、義は正義や公正を貫くこと、礼とは礼節を重んじ人を敬うこと、智とは道理や真理を正しく把握する知恵、最後の信とは他者を信頼する心のことです。
金次郎が行った五常講は、このような倫理道徳の上で金銭の貸し借りをしようとするものです。例えばお金を借りたとしましょう。その時の感謝の気持ちを忘れずに、きちんと返済したならば、それは五常を立派に実践したことになるのです。権利の行使や義務の履行には信頼が最も大切で、誠実になされるべきであるというのが金次郎の考えです。

もともと、経済という言葉が「経世済民」(経済は人々を救うために世の中にある)から来ているので、金次郎の思想とも重なります。「銅像といえばこの人」と言っても過言ではない二宮金次郎。彼がどのような人物だったのかを見ていきましょう。
■川の氾濫をきっかけに、生活に困窮
金次郎は江戸時代後期に現在の神奈川県小田原市に百姓の長男として生まれました。二宮家はもともと村でも一番の地主でありましたが、天変地異によりその田畑はすべて流されてしまいます。酒匂川(さかわがわ)で氾濫が起きたのです。
そこから、二宮家の生活は一変します。流された田畑をなんとかしようと、父の利右衛門は必死に働き続けます。しかし、無理が続いたことで利右衛門は体を壊してしまいました。金次郎も田畑の仕事を手伝っていましたが、さらに金次郎は力を入れて田畑を耕すようになりました。
冬には田畑の仕事がないので、酒匂川の堤防工事を手伝っていました。しかし、大人に交じって子供の金次郎が同じように働けるわけがありません。
そこで、金次郎は何かできることはないかと考えました。もともと草鞋(わらじ)を作る手伝いをしていた金次郎は、工事をしている人たちの草鞋を作ることにしました。作業をしていると、草鞋の傷みが早く次々と替えなくてはいけなかったのです。
■両親が亡くなり、16歳で一家離散
金次郎はこのころから学問に興味を持ち始めます。夜になると、草鞋を作りながら、本を読む生活を続けました。力仕事の工事をするだけでも大変なことであるにもかかわらず、夜になると草鞋を作り、さらに本を読む生活を続けていったのです。
さらには、草鞋でできたお金で松の苗を買いました。金次郎は買った苗を酒匂川の土手へ植えていきました。松で川の氾濫を防ごうとしたのです。
一方、父の利右衛門はさらに体調を悪化させ、ついに帰らぬ人となってしまいました。さらに不幸は続きます。2年後、母のよしも体調を悪くし、この世を去ってしまうのです。

両親の死をきっかけに、金次郎兄弟はそれぞれ別の親戚に引き取られることになりました。この時、金次郎は16歳でした。そして、2人の弟は母方の親戚へ、金次郎は父の兄の家に引き取られることになりました。
■「農民に学問などいらない」と叱られた
父の兄の家に引き取られた金次郎は朝早くから夜遅くまで働きました。当時、農家に生まれた者は、金次郎くらいの年齢になると働くのが当然でした。金次郎は仕事をしながらでも勉強ができる機会を見つけては読書に励んでいました。このシーンが、後世、全国各地の銅像の形となります。
私は金次郎の銅像を見ると彼の生前の様子が思い浮かび、胸が熱くなります。それは「周囲の人々には後ろ指をさされながら、ひたむきに学問を続けていたのだろうな」という思いです。
薪を担ぎながら学問をする姿は、決して周囲の人たちにはじめから感心されていたわけではありませんでした。「農民に学問などいらない」と父の兄にも何度も叱られました。夜、寝る間も惜しんで勉強することも、当時は灯りをともすには油が必要ですから、「もったいないから油は使うな」と叱られたのです。

金次郎はこれを詫び、何を思ったか翌日、一握りの種を買いました。その種をもって近くの荒れ地に行きます。その種を荒れ地に植えて油菜を取ろうというのです。
■イチローの偉業にも通じる「積小為大」
次の年の春、金次郎の育てた油菜は無事に花を咲かせました。その油菜の種を油屋で油に換えてもらい、学問を続けていったのです。私は金次郎の像から、周囲の人から協力を得られなくとも、自力で学問を続ける姿勢を想像します。その姿から、さらに金次郎の学問に対する姿勢に感動します。
またある日、金次郎は近所に住む人が田植えの時に使わなかった捨て苗を拾います。それを自分の家の近くに植えたところ、なんと秋には一俵ほどの米を収穫することができたのです。
これらの経験から、次の言葉が金次郎の胸に深く刻まれることになります。
「積小為大」(小を積んで大と為す)
「小さなことを積み上げることが大きなことを成し遂げる」という意味です。小事を疎かにせず、小さな努力を重ね続けることが大切であると金次郎は考えたのです。

話は少し逸れますが、元メジャーリーガーのイチローさんが日米通算3086本の安打を打ち、日本人野球選手の最多安打記録を更新した後のインタビューで「小さな事を積み上げていくことがとんでもないところに行くただ一つの道であると思う」と言っておりました。私はこの言葉を聞いて、二宮尊徳の積小為大を思い出したものです。大事に見えることも、すべて小事の積み重ねだと思いました。
■困窮した武家からヘッドハンティング
さて、金次郎も小さな努力を積み重ね、だんだんと収穫を増やしていきます。また荒れ地を仕事の合間をぬって開拓し、そこからも収穫を始めました。こうして自分の取れ高を増やし続け、ついに酒匂川の氾濫で流された荒地を開墾した耕地からも収穫が上がりだし、お金が貯まり始めます。
そして、質に入れていた田畑を少しずつ買い戻し、一所懸命努力して20歳の時に金次郎は二宮家に戻ることができたのです。
二宮家を立て直した金次郎ですが、その噂がある武家の耳に入りました。小田原藩の服部家です。服部家は財政がかなり厳しい状況にありました。そこで何とか財政に強い者を招き、服部家の再建を任せたいと望んでいました。その際に選ばれたのが金次郎です。
金次郎は農民で服部家は武士です。武士が農民に財政の立て直しを依頼することは異例でした。
金次郎は何度か依頼を断りましたが、服部家の熱意におされ承諾することにします。そして、金次郎による財政の立て直しが始まります。金次郎は服部家に次のように言いました。
「5年で立て直してみせます。しかし、その間は私のすることに一切口出しをせずに黙って従ってください」
そう宣言した金次郎は、使用人に倹約を求めました。倹約は金次郎のどの改革でも貫いた大切なキーワードになります。
■約束した5年間で「黒字化」まで達成
金次郎は様々な倹約の仕方を使用人に教えました。まず、食べるものや着るものなどは当然質素なものに変えました。また、料理に使う鍋の煤(すす)はよく洗い落とさないと火の通りが悪くなり薪がもったいないということ、野菜は葉まで食べられることなど細かなことも使用人に求めました。
こうした財政改革を5年間行い、言葉通り5年間で借金を返済しただけでなく、服部家に余分なお金までも残すことに成功したのです。
この服部家での成功を受けて金次郎の活躍の場は次第に広まりを見せていきました。ついには小田原藩主から同藩の桜町領の立て直しを任されることになりました。桜町領は大変荒廃した村であり、誰も近づこうとしませんでした。村から逃げ出す者も多く、村に残った農民たちは働こうともせずに、昼間から博打や酒におぼれ続けていたのでした。
この村の改革を命じられた金次郎は、どのようにして財政改革をしていったのでしょうか。
■荒廃した村も「節約」と「勤労」で救う
金次郎は、村の田畑を回り、一軒一軒を歩き回って村の状況をくまなく調べ上げました。
そして、藩主に村人の年貢の負担軽減を願い出ます。その村でとれる適正な年貢の量にするように交渉したのでした。また、金次郎は決意を固くし、その悪名高い桜町領への引っ越しを決めました。それも自分の家や田畑をすべて売り払い、退路を断ち切るほどの覚悟でした。
ここでも彼は「節約」と「勤労」の大切さを教えました。さらには、仕事を頑張った者を表彰するということもしました。朝は誰よりも早く起き、夜は誰よりも遅く田畑を回り続けたのです。
紆余曲折はあったものの、金次郎は桜町領を見事に立て直すことに成功します。
その後も彼はたくさんの村を救い続けました。金次郎は後に「尊徳(たかのり)」と名を改めますが、人々には有職(ゆうそく)読みで「そんとく」と呼ばれていました。
有職読みとは、周囲の人々が慕い、尊敬することで呼ばれるようになる呼び名です。有職読みをされていたというのは、当時から人々に慕われ尊敬されていたことを表すのです。その教えは金次郎の弟子たちにより「報徳仕法」としてまとめられました。
■人の心が変われば、農村は必ず立ち直る
金次郎は自身の二宮家のみならず、多くの村を立て直していきましたが、その際、次の三つを大切にし、仕事に正面から取り組んでいったのです。
「勤労」「分度(ぶんど)」「推譲(すいじょう)」
勤労とは文字通り「よく働く」こと、分度とは自分の収入の範囲内で暮らすこと、推譲とは分度の結果余ったものを社会に戻すことです。金次郎はこれらを家族や農民、さらには藩主と身分などに関係なくすべての人に求めていきました。金次郎が農村を立て直すためにずっと考えていたことは次のことです。
「農村の立て直しは人心の立て直しから」
金次郎は何よりも人心の荒廃を立て直すことが最優先だと思っていました。まず自らが一番に働き、神社仏閣も修復したりして、人心さえ変われば村は必ず立ち直ると考えていたのです。
■戦前の小学生は「金次郎の人生」を歌で学ぶ
こうした金次郎の生き様は、戦前の小学生に人生の手本と教えられていました。歌にもなっていますので、最後にご紹介します。


柴刈り縄なひ草鞋をつくり、

親の手を助(す)け弟(おとと)を世話し、

兄弟仲よく孝行つくす、

手本は二宮金次郎。



骨身を惜まず仕事をはげみ、

夜なべ済まして手習読書、

せはしい中にも撓(たゆ)まず学ぶ、

手本は二宮金次郎。



家業大事に費(ついえ)をはぶき、

少しの物をも粗末にせずに、

遂には身を立て人をもすくふ、

手本は二宮金次郎。
この歌は、「尋常小学唱歌」に記載されていたものです。この歌詞を見ると、金次郎がどのような人生を歩んだのかがよくわかります。
金次郎の銅像は、まだまだ各地にあります。金次郎の銅像を通し、金次郎の生き方がもっと世に広まればと願っています。
二宮金次郎

(1787~1856)

江戸時代中期から幕末にかけての農村復興運動の指導者。相模国の栢山(かやま)村(現・神奈川県小田原市)に生まれる。父・利右衛門と母・よしが他界した後は伯父に預けられ、農作業に励む。一方で氾濫による荒地に菜種を植えたり、夜なべ仕事をし、20歳の時に生家を再興。その実績から、小田原藩の服部家や同藩の分家宇津家が治める下野桜町領の財政の立て直しを任され、成功する。荒廃した村を復興する報徳仕法という独自の方法を確立していき、この仕法の名声が徐々に高くなっていく。それにつれて、金次郎のもとでこの哲学を学ぼうとする者が増えていった。

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丸岡 慎弥(まるおか・しんや)

小学校教諭、銅像教育研究家

1983年、神奈川県生まれ。三重県育ち。元大阪市公立小学校15年勤務。現在、立命館小学校勤務。関西道徳教育研究会代表。日本道徳教育学会会員、日本道徳教育方法学会会員。銅像教育研究家。教師の挑戦を応援し、挑戦する教師を応援し合うコミュニティ「まるしん先生の道徳教育研究所」を運営。自身の道徳授業実践も公開中。著書に『日本の心は銅像にあった』(育鵬社)、『高学年児童がなぜか言うことをきいてしまう教師の言葉かけ』(学陽書房)など多数。

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(小学校教諭、銅像教育研究家 丸岡 慎弥)
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