病院の院長や理事長は豪邸に住み、高級車に乗るといった裕福なイメージを持たれやすい。だが、京浜病院院長の熊谷賴佳さんは「そんなことができるのは、借金のない状態で親が創設した診療所を受け継いだ一部の開業医だけだ。
中小の民間病院の経営者の多くは資金繰りに頭を悩ませている」という――。
※本稿は、熊谷賴佳『2030-2040年医療の真実 下町病院長だから見える医療の末路』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
■1990年代後半、病院経営に陰り
病院経営に陰りが見え始めたのは、1990年代の後半頃だ。建物が古くなってきて設備的に見劣りするようになり、周囲にも同じような療養病床を持つ病院が増えて徐々に入院患者が減り、空床が生じるようになった。外来診療の報酬はたかが知れており、病院は、ほぼ満床になるように入院患者を増やさなければ診療報酬が得られない。
病床が埋まっている割合を示す病床稼働率は、療養病床の場合少なくとも90%以上、できれば95%を超えないと病院経営は赤字になるとされる。収入は減っても、病床数と算定する入院基本料によって雇わなければならない看護師数や医師数が決められている。スタッフには、毎月滞りなく給与を支払わなければならない。病床数とスタッフ数を減らして経費を下げるようにしたものの、満床にならない日が続いた。
診療報酬は全国一律同じ価格なので、同じような治療とケアが受けられるのなら、患者は新しくてきれいな病院への入院を希望する。どんな産業でも設備投資が必要なように、建物の建て替えやリフォームをして、新しく高度化した医療機器を入れなければ、周囲の病院に太刀打ちできない。そこで銀行に、病院建て替えの資金調達を相談したが、「すでに土地建物を担保にした借金が多いので、これ以上の貸し出しはできません」とけんもほろろに断られる始末だった。

■診療報酬は病院が儲からない設定
診療報酬は病院が儲からないように設定されている。気概のあるスタッフを集めて質の高い医療を提供して診療報酬を得ても、いくつかのベッドが埋まらない状態が続けばすぐに経営は赤字になる。どんなに経営状態がよくても、民間病院が建物の建て替えや設備投資に回す費用を確保することは至難の業だ。大学病院も含め国公立病院などは建物が古くなると建て替えをし、最新の医療機器を導入しているが、それは診療報酬以外に補助金や教育機関としての収入や寄付金が投入されているからだ。そのため、診療報酬が下がって収支が赤字になっても何とか存続できる。
バブル期には、京浜病院の土地の評価額が高騰していたこともあり、それほど厳しい審査もなく事業資金を貸してくれた銀行の担当者も、地価が下落しデフレの時代に入ると手のひらを返したように冷たくなった。病院は何とか黒字を維持し、借入金の返済も滞ったことはなく、地域のニーズを受けて一般病院から介護療養型病院へ転換して経営状態は安定していたのだが、追加融資を受けられなかった。
■医療法人にしたくてもできない状態
銀行が新たな貸し付けを渋ったのは、京浜病院が個人病院だったからだ。もともと祖父が創設した当時は医療法人財団京浜病院だったが、父はいったんその医療法人を退職し、1973年から個人病院として京浜病院を運営してきた。父は医療法人にすることを拒み続けていたが、銀行側が資金提供の条件として提示したのは、個人病院を医療法人の病院にすることだった。
そこで、東京都に医療法人化を相談したところ、今度は、多額の借金がある状態での医療法人化はできないと言われ困惑した。確かに、医療法には、新たに医療法人を設立するときにはある程度自己資金が必要なうえ、多額の借金を抱えていてはいけないという規定がある。
そのときにはまだ、ピース病院を買収したときに借りた借金がかなり残っていたため、そのままでは医療法人を設立できない状態だった。
ちなみに、銀行が個人への事業資金の貸し付けを渋るようになったのは、1991年に発覚した尾上縫(おのうえぬい)事件がきっかけだ。日本興業銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)などが、大阪ミナミの料亭の女将だった尾上縫個人に2400億円もの融資をして焦げ付かせるという前代未聞の詐欺事件だった。尾上は信用金庫の支店長らと結託して架空の預金証書を作って担保の差し替えをし、14もの金融機関から総額2兆7000億円にも上る融資を引き出した。この事件を機に当時の大蔵省は、金融機関に対して個人に対する高額貸し付けを見直す指令を出した。
■父の反対を押し切って医療法人を設立
この事件の余波が色濃く残っていたこともあり、新たな資金提供を受けようとしたところ、私たちの病院のメインバンクだった大手銀行に、医療法人にしなければ新たな貸し付けはできないと迫られたのだった。だが、病院として借金があるままでは医療法人にもできない。
父は最後まで医療法人化に反対したが、ここで病院が倒産し、長年一緒に働いてきたスタッフを路頭に迷わすわけにもいかない。かなり悩んだ挙句、銀行から提案された最善策は、個人病院である京浜病院と新京浜病院の借金を全て父・熊谷賴明個人名義にして病院自体の借金はなくし、個人病院を医療法人化することだった。医療法人にすれば、億単位の借金が病院ではなく、父の名義になる。父が頑なに医療法人化に反対し続けたのは、医療法人にすれば、病院の収入を借金返済に回すことができなくなり自分が全ての負債を背負うことになるからだった。
それでも、父の反対を押し切って2000年に医療法人を設立した。
新たな資金提供を受け、介護保険導入と同時に介護療養型病院に転換したこともあって、しばらくの間、病院経営は安定した。2006年にはメインバンクを変更し、経営にも余裕が出てきた。2007年からは地域での介護技術の向上と普及を目指して京浜介護研究会を開催し、大田区以外からも大勢の参加者が集まるようになった。
■「熊谷式認知症3段階ケア」を構築
京浜病院を急性期の一般病院から介護療養型の病院へ転換させて以降、高齢者医療と認知症ケア、とりわけ対応が難しい認知症の精神心理症状と行動障害(BPSD)の改善が、私のライフワークとなっていた。もともと脳神経外科である私は、看護師や介護スタッフと一緒に、周囲を困らせるBPSDの解消に有効な介護法である「熊谷式認知症3段階ケア」を構築した。
「熊谷式認知症3段階ケア」は、特に、実際に認知症の患者と日常的に接している看護師や介護職員にとても好評で、各地で講演会に呼ばれるようになった。認知症のタイプ別の対応法をまとめた著書『カラー図解 介護現場ですぐに役立つ! タイプ別対応でよくわかる認知症ケア』(ナツメ社)は、5万部も売れ、2017年に著したものだが未だに認知症の講習会などで使われている。
私の認知症外来には、重いBPSDの患者も次々と紹介されてくるようになり、ケアはなかなか大変だったが、病院経営はある程度安定した。
■親子を苦しめ続けた借金
しかし、病院経営が安定していた時期も、父個人の名義となった借金は、私たち親子を苦しめ続けた。慢性疾患や重い認知症の患者や家族と地域住民のため、長年一緒に闘ってきたスタッフのためと考え、病院を存続させてきたが、父は、相次ぐ病気やけがに見舞われながらも、一生涯借金の返済を続けた。
医療法人の理事長として、高額所得ランキングに載りそうな収入を得ていながら、給料から税金と健康保険料、わずかな生活費を差し引き、借金の返済をすると、手元には1円も残らない状態だった。私も連帯保証人になったこともあり、給料の一部を借金返済にあてなければならなくなった。

父は2010年頃に認知症になった。また、私が医療法人の理事長を引き継いだ直後の2012年9月に脳梗塞を発症し、右半身が麻痺して失語症となり寝たきりの状態になった。それでも、2014年1月に永眠するまで借金返済は続いた。父は、表向きは高額な所得を得る高額納税者でありながら個人資産はほとんどなく、生涯、自分の家を持つこともなかった。若いときはもちろん、晩年もぜいたくをすることもなく、借家に住み続けたのだ。
■給料の大半がローン返済に消えていく
そして、父の死後はその借金を私が相続し、給料の大半を高額のローン返済にあてることになった。相続する際、資産がマイナスになる場合には相続放棄をして借金を帳消しにすることができるが、病院の土地と建物を担保にした借金なのでそれを放棄することもできない。今度は私が、借金の返済に追われることになった。
病院の院長や理事長は、豪邸に住んで高級車を乗り回しているというイメージがあるかもしれないが、そんなことができるのは、借金のない状態で親が創設した診療所を受け継いだ一部の開業医だけだ。中小の民間病院の経営者の多くは青色吐息で、資金繰りに頭を悩ませている。父と私も、親子そろって表向きは高額納税者でも、手元には使えるお金がなく生活はかつかつの状態だった。

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熊谷 賴佳(くまがい・よりよし)

京浜病院院長

1952年生まれ。
1977年慶應義塾大学医学部卒業後、東京大学医学部脳神経外科学教室入局。東京大学の関連病院などで臨床研究に携わったのち、1992年より京浜病院院長。祖父と父親とも医師という医師家系で育つ。オリジナリティー溢れる認知症ケアの発案のほか、地域が一丸となった医療サービスの実現をめざして院外活動にも積極的に参加。認知症や地域医療に関する著書多数。

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(京浜病院院長 熊谷 賴佳)
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