SNSと上手に付き合うにはどうすればいいのか。国際政治学者の三浦瑠麗さんは「インスタグラムが普及してからというもの、素敵なくらしというものに対する人びとの感度があがるとともに、なんらかの義務感が生じたような気がしている」という――。

※本稿は、三浦瑠麗『心を整える時間 軽井沢のくらし12ヶ月』(あさま社)の一部を再編集したものです。
■インスタグラムの普及で生じた「義務感」
インスタグラムが普及してからというもの、素敵なくらしというものに対する人びとの感度があがるとともに、なんらかの義務感が生じたような気がしている。わたしがインスタを始めたのはちょうど十年前だが、その後5年間はまったく見もせず投稿もしていなかったくらいだ。何をフォローすればいいのかも分からなかったし、軽井沢でのくらしが忙しく充実していて、撮った写真を整理することも思い至らなかった。スマホに残っている当時の写真を見るとみな娘ばかりで、至近距離でわが子を眺めてはうっとりとしている自分の姿が思い起こされた。
ただ、エッセイを書くようになるとまた違う風景が見えてくる。自分の頭の中の映像記憶に頼るだけでなく、まるで絵日記のように写真を短い文章とともに残していくインスタグラムはちょうどよい備忘録になった。2019年5月には、自伝的エッセイ『孤独の意味も、女であることの味わいも』を出版した。亡くした子どものこと、出産のこと、少女時代のこと、働いて後に経験したことなどを、ひとりの女性の視点から綴(つづ)ったものだ。
■忙しければ忙しいほどSNSの投稿が増える
そのすこし前からわたしはとても忙しくて、その合間を縫うようにしてインスタでは取材や出演のお知らせに加えて軽井沢のくらしについて綴ったりしていた。旅行記などを書く準備を始めたのもこのころだ。あまりに日程が立て込んでいて、携帯を見なければ今日が何曜日なのか、きのう何をしていたのかも思い出せないくらいの日々が続いた。
大学を離れてから4年ほど、わたしに時間的なゆとりはまるでなかったのだといってもいい。
たいていどこかで人の相談を受けるか書き物をするか講演をしていた。シンクタンクの手掛けるプロジェクトの調査分析をするだけでなく、書くこと、話すこと、社会貢献すること、そして稼ぐこともすべてのタスクがわたし一人にのしかかってきて、それは家族の世話も例外ではなかった。忙しくしていたかったのではない。それしか仕方がないのだと思っていた。
変な話だが、忙しければ忙しいほどインスタなどSNSの投稿が増える。たくさんのものを同時進行させよう、記憶が薄れる前に電磁的記録に残しておこうという本能だったのかもしれない。あとでまとめようと思ったさまざまな連載やメルマガも書き散らしたままになった。あちこちから断り切れない会食が立て込み、平日の夜を一日だけ残しておくのがぎりぎりなくらいだった。
■聖域は軽井沢だけ
だから、子どもに手をかけたごはんをつくれる聖域は軽井沢だけ。家について車から降り立つたび、ひとりの人間に戻れる気がした。肺の奥の空気が入れ替わり、はじめてきちんと深く呼吸をする。
それとともに、これまで浅い呼吸しかしていなかったことに気づく。そっと芝生を踏みしめ、夜の匂いを嗅ぐ。
こちらでも忙しいときは忙しい。締め切りなどが立て込んでいるときは家族が寝静まった深夜に資料を読み、原稿を書き、明け方に外が白みかけてくるのを見ていったんベッドに入り、午前中は朝ごはんを食べさせてからまた仮眠をとる。調査分析など短期集中型で仕上げなければいけない仕事のときも、ひとりで時間をまとまって使える深夜の時間帯を充てる。
そのかわり、午後には時間をかけて食事を作ったり散歩したり、あるいは庭づくりにいそしむ。そのあいだ携帯は家の中に置きっぱなしになっているものだから、人から連絡が来ても気がつかないことが多い。
■平日の忙しさと軽井沢での忙しさは違うもの
平日の忙しさと軽井沢での忙しさはまったく質が違うものだ。のんびりするというのと、実際に立ち働いている時間が長いというのは一対一の対応関係にはない。
蕎麦屋に入ってちょっと食べて出るのと、蕎麦を一から打つのとでは手間がまるで違うが、後者の方がのんびりしていると感じる場合もあるように。
そう考えると、ゆとりとは手仕事をする心の余裕があるということなのかもしれない。時間がどれだけあっても、わたしの心が元気でないときは即物的でそっけない食卓がそれをあらわしている。
いきいきと考える心の余裕、手を動かす心の余裕。
逆説的だが、手を動かすことから生まれる心の余裕もあるのだろう。ピカピカした銅の抜き型で無心にショートブレッドの型抜きをしているあいだは、どんなことがあっても元気だから。あるいは生地を捏ねながら、考え事をしたりもする。あの本のあの部分はどうだったろうか、などとふと引用したい箇所を思い返す。物事を一から考えられる心の余裕と、料理ができる心の余裕とは似ている気がする。
■「何もできない日」の過ごし方
反対に、何もできない日というものがある。起き上がれない日。疲れ切っている日。肩凝りや背中のこわばりで泣きたいほど痛い日。そのときはひたすら昼寝をする。ただ不思議なことに、軽井沢では朝すっきりと目覚めなかった日はない。
ぽっかりと空いた空間が、木の匂いが、お日さまが、こうした目覚めをもたらしているのかもしれない。
陽の光がカーテンの隙間越しに漏れてきて、何度か寝がえりを打ったのち穏やかに目を覚ます。目を開けて山の中にいることを知ったときの安堵感。さあ、朝ごはんを作ろうと思い立つのは子どもがそばにいてくれるお蔭でもあるが、お日さまのお蔭でもある気がする。
太陽と水、土と空気、林、足もとの草花。取り立ててなんということもないものだ。言葉でそうしたものたちの意義を伝えようと思っても難しい。言葉はわたしにとっていつも自分が見る世界に追いつかないものとしてそこにある。
■迷いのトンネルから抜けたとき
何のために生きていくのか、ごく若いころそう思ったことがあった。存在するのをやめたいと思ったことも数知れずある。迷いのトンネルから抜けたときのわたしにとって、生きていく意義はごくかんたんなものだった。朝ごはんをつくって食べること。
カフェに行って本を読むこと。そうでなければ、夜ごはんを食べること。
安全保障であるとか経済であるとか、そういった大文字で語られる分野で働く人は、社会における自分の存在意義や大義によって支えられて生きる割合が多いのかもしれない。でも、そうした中にありながら少数派のわたしにとって、一番大切なのはこの毎日のくらしだった。これを明日も繰り返し、また一から始めたい。そのために平和が必要なのだという感覚。仕事は仕事である。社会に尽くすことの意義もある。ときに過労になるのは致し方ない側面もある。
しかし、人間の姿を考えてみると、こうして相も変わらずに朝目覚めては「生きよう」とするところに本質がある気がしている。
■園芸雑誌や絵本を見るような気分
そんなわけで、わたしのインスタとの付き合い方は、主に園芸雑誌や絵本を見るような気分でみること。実際、フォローしているのは園芸家や料理、猫、きものなどのライフスタイルばかりだ。
時折外国のインテリアデザイナーやショップオーナー、ガーデナーなどと互いの投稿にコメントしあうこともある。
見ていると、そこに描かれた誰かのくらしがある。こんな家具に座って、こんな料理を作って、こんな猫が座っているというように。オレンジ色がかった茶トラが出てくると、ああ、オレンジのネコもいいな、と思う。高貴なロシアン・ブルーが出てくると撫でてみたいな、と思う。でも一緒に暮らしているうちの猫たちがいちばん。そのかわり誰かがクレープを作っていると、ああわたしも作ろうかなと思う。
きょうみたあの月を、今週咲いた花を、揚げたての魚を、けさ飲んだスープを。この本棚の並びを、猫の表情を残しておくもの。日記にきょうとった食事の内容を書くのと同じように。だから別に毎日同じで構わないのだ。ゆとりとは、どこかに探しに行ったり懸命につくりあげるものではなくて、毎日変わらなくても同じようにしたいことがあること。そう思っている。

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三浦 瑠麗(みうら・るり)

国際政治学者

1980年10月神奈川県茅ヶ崎市生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科総合法政専攻博士課程修了、博士(法学)。東京大学政策ビジョン研究センター講師を経て、2019年より株式会社山猫総合研究所代表。専門は、戦争と平和に関する国際政治理論。政治評論やエッセイなども手がける。フジサンケイグループ正論新風賞(2017年)など受賞多数。主著に『シビリアンの戦争』(岩波書店)、『21世紀の戦争と平和』『孤独の意味も、女であることの味わいも』(いずれも新潮社)など多数。2014年より東京と長野県軽井沢町との二拠点生活を10年以上続けている。

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(国際政治学者 三浦 瑠麗)
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