※本稿は、三橋健『神様に願い事を叶えてもらう!厄除け・厄祓い大事典』(青春出版社)の一部を再編集したものです。
■御神木に打ち付けられた“呪いの藁人形”
私は東京西郊の某神社で、11年間、神主(かんぬし)として神様にお仕えした経験があります。寺院や教会も同じだと思いますが、神社というところは「心の憂(う)さの捨てどころ」のような一面があります(もちろん、一口に神社といってもいろいろですが)。
それこそ、毎日のように悩みや苦しみを持った人たちが参拝に見え、「神頼み」をしております。ときには人生相談のようなことまで持ち込まれることもありました。
そのなかで、私がいまもって忘れることのできない、あるできごとを次に記してみたいと思います。
それは確か、「夏越(なごし)の祓い」を間近にひかえた6月20日過ぎのことでした。私はいつものように午前5時に起床し、朝霧の立ち込める境内の掃除をはじめました。境内には、大きな欅(けやき)の老樹が数十本ありますが、そのなかの神木(しんぼく)といわれる一本に藁人形が打ちつけられてあるのを発見したのです。
人形の心臓部に五寸釘(ごすんくぎ)(長い太い針で、約15センチある)が打ち込んであり、私には一見してそれが呪いの人形であることがわかりました。
「誰が、いつ、なんの目的で……」と、私は首をかしげながらも、丁重に「大祓(おおはら)えの詞(ことば)」をとなえ、その人形を取り除きました。
■「丑の刻参り」と直感した
そうしたら、2日後にも同じ場所に同じように人形を打ちつけてあったのです。
私は、これはただごとではなく、おそらく、誰かが「丑の刻(うしのこく)参り」をしているにちがいないと直感しました。そして、呪いをかけているその人に会って、心が晴れるまで話を聞いてみたいと思ったのです。
ところで、「丑の刻参り」といっても、現在では聞き慣れない言葉となりましたので、簡単に説明しておきますと、これは嫉妬や恨みを持った人がねたましく思っている人を呪い殺すための呪法(じゅほう)なのです。
丑の刻(現在の午前2時頃)に神社へお参りするので、その名があります。お参りするときは、頭の上に五徳(ごとく)(鉄の輪)をのせ、そこへロウソクを灯し、手には五寸釘と金槌(かなづち)を持ち、胸には鏡を吊るすという異様な姿で行います。そして、呪う相手をかたどった人形を、神社の神木や鳥居に打ちつけるのです。
そうすると、呪われた人は釘を打った部分が痛みだし、さらに7日目の満願(まんがん)になると、その人は死ぬと信じられているのです。
■婚約者にお金を持ち逃げされた女性
この「丑の刻参り」は、人に見られると効力がなくなるともいわれていますので、私は気づかれないように社務所の小窓からうかがっていました。案の定、丑の刻参りでした。
長い髪を振り乱して、境内に入ってきたうら若いその女性は、実は毎朝のように神社へお参りにくる、近くの農家の娘さんだったのです。私はあまりのショックに、その夜は一睡もできませんでした。
翌朝、私はいつものようにお参りに見えたその女性に「おはようございます」と声をかけました。すると、彼女は急に血相を変えて、あたかも堪忍袋の緒が切れたかのように、その場で泣き崩れてしまいました。そして、自分から苦しい胸のなかを訴えてきたのです。一言でいえば、彼女は婚約者から裏切られたというのですが、それも、ただの裏切りではありませんでした。
ひたむきな彼女は、高校を卒業すると、ある会社の事務員として勤めました。コツコツと結婚資金を貯えてきたのですが、結婚しようといわれた男にそれをまんまと持ち逃げされたというのです。
■死にたい気持ちが、やがて呪いに変わった
7年間、コツコツと汗水たらして働いたお金を持ち逃げされ、だまされたことを知った彼女は、何回も死のうと思ったといいますが、その思いはやがて死んでも死に切れない呪いへと変わっていったようです。
私は、この哀れな娘さんとともにその苦悩を分かち合い、「厄祓い」をしてあげました。そして、「夏越の祓い」をぜひ行って、再出発をするようにすすめました。
「人を呪ったり恨んだりするのは、その相手がいかなる悪人であってもよいことではありません。たとえ、その相手を呪い殺すことができたとしても、必ずあとにしこりが残り、いつまでたっても解決にはなりませんよ」
私はそのときおおよそこのようなことを話し、さらに大祓いという神事があること、そして、そのときとなえられる「大祓詞」には、私たち人間の罪や穢れや災いをすっかり引き受け、なくしてくださるありがたい神様のおられることなども話しました。
ちなみに、その娘さんは、その後、やさしい男性と結婚し、いまでは二男一女の母親として明るい家庭を築いております。
■人形が代わりになって「罪」「穢れ」「災い」を引き受ける
私は小学校の頃、傀儡子(くぐつし)(歌に合わせて人形をあやつる芸人)や人形回しが、莎草(くぐ)という草で編んだ籠のなかに人形を入れて運んでいるのを見かけたことがあります。この籠は、人形の生命を蘇らせるための聖なる器と考えられていることを、大学生のときに知りました。
人形を回しているうちに、その人形に私たちの罪や穢れや災いが吸い取られ、人形は回り終わると、その罪や穢れや災いのためにぐたっとなって死んでしまうのです。
だから舞い終わると人形は莎草で編んだ籠のなかに入れられて、そのなかで再び生き返ってくる、というわけなのです。
毎年、6月と12月に神社で配られている形代(かたしろ)に息を吹きかけ、あるいは形代で体をなでたりするのも、この形代が私たちの罪や穢れや災いを一身に引き受けて流れていく、つまり、人形が私たちに代わって罪人となり、流人船に乗せられ、流されていくというわけです。
このように、日本人は昔から「祓い」を繰り返しとり行ってきました。
■「生け贄」は世界の宗教でも見られる
もっとも、人形が用いられる前には、もとより儀式としてですが、実際の人間(奴婢(ぬひ))が「祓物」として神の前に差し出されていたようにも思われます。
おそらく、その奴婢は柱か何かにしばられて、はりつけのような姿になって神様に捧げられたのでしょう。『日本書紀』天武天皇一〇(六八一)条に「祓柱(はらえつもの)」という語が見えています。
この柱は人柱(ひとばしら)であり、そこに人びとの罪や穢れを背負った奴婢がはりつけになったのだと考えられます。
「大祓い」の神事に祓柱として差し出された奴婢のことで、これは世の人びとの身代わりとして、言い換えれば、すべての人びとの罪や穢れや災いを背負わされた、一種の「スケープ・ゴート(贖罪の羊)」にあたると思います。
現代人の常識からすればかなりむごたらしいようですが、このようなスケープ・ゴートは日本ばかりでなく、世界の諸宗教にも普遍的に見られます。
古代ギリシャのアテネでは、毎年五月にサルゲリアという収穫祭を行っていますが、かつてはその祭りの六日目に、二人の生け贄を石で打ち殺して焼き棄(す)てるという儀式が行われていました。つまり、それによって「アテネは浄められる」と考えられてきたのです。
■神職は、民衆の苦しみや悩みを背負う「生きた神様」
これらの生け贄は、「大祓い」の形代と同じように、人びとの罪や穢れや災いを背負わされて処刑されるのです。
神職のなかに「神奴(しんど)」という氏姓を名乗る古い神職家があります。これは、その神職家が「神様の奴隷である」という意味になります。言い換えれば、神様そのもの、あるいは神様の代理者ということです。
そして、このように神職は、神の代理者でもありますが、また民衆の代理者でもあるわけです。
神職とは、私たち民衆の苦しみや悩みを背負ってくださる、いわば生きた神様でもあるということにもなります。神職を「御祓師(おはらいし)」と呼ぶ意味も、そこにあります。
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三橋 健(みつはし・たけし)
神道学者、神道学博士
1939年石川県生まれ。國學院大學大学院文学研究科神道専攻博士課程を修了。永年、國學院大學神道文化学部及び同大学院教授をつとめてきたが、2010年に定年退職。
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(神道学者、神道学博士 三橋 健)

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