■大河ドラマで描かれた奇抜なフィクション
NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』では11代将軍・徳川家斉が実父・一橋治済の悪行に嫌気がさし、蔦屋重三郎発案・松平定信主導による「治済島流し計画」に加担するという、奇抜な設定になっていた。計画は成功し、眠り薬を飲まされた治済は阿波国(徳島県)の孤島に送られ、そのまま幽閉された。
もちろんこれは演出上のフィクションである。実際の治済は寛政11(1799)年に家督を一橋家六男・斉敦(なりあつ)に譲って隠居し、文政3(1820)年には「従一位」に叙せられた。
従一位は徳川将軍が引退し「大御所」となった際に賜る位階だ。治済は将軍を経験していないため大御所になれなかったが、それと同等の立場の厚遇を受けたことになる。また文政8(1825)年、大臣に準ずる称号である「准大臣」も授かっている。
■「蔦重の死後」の勝ち組
一方、息子の家斉はその後、将軍在位50年という長期政権を築き、大奥に側室16人を持ち、子どもを50人以上もうけた。50人以上という数も実は正確に把握できず、文献によって52~57人まで諸説ある。
これをもって家斉時代の大奥を「ハーレム」、家斉を絶倫の「オットセイ将軍」と揶揄する声も少なくない。オットセイの陰茎を粉末にした精力剤を服用していたという噂があったことに由来する。他に「種馬公方」との異名もある。
幕府の御庭番、すなわち秘密裡に諜報活動を行っていた旗本の川村修富は、日記に「御内々御誕生御用」という例を記している。これは「内々に誕生した」家斉の子を「御用=堕胎」させた話だ。1809(文化6)年~1814(同11)年の間に4回あったらしい。おそらく身分の低い女中が家斉の“お手つき”となって妊娠したものの、落胤として容認できず中絶したのだろう。
晩年の位階の昇進によって栄華を極めた父、武家の最高位・征夷大将軍として半世紀にわたって大奥に君臨した息子――この2人は、蔦屋重三郎が没したのちの1800年代前半を思うままに生きた、時代の“勝ち組”だった。
■11代将軍・家斉と大奥の密接な関係
家斉期の大奥は徳川幕府約260年の歴史の中でも、異質の状態にあった。その異色さは“爛熟”――熟しすぎて爛れていたといえる。
そもそも家斉は、誕生したときから大奥と密接な関係にあった。
家斉の母はお富の方で、お富の父は岩本正利といった。
普通は大奥の外には出ることのない女中を治済が譲り受けたのは、徳川御三家・御三卿の当主・子息に限り、大奥に出入りするのを許されていたからだ。
豊千代にとっても大奥は母の“元職場”であり、顔馴染みもいたはずだ。歴史エッセイストの岡崎守恭氏は、「大奥は家斉の実家のようなものだった」と述べている。女性だらけの特殊な環境が及ぼした影響は小さくなかったろう。元服し家斉と名を改め、15歳で将軍に就任した直後から、女性乱脈の兆しを見せ始める。
1789(寛政元)年2月、家斉は薩摩の島津家から正室を迎えることになっていた。名は「篤姫」(後に天璋院を名乗る女性とは別人)」。幼少時に一橋家と島津家の間で取り決めた許嫁(いいなずけ)だった。
■「種馬公方」の片鱗
だが婚約時は、将軍継嗣の序列が田安家に劣る一橋家の家斉が抜擢されるなど、誰も思っていなかった。それが棚ぼた式に将軍となったため、正室にもそれなりの家格を整える必要が生じた。
ところが翌月、その苦労を台なしにしかねない事件が発覚する。奥女中が家斉の子を産んだのである。
薩摩芋の ふくる間を待ちかねて おまんを喰うて 腹はぼてれん
薩摩芋、つまり島津からやって来る姫を待ちきれなかった上様が、「おまん」に手を付けて妊娠させてしまったという落首(らくしゅ)(風刺の歌)が世間に流布した。「おまん」とは最終的に家斉との間に一男三女を産む側室・お万の方を指す。このときの子は長女の淑姫(ひでひめ)で、長じて御三家・尾張藩主の妻となる。
それはともかく、薩摩藩から御台所を迎える異例の事態に周囲が大慌てしている最中、メンツをつぶしかねない身勝手な振る舞いを平然とやるところに、家斉の性格の一端が読み取れよう。父・治済ゆずりの“血”といえるかもしれない。
■家斉の金遣いの荒さを支えた貨幣の改鋳
家斉在位50年の初期は松平定信が実権を握っていた。「倹約」をモットーとした定信は、大奥にカネを注ぎ込むような無茶は控えた。
定信が失脚し、定信と共に政権を支えていた「寛政の遺老」と呼ばれた者たちが台頭すると、26歳の老中・松平信明(のぶあきら)が中心となって家斉を支えた。信明は家斉にも意見具申できるようだったが、享和3(1803)年辞任。
次に老中となったのが水野忠成(みずのただあきら)。忠成は家斉に忠実で、大奥の維持費などに投入する資金を捻出すべく、貨幣の改鋳を繰り返した。
具体的には、金の含有率をこれまでより10%も落とした劣悪な貨幣を鋳造し、小判の価値との差益を幕府が得るという仕組みだった。これによってもたらされた利益は約550万両。まさに打出の小槌である。明らかな放漫財政だが、とにかくカネが必要だったのである。
何しろ男子を産んだ側室「御部屋様(おへやさま)」が11人、女児だけを産んだ「御腹様(おはらさま)」が5人おり、この者たちには専用の個室が与えられ、身の周りの世話をする女中が複数人いた。個室の拡大・維持と女中たちの人件費、さらに生まれた子どもたちの慶事・服装・養育――湯水のごとくカネが出ていったろう。
■大奥スキャンダル①延命院事件
家斉の時代の大奥は、スキャンダラスな事件も起こした。「延命院事件」はその代表例だ。
寛政8(1796)年、日暮里(東京都荒川区)日蓮宗の寺院・延命院の僧・日道(にちどう)(または日潤(にちじゅん))と、江戸城奥女中が男女の情交に耽っていると噂になった。
延命院は3代将軍・家光の側室、お楽の方が帰依して子宝に恵まれたと伝わる寺で、恵まれた子宝が4代・家綱だった。このことから、将軍の側室に代わって奥女中が参拝し懐妊を願う「通夜参籠(つやさんろう)」(泊まりがけの祈願)が行われ、その際に僧侶と女中が淫らに交わっているというのだ。
寺社奉行の脇坂安董(わきさかやすただ)が周到に調査し、享和3(1803)年5月、延命院に踏み込んで日道を召し捕った。『べらぼう』の登場人物である大田南畝(おおたなんぽ)は随筆『一話一言』に、日道の罪状を記録している。
大奥部屋方下女、ころと密通し、妊娠させて堕胎/大名屋敷の複数の女中と関係/左記僧にあるまじき行いにより日動死罪
ここに名があがった「ころ」という下女は、のちの12代家慶付きの奥女中「梅村」の配下にあったという。
梅村が密通に絡んでいたかは定かではないが次期将軍付きの幹部女中を罰するわけにいかず、言葉は悪いが配下の“下っ端”を検挙したのではなかろうか。ちなみにころに科せられた罰は「押込(おしこめ)」(一定期間自宅に閉じ込めて外出を禁じる軽い刑罰)だった。噂の発覚から7年を要しても、大奥が絡んだ一件は慎重に対処せざるを得なかったのかもしれない。
■大奥スキャンダル②智泉院事件
「智泉院事件」はもっと生々しい。智泉院は下総国中山(千葉県市川市)にある日蓮宗の大本山・中山法華経寺の支院にすぎなかったが、いつのまにか幕府に厚遇されるようになっていた。智泉院の僧侶の日啓(にっけい)が、家斉の寵愛を受けた側室・お美代の方の実父だったからである。
お美代が家斉に「実家の寺の格を上げてほしい」と“おねだり”したことによって、智泉院は中山法華経寺の「御用取次所」(幕府関係者が祈祷する際の窓口)に格上げされ、江戸城から下総中山まで7里(約28km)あるにもかかわらず、大奥の上級女中が行列をなして通った。
そのうち、「宮女が陰門を飽くまで坊主にふるまひし」と、奥女中たちが智泉院の僧を“性接待”していると噂されるようになった。しかし、家斉の側室の実家の寺だけに、家斉が生きているうちは手出しできなかった。
天保12(1841)年、家斉が死去すると、幕府は大奥の風紀の乱れを是正しはじめる。智泉院には調査が入り、お美代の父・日啓とその後継者の僧侶・日尚ら数名が密通の罪で捕らえられた。担当したのは寺社奉行の阿部正弘、のちの幕末の老中首座である。
日啓は遠島と決まったが、江戸を離れる前に獄中で病死したという。
大奥の女中たちは数十人が関与したといわれながら、処罰者は出なかった。延命院事件と同じく、現役の関係者を裁くのは難しかったのである。しかし、家斉が残した負の遺産「大奥の腐敗」を除去することはできたといえよう。
なお当時、すでに髪を下ろして出家し「専行院」を名乗っていたお美代は押込の処罰を受けたという俗説が伝わるが、この話には根拠がないらしい。
■「公式記録」に書かれた意外な将軍像
家斉は女性好きで浪費癖の治らない将軍という印象だけに、性格も無軌道と思いきや、記録に残った人物像は決してそうともいえない。
例えば『徳川実紀』は、家臣の武芸披露を上覧した際、末席の武士の氏名・品格まで「御おぼえあることよ」(よく覚えていた)と、異常なまでに記憶力が良かったことを書き残している。
一方で鷹狩りに出向けば風・地形を読み、理詰めで獲物を追い詰める術に長けていたとある。酒が好きだったが、朝は早く起床し生活は規則正しく、馬術も嗜んだ。頭脳明晰・文武両道の魅力的な男だった可能性すらある。
思想家の頼山陽(らいさんよう)は著書『日本外史』で、家斉の治世をこう述べる。
「武門天下を平治する。ここに至って、その盛りを好む」
将軍が政務に関わらなくても世の中は平穏であり、幕府の権力も強かった。
■家斉と大奥の繁栄は「幕府終焉の序章」
『文恭院御実紀』(文恭院(ぶんきょういん)/家斉が死後に授かった法号で、『文恭院御実紀』は彼の伝記)はこう残す。
「万民苦しむことなし、遊王となりて数年を楽しみたまふ」
大衆は文化・文政年間(1804~1830)に江戸を中心に栄えた「化政文化」の世を謳歌し、家斉は「遊王」となって楽しんだ。
だが、「遊王」の遊びの舞台となった大奥は放漫財政の象徴であり、その浪費の代償は家斉の死と同時に顕在化し、幕府の威権は傾きはじめる。そして12代・家慶の治世の晩年に黒船が来航し、幕府は瓦解へと向かっていく。
『べらぼう』のその後の時代に訪れた家斉と大奥の繁栄は、幕府終焉の序章でもあったといえよう。
参考文献
・岡崎守恭『遊王』(文春新書、2020年)
・河合敦『徳川15代将軍 解体新書』(ポプラ新書、2022年)
・福留真紀『徳川将軍の側近たち』(文春新書、2025年)
・小松重男『旗本の経済学 御庭番川村修富の手留帳』(郁朋社、2000年)
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小林 明(こばやし・あきら)
歴史ライター 編集プロダクション「ディラナダチ」代表
編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。歴史ライターとしてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また
『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。
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(歴史ライター 編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)

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