iPS細胞の作製成功を発表し、2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥さん。その華々しい実績を手にするまでには、実は知られざる苦労があった。
還暦を過ぎた今も研究者として挑戦を続ける山中さんは「挫折や失望の多くが、のちの喜びや大きな成果につながる」という――。
※本稿は、山中 伸弥『夢中が未来をつくる』(サンマーク出版)の一部を再編集したものです。
■怒られてばかりだった研修医時代
「おまえは本当に不器用や、何をやってもダメやな」
医者の見習いである研修医になった私は、いつもそんなふうに怒られてばかりでした。
医者を志した私は神戸大学医学部を卒業し、整形外科の研修医として病院に勤務することになりました。
そこは当時改築したばかりの近代的できれいな病院で、最新の設備がずらりとそろっています。こんないい病院で研修医として勤務できるなんて、なんて自分はラッキーなんだろうと思いました。
しかし喜んだのも束の間、大きな壁にぶち当たりました。研修医には、指導医という先生がつきます。その指導医が、とてつもなく怖い先生だったのです。
研修医は、まず患者さんの傷口をおおうガーゼの交換などかんたんな作業から学んでいきますが、私はあまりにていねいにやりすぎるので、どうしても時間がかかってしまいます。
すぐさま先生から「早くせんか! そんなに遅くては患者さんがつらくなってしまうぞ」と怒号が飛び、急いでやろうとするとあせってしまい、かえって時間がかかったり、失敗を重ねたりします。
■「自分は医者に向いていないのでは」
私は中学から柔道をやり、大学3年からラグビーもやっていたので、それなりに怖い先生や先輩に出会ってきて、じゅうぶん慣れているつもりでした。
しかし、その病院の指導医は、これまで出会ったどんな人よりも怖かったのです。
研修医としての2年間、私はガーゼや点滴の交換といったかんたんな作業くらいしかやらせてもらえず、先輩たちが手術をするのを、ただただ眺めるばかりでした。
そんなある日のこと、私の中学からの親友が患者さんとしてやってきて、手術を担当させてもらうことになったのです。
ところが、あまりに慎重にやりすぎたため、慣れた人なら20分で終わるような手術に2時間もかかってしまいます。これには指導医や看護師さんたちだけでなく、手術を受けた親友にすらあきれられました。
そんなこともあって、自分は医者には向いていないのではないだろうか、と私はさんざん悩みました。
このころに、肝臓の病気にかかっていた父が亡くなりました。私が医者の道を歩みはじめて2年目のことです。父は、まだ57歳でした。臨床医の卵だった私にとって、父の死はとても大きな出来事でした。
■頑固な父がすすめてくれた2つの道
私が生まれた家は、祖父の代からミシンの部品をつくる小さな工場を営んでいました。父が後を継いで、私が小学校3年生までは工場の隣に住んでいたので、私は機械に囲まれて育ちました。

大学の工学部を出た父は、やすりを使って部品を磨き、どうしたらよい製品ができるか考えては、いつも図面とにらめっこをしている根っからの技術者で、頑固一徹なところがありました。
父が亡くなったとき、檀家だったお寺が父の戒名をつけてくださいましたが、そこにも「一徹」の二文字が刻まれていました。それぐらい、だれからみても頑固なところがありました。
その一方で子どもには基本的に放任主義で、私がすることにほとんど口出しすることはなかったのですが、2つだけ私にすすめてくれたことがありました。
一つは私が中学生のときに、「柔道をやれ」と言ってくれたことです。背が高く体格もよかった父とは違い、私はやせていて、すぐに風邪をひくなど体調をくずしがちでした。
そんな私を見て、父は「おまえはひょろひょろやな、柔道をやって体を鍛えろ」と言ったのです。私はそれで柔道を始め、中学3年生で初段、高校2年生には二段になりました。
■小さな金属片が父の運命を変えた
もう一つは、「医者になれ」と言ってくれたことです。
「おまえは経営者には向かないから、自分の仕事を継がなくてもいい。医学部に入って医者になり、自分のような病気の人を助けてあげたらどうだ」と言ってくれました。
私が中学生のとき、父は仕事中に負った小さなケガから病気にかかってしまいました。

金属をやすりでけずる作業をしていたときに、金属の破片が飛んで脚に当たり、ズボンには小さな穴があきました。脚を見ると注射のあとのような小さな傷がついています。
そのときは「大したことはないだろう」と言って父は家にもどったのですが、夜になると高熱が出て、救急車で病院に運ばれました。
レントゲンを撮ると、骨に小さな金属片が入りこんでしまっているというので、それを手術で取り除くことに。ごく小さな金属片でしたが、骨に入ってしまったものを取るのはかなり大変で、五時間もの大手術になり大量出血をしたため、輸血をしました。
■猛勉強をして念願の医者の道へ
手術のおかげで父のケガはほどなく治ります。しかし、このときの輸血が原因で、父は肝臓の病気であるC型肝炎にかかってしまっていたのです。C型肝炎はウイルスによる病気ですが、当時はまだ原因となるウイルスが見つかっておらず、治療法もありませんでした。
こうして、ささいなケガをきっかけに、父の肝臓はどんどん悪くなってしまったのです。
私が中学生から高校生にかけて父の病状はかなり深刻になり、元気だった父が日に日に弱っていく姿を見ることになりました。
そんな経験から、医学への興味を強く抱くようになっていったのです。
父が私に医者になることをすすめてくれたのは、自分が病気になったこともあるでしょうが、工場の経営で苦労することも多かったので、私に苦労をさせたくないという思いもあったかもしれません。

じっさい、ミシンの部品をつくっていた父の工場は、世の中の流れに左右されて一家の生活は不安定でした。
■一家4人で6畳一間に暮らすことに
私が生まれたとき、家族は父が経営する工場の隣にある家に住んでいました。その後、住宅地の一軒家に住んでいた時期もありましたが、私が高校を卒業するころには、工場の2階にある6畳一間の小さな部屋に一家4人で暮らすことになりました。
そのころ、世の中には安く買える服が増え、ミシンを使って服をつくることがめっきり少なくなり、年を追うごとに部品も売れなくなっていたようです。
こうした時代の変化を父はひしひしと感じていたから、私に家業を継ぐことをすすめなかったのかもしれません。
当時の私は両親の苦労も知らず、高校3年の夏休みまで柔道部の練習に打ちこんでいました。しかし秋になって「家を売って工場の一室に引っ越す」という話を両親から聞いて驚き、そこから文字どおり猛勉強をして大学の医学部に入りました。

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山中 伸弥(やまなか・しんや)

京都大学iPS細胞研究所名誉所長

1962年大阪生まれ。1987年に神戸大学医学部を卒業後、臨床研修医を経て、1993年に大阪市立大学大学院医学研究科博士課程修了。米国グラッドストーン研究所博士研究員、奈良先端科学技術大学院大学教授、京都大学再生医科学研究所教授などを歴任。2010年より京都大学iPS細胞研究所所長、2022年より同名誉所長。2007年より米国グラッドストーン研究所上席研究員を、2020年より公益財団法人京都大学iPS細胞研究財団理事長を兼務。
2006年にマウスの皮膚細胞から、2007年にはヒトの皮膚細胞から人工多能性幹(iPS)細胞の作製成功を発表し、これらの功績により2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞。

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(京都大学iPS細胞研究所名誉所長 山中 伸弥)
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