■日本人が負担している「見えない税金」
消費税や所得税は、目に見える負担であるから、当然ながら国民に不評だ。しかし、目に見えないかたちで、静かに、かつ重く国民に対して負担を強いる税として、いわゆる“インフレ税”がある。
インフレ税とは、文字通り高インフレを通じて、公的債務残高の膨張に歯止めがかかるなり、それが圧縮するなりする経済現象を意味する。
財政の健全性を示す指標として、公的債務残高の対名目国内総生産(GDP)比率というものがある。投資家は政府の返済能力を最も重視するから、政府の抱える債務に対して、その国の経済がどれだけの返済能力があるのか、つまり稼ぐことができるのかを気にかける。そのため、公的債務残高の対名目GDP比率は重視される指標となる。
日本の公的債務残高は名目GDPの2倍を超えて久しく、G7で最悪の水準である。一方で、近年、日本の公的債務残高の対名目GDP比率は着実に低下している(図表1)。国の債務に限定して考えると、コロナショック後の2021年初をピークに、この数値は低下が続いており、この指標に基づくなら、財政は“健全化”が進んでいる。
■インフレ税で“財政健全化”が進む日本
日本の公的債務残高の対名目GDP比率が低下した主な理由は、インフレにある。この指標の前期比での変化を①債務要因(公的債務残高の増減)と②成長要因(実質GDPの増減)、物価要因(GDP価格指数の変化)で分解すると、2022年以降、主に物価要因による押し下げが、債務要因による押し上げを上回っていることが分かる。
つまり、日本の国民は、知らず知らずのうちに、インフレ税というかたちで、財政の健全化のコストを負担しているのである。
所得税や消費税は、還付など節税の余地がある。しかしインフレ税に節税の余地はなく、個人の努力でそこから免れることは難しい。
ではどうすればいいかと言えば、インフレを鎮める以外に具体的な方法はない。
ここで、話をヨーロッパに転じたい。ヨーロッパでもまた、国民にインフレ税が課されているケースが多い。その中でも酷いケースが、イギリスとフランスだ。両国の場合、国民にインフレ税を課しているにもかかわらず、公的債務残高の膨張に歯止めがかかっていないどころか、むしろさらに膨張しているという点で、深刻な状況である。
イギリスの場合、2023年1-3月期の96%を底に公的債務残高の対名目GDP比率が上昇に転じ、直近2025年4-6月期は101%に達した(図表2)。コロナショック後の最悪期の水準(2021年1-3月期の106%)よりまだ低いが、この間に物価要因が押し下げ方向に働いているにもかかわらず、それを上回るピッチで公的債務が増えたことになる。
■イギリスとフランスの酷な事例
2024年7月に誕生した中道左派の労働党政権は、前任の中道右派の保守党政権の下で悪化した財政の健全化を訴え、増税を強化した。一方で、歳出をカットするどころか増やしたため、結果的に財政赤字は縮小せず、国民が重いインフレ税を課されているにもかかわらず、公的債務が膨張するに至っている。これでは国民が反発して当然だ。
他方でフランスである。フランスの公的債務残高の対名目GDP比率は2023年10-12月期の110%を底とし、直近2025年4-6月期には116%まで上昇している(図表3)。
コロナショック後の最悪期(2021年1-3月期の118%)に近しい水準だという意味では、フランスの方がイギリスよりも財政状況の悪化がより深刻だと評価できよう。
実際、主要格付機関はフランス国債の評価を軒並み引き下げている。フランスでは財政再建を進めたいマクロン政権が劣勢に立たされており、財政運営の健全化が進みそうもないことが嫌気されたためだ。こうしたフランスの状況を尻目に、政治が安定しているイタリアや経済が安定しているスペインの国債は格上げされており、対照的である。
■積極財政が生活苦を招いている
そもそもインフレ税、もとい高インフレは、財政が健全に運営されていれば、そう酷くはならない。インフレとは需給が引き締まった結果であり、超過需要あるいは過少供給の時に生じる。したがって、高インフレを鎮めたいなら、需要を抑制するか、供給を刺激するか、あるいはその両方をバランスよく進めるかをするしか、対処法はない。
イギリスの場合、中道左派の労働党政権が“大きな政府”路線に拘っているため、歳出の削減が進まない。しかし、国民の反発や投資家の厳しい目を受けて、労働党政権は歳出の一段の拡大には慎重を期するようになっている。労働党政権は供給を刺激するための成長戦略も用意しているが、企業の活力を刺激する規制緩和には程遠い内容だ。
フランスの場合、マクロン政権が財政運営の健全化を訴えているが、野党がそれに反対するため、歳出の削減が進まない。それに良くも悪くも、次期の総選挙が2029年とまだ時間があるイギリスと異なり、フランスは2027年5月に大統領選を予定している。
この選挙にマクロン大統領は出馬できないため、政治的な混沌が意識されている。
イギリスでは、労働党政権が政策転換を断行できるならば、インフレ抑制への道が開けるかもしれない。また金融政策の独自性が維持されているため、イングランド銀行による利上げの道も残されている。利上げをすれば需要が抑制される反面、通貨高を通じて輸入が伸び供給が増えるため、高インフレでありインフレ税が和らぐことになる。
対するフランスでは、なにより政治が不安定である。それにユーロに加盟している以上、金融政策は欧州中央銀行(ECB)による決定に受け身であるため、政策的にインフレ税、もとい高インフレを抑制する道が描きにくい。これがさらなる国民の反発を生み、政治の不安定を増長させるという悪循環に、フランスは陥りつつあると言えよう。
■20兆円補正はさらなるインフレ税の呼び水に
さて、日本に話を戻したい。高市早苗首相がその肝煎りで用意した20兆円の補正予算は、高インフレの抑制を掲げたものだ。確かに短期的には、減税や給付金などによって高インフレは和らぐだろう。しかし、その中身は典型的な需要の刺激策であるし、財源は国債の発行によるものだから、中長期的にはさらなるインフレ税の呼び水になる。
コロナショック直後に比べると、日本の公的債務残高の対名目GDP比率は低いのだから、その分だけ国債の発行に余地があると考える論者もいるかもしれない。
そうした考えに基づいて国債を発行し、需要を刺激し続けると、結局は高インフレの継続につながり、国民はインフレ税を課され続けることになる。本末転倒とはまさにこのことだ。
インフレ税はどの税よりも公平だが、どの税よりも負担が重い。日本の国民がこれを支払いたくないなら、少なくとも歳出の削減を受け入れる必要がある。あるいは、日銀が利上げを進めるという手段もある。借入をしている国民の利払い負担が増えるなどの問題も生じるが、円高に誘導してインフレ税を和らげたほうがマクロ的にはいい。
いずれの選択も放棄し、需要の刺激に突き進むなら、国民は重いインフレ税を払い続けることになる。政治は国民の民意で動くものである。政治の意識が変わるためには、なによりまず、国民の意識が変わる必要がある。
(寄稿はあくまで個人的見解であり、所属組織とは無関係です)

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土田 陽介(つちだ・ようすけ)

三菱UFJリサーチ&コンサルティング 調査部 主任研究員

1981年生まれ。2005年一橋大学経済学部、06年同大学院経済学研究科修了。浜銀総合研究所を経て、12年三菱UFJリサーチ&コンサルティング入社。
現在、調査部にて欧州経済の分析を担当。

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(三菱UFJリサーチ&コンサルティング 調査部 主任研究員 土田 陽介)
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