本能寺の変で織田信長を討った明智光秀の天下は、豊臣秀吉の「中国大返し」によって11日で終焉した。国際日本文化研究センター准教授の呉座勇一さんは「岡山から姫路まで一昼夜で進軍したという逸話があるが、実際には3日間ほどかかったとみられている。
中国大返しの逸話には秀吉の誇張がある」という――。(第1回)
※本稿は、呉座勇一『真説 豊臣兄弟とその一族』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
■秀吉の人生を変えた“大役”
秀吉の生涯にとって大きな転機となったのは、天正5年(1577)に中国地方の攻略という大役を与えられたことであろう。信長と毛利氏の両者は当初、友好関係にあったが、やがて信長が領国を拡大させていき、互いに領土を接するようになると両者の関係はこじれていく。
天正4年の4月に、信長が明智光秀らに石山本願寺を攻撃させたところ、本願寺は毛利氏からの兵糧などの支援を受け、第1次木津川口合戦では、織田水軍が毛利水軍に敗れた。
こうなると、信長の天下統一を阻む最大の勢力は中国地方の毛利氏である。天正5年10月、信長は秀吉を中国方面司令官に抜擢し、毛利氏の対処にあたらせている。
天正9年10月に秀吉は、毛利方の重要拠点である因幡(いなば)鳥取城を陥落させ、守兵として宮部継潤(みやべけいじゅん)以下を置いて、当時居城としていた姫路城に戻った。次なる攻撃目標は清水宗治(しみずむねはる)の守る備中高松城である。
■奇策「水攻め」を使った2つの狙い
天正10年5月、信長の命を受けた秀吉は、備中高松城を攻囲した。同城は毛利氏の領土を防衛する要衝に位置し、湿地の泥沼、自然の河川を水堀とする天然の要害であった。秀吉はそうした高松城の防備を逆手にとり、かえって低湿地であるがゆえの弱点をつくことを考えた。
有名な水攻めである。
清水宗治が守る高松城の籠城(ろうじょう)兵力は約3千人であるのに対し、秀吉軍は宇喜多(うきた)氏の援軍を含めると約2万5千人に上り、圧倒的な兵力差があった。絶対的な優位がありながら、あえて水攻めという迂遠(うえん)な方法を選択したのは、単に兵糧攻めを狙っていたわけではなく、秀吉は時間をかけて攻囲することで毛利氏主力の来援を誘い、信長の援軍を得て一気に織田・毛利両雄の主力決戦に持ち込もうとしていたからと考えられる。
この戦いで用いられた水攻めは、秀吉の大胆な発想力と緻密な実行力の象徴として知られている。しかし近年、この水攻めが従来考えられていたほど大規模ではなかったとする新説が脚光を浴びている。
■虚構まみれの「英雄秀吉」
通説では『川角太閤記』などに依拠し、秀吉が足守川(あしもりがわ)の流れを堰(せき)止め、長さ約2.8キロメートル、高さ約7メートルの堤防をわずか12日間で築き、城を湖に囲まれた「陸の孤島」にしたとされている。梅雨の雨量も相まって高松城内は浸水し、兵糧の搬入が断たれたことで籠城軍は疲弊したと伝えられている。
ところが、歴史地理学の観点から通説の見直しが進んでいる。『川角太閤記』などが秀吉を英雄化するために、高松城水攻めの規模を誇張した、という可能性が指摘されるに至ったのだ。堤防の膨大な工事量、工事期間の短さを考慮すると、当時の土木技術や資材・人員調達の限界を超えているからである。
近年の研究成果に基づくと、3キロメートルにも及ぶ長大な堤防を築かずとも、その10分の1の300メートルもあれば、地形上、容易に城を水没させることが可能であったことが明らかにされている。山手線の車両11両編成が約220メートルなので、その約1.5倍にすぎない。

備中高松城の所在地は、東・西・北の三方を山地で囲まれており、唯一開けた南側の平野部にも、足守川による侵食で形成された島状の自然堤防が連なって存在していたために、土地に雨水が滞留(たいりゅう)しやすかった。
■明智光秀のあっけない最期
自然堤防と蛙ヶ鼻(かわずがはな)の間には、地元で「水通し(水越し)」と呼ばれる幅300メートル規模の狭隘地(きょうあいち)が存在し、高松地区における唯一の排水溝として機能していた。水攻めは梅雨の時期にあたり、秀吉はこの「水通し」に堤を築いて排水を遮断するだけで、水攻めに必要な水量が確保できたのである。
豊臣秀吉は備中高松城を水攻めにし、毛利氏は援軍を送ることができず、傍観するだけであった。清水宗治ら兵卒の命運は、もはや尽きようとしていた。
秀吉は信長の到着を待ちつつ、毛利氏と講和交渉を進めた。ところが、本能寺の変により織田信長が明智光秀に討たれた。この報に接した秀吉は毛利氏との講和交渉を即座にまとめ、急ぎ京都へ向けて進軍を開始した。秀吉が速やかに畿内に戻ったことで、去就を迷っていた織田家の部将たちは雪崩を打って秀吉方につき、秀吉の迅速な帰還を想定していなかった光秀は孤立した。
光秀は本能寺の変の11日後には山崎の戦いで秀吉に敗れ、敗走中に討たれた。俗に「三日天下」と言う。
■数多く残る「中国大返し」の証拠
備中高松城(現在の岡山県岡山市北区)から山城国山崎(やましろのくにやまざき)(現京都府乙訓郡大山崎町)までの約230キロメートルを踏破した秀吉の行軍は後世「中国大返し」と呼ばれ伝説化された。
特に沼―姫路間は「一昼夜で70キロメートルを駆け抜けた」とされ、この驚異的な行軍は秀吉を天下人に押し上げた奇跡として語り継がれてきた。
すなわち、『惟任退治記(これとうたいじき)』『甫庵太閤記(ほあんたいこうき)』などによると、備前沼城(現岡山県岡山市東区沼)から播磨姫路城(現兵庫県姫路市)までの行程(約70キロ)を一昼夜で進軍したというのだ。
滋賀県立安土城考古博物館所蔵の天正10年10月18日付斎藤玄蕃助(さいとうげんばのすけ)・岡本良勝(おかもとよしかつ)宛て羽柴秀吉書状写にも、「六日まで逗留致し、終に城主の事は申すに及ばず、悉(ことごと)く首を刎ね候事」「同(6月)七日に、廿七里の所を一日一夜に姫路へ打ち入る」とある。
秀吉は6日まで高松に逗留して城主清水宗治の切腹を見届け、7日に高松から姫路に移動したという。高松城から姫路までは約90キロである。書状は写しとはいえ一次史料であり、『惟任退治記』『甫庵太閤記』の記述ともほぼ合致するため、一昼夜の急行軍が信じられてきた。
■最新研究でバレた秀吉の誇張
けれども、上記の「一昼夜で二十七里」という記述は、秀吉が信長三男である織田信孝(のぶたか)に対して(斎藤・岡本は信孝の家老)、明智光秀討伐戦における自身の忠義と迅速さを強調するための宣伝の文脈で語られたものである。
この時代の行軍速度を考慮すれば、大軍が短期間でこれほどの距離を進むことは物理的に不可能であり、秀吉の発言には相当な誇張が含まれていたと見るべきであろう。
渡邊大門氏や服部英雄氏は一次史料を精査し、秀吉自身の書簡(「梅林寺文書」)や他の同時代史料を再検討した。
それによれば、秀吉は6月5日時点で既に高松城を出発し、安全地帯である備前国の野殿まで進軍していた。さらに、道中の警護を担う先遣隊(せんけんたい)が、4日には備中国を出て、同じく3日をかけて6日に播磨国の姫路城に入城していた。
従来の6月6日高松城出発説は誤りであり、秀吉の姫路への移動は3日間をかけた現実的な行軍だったと考えられる。

■「本能寺の変」黒幕説は本当か
加えて、最近の城郭考古学の成果により、秀吉が信長の高松城到着に備えて、信長とその親衛隊が宿泊・補給を行うための駐屯基地「御座所(ござしょ)」を、信長の進軍予定ルートに複数建設していたことが明らかになった。
「御座所」と「御座所」を結ぶ情報ネットワークを通じて、秀吉はいち早く本能寺の変の情報を入手し、信長のために整備した街道と、信長の親衛隊のために用意した「御座所」の備蓄物資を利用して「中国大返し」を成功させたのである。
したがって「秀吉が中国大返しをできたのは、事前に本能寺の変を知っていた、あるいは予測していたからだ」という説は否定される。事前に想定していなくても、中国大返しは実行可能だった。
さらに『惟任退治記』によれば、秀吉は遅れる者を置いて急行したため、山崎の戦いに間に合った秀吉軍は1万人程度であった。山崎の戦いの勝利には、秀吉軍に合流した織田信孝軍や摂津勢(中川清秀(なかがわきよひで)・高山右近(たかやまうこん))らも大きく貢献している。
■秀吉の武功は優れた判断力の賜物
秀吉が幸運だったのは、本能寺の変が起こる前に、毛利氏との講和交渉を始めていたことだろう。秀吉の水攻めにより備中高松城の救援が事実上不可能になった毛利側は、秀吉に和睦を申し入れていた。
信長から出馬の連絡を受けた秀吉は、備中・備後・美作・伯耆・出雲(現在の広島県・岡山県・鳥取県・島根県)の5カ国割譲という強気の要求をしたため交渉は難航したが、本能寺の変を知った秀吉は備後・出雲を除く備中・美作・伯耆の3カ国の割譲と備中高松城主清水宗治の切腹に譲歩した。本能寺の変を知らない毛利氏がこれをあっさり呑んだのは当然である。
秀吉の判断の速さは確かに驚異的で、称賛に値する。しかし「中国大返し」は決して神がかった奇跡ではなく、それを可能とする環境は準備されていたのである。


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呉座 勇一(ござ・ゆういち)

国際日本文化研究センター研究部准教授

1980年生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。博士(文学)(東京大学)。著書『応仁の乱戦国時代を生んだ大乱』がベストセラーとなる。『戦争の日本中世史―「下剋上」は本当にあったのか―』で角川財団学芸賞を受賞。主な著書に『一揆の原理日本中世の一揆から現代のSNSまで』『頼朝と義時武家政権の誕生』『動乱の日本戦国史桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』『日本史敗者の条件』などがある。

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(国際日本文化研究センター研究部准教授 呉座 勇一)
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