※本稿は、呉座勇一『真説 豊臣兄弟とその一族』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
■なぜ秀吉は江戸庶民の憧れになったのか
豊臣秀吉は、貧しく卑しい出自ながら織田信長の家臣として急速に出世し、信長死後は主家である織田家を乗り越え、最終的には天下人となった。このような史上類を見ない大成功の要因として、秀吉が人心を掌握する巧みな術を持っていたことが挙げられてきた。
秀吉が「人たらし」として広く認識されるようになった背景には、江戸時代の物語や芝居がある。特に、『甫庵太閤記』や『絵本太閤記』といった作品は、秀吉の人物像を形作る上で決定的な役割を果たした。
『甫庵太閤記』は、江戸時代初期の儒医である小瀬甫庵によって著された秀吉の伝記である。この作品は、秀吉の生涯を物語風に描き、その知略や人間性、立身出世の過程を強調する内容となっている。
同書では、秀吉の出自や若き日の苦労、戦国の世を生き抜く知恵と機転、そして天下統一への道のりが脚色を交えて語られた。同書は江戸時代初期の出版文化の発展にも支えられ、秀吉の事績が庶民に広まるきっかけとなった。
■「信長の草履を温めた」逸話の初出
秀吉の「人たらし」神話を決定づけたのは、秀吉の死から200年後に刊行された『絵本太閤記』である。同書は、秀吉の生涯を描いた先行作品を基に、武内確斎が文章を書き、岡田玉山(おかだぎょくざん)が挿絵を担当した。寛政9年(1797)に刊行された当初は秀吉の若き日のみを描いていたが(初編)、これが大人気となったため、その後も続編が次々と刊行され、全7編84冊にまで膨れ上がった。
この『絵本太閤記』は、秀吉の立身出世の過程を伝えるにあたって、彼の人間味あふれるエピソードを数多く紹介している。特に信長の草履を温めた逸話は、『絵本太閤記』によって広く知られるようになった。
周知のように、この話は、寒い夜に信長の草履を懐で温めてから差し出し、その心遣いが信長に認められたというもので、気配り上手で人の心をつかむことに長けていたという秀吉の「人たらし」を象徴するエピソードとして語り継がれている。
■徳川幕府が弾圧するほどの秀吉ブーム
加えて『絵本太閤記』は、その人気から歌舞伎や人形浄瑠璃の演目にも採用された。寛政11年には人形浄瑠璃『絵本太功記(えほんたいこうき)』が初演され、翌年には歌舞伎版の『恵宝(えほう)太功記』が上演されるなど、庶民の娯楽として広く受け入れられた。これらの演目は、秀吉の「貧しい百姓から苦労を重ねて天下人へ」という物語を描き、庶民の共感を呼び起こした。
豊臣政権を滅ぼして成立した江戸幕府は、徳川将軍家による支配の正統性を脅かしかねない秀吉顕彰の動きに厳しい姿勢をとったが、にもかかわらず秀吉の生涯を描いた作品は絶大な人気を誇った。身分が固定化された江戸時代を生きる庶民にとって、秀吉のような「立身出世」の物語は大きな憧れの対象だったからである。
秀吉を主人公とする江戸時代の作品群は、秀吉の「人たらし」を強調し、彼を親しみやすい英雄として描いたのである。
一例を挙げれば、秀吉の母親孝行である。秀吉が出陣中に留守居の大政所(おおまんどころ)(「なか」)に送った手紙が複数残っており、秀吉が母親の大政所を大切にしていたことは事実である。
■自分の武勇伝を皇族の前で朗読
しかし後世、秀吉の人間味を強調するため、城持ち大名になった秀吉が母親を自身の城に迎え入れる際、家臣の目も気にせず、地面に両手をついて出迎えたといった「孝行者」のエピソードが創作・脚色されたのである。
さらに、秀吉自らが「人たらし」神話の創成に関わっていた節がある。秀吉は御伽衆の大村由己に自身の伝記である『天正記』を執筆させ、皇族や公家の前で朗読させることで、己の名声を広めようとした。『甫庵太閤記』をはじめとする秀吉物語は、『天正記』を参照しているので、「人たらし」神話の起点には秀吉の自己宣伝があったことになる。
実のところ、豊臣秀吉が親しみやすい陽気な「人たらし」であったことを示す確実な史料はほとんどない。むしろ織田信長の配下であった時代の毛利攻めにおいては、虐殺を行っている。
■「人たらし」秀吉の本当の顔
秀吉の残虐性を顕著に示す合戦として、天正5年(1577)の第1次上月城合戦(こうづきじょうかっせん)が挙げられる。当時、秀吉は織田信長の命を受け、中国地方の毛利氏を攻撃していた。
上月城は、美作国・備前国(ともに現在の岡山県)と国境を接する播磨国佐用郡(さよぐん)(現在の兵庫県佐用郡佐用町(さようちょう))に位置し、毛利方の重要拠点として機能していた。
上月城は当初、赤松七条家の支配下にあったが、戦国時代の混乱の中で毛利氏の影響下に置かれていた。天正5年、織田信長の中国地方征服の一環として、秀吉が上月城を攻略することとなった。秀吉の軍勢は、城を力攻めするのではなく、城内の水源を奪うなどの持久戦を選択した。
数カ月に及ぶ包囲戦の末、城内の状況は極限に達し、ついに上月城の城兵は裏切って城主を討ち、秀吉に対して城主の首と引き換えに籠城者の助命を嘆願した。ところが秀吉はこの嘆願を受け入れず、城主の首を安土城の信長に献上すると、籠城者を皆殺しにした。
■女は磔、子どもは串刺し…
特に注目されるのは、城兵のみならず、城の中に避難していた非戦闘員である女性や子どもたち約200人を殺害したことである。美作・備前両国の境目で、女は磔(はりつけ)にされ、子どもは串刺しにされた。
秀吉がこのような残虐行為に及んだ背景には、部下の失敗に厳しい信長の性格が指摘できよう。秀吉にとって、戦果を挙げて信長の信頼を得ることが最優先事項であった。
当時は合戦相次ぐ戦国時代であり、敵の戦意を喪失させると共に味方の裏切りを予防するために、見せしめの虐殺を行うことはしばしばあった。秀吉は毛利氏との厳しい戦いを続けており、毛利方の勢力に対して「いったん織田家に敵対したならば、決して許されない」という恐怖を植え付ける意図があったと考えられる。
とはいえ、第1次上月城合戦における豊臣秀吉の行為は、戦国時代の常識をも超えた残忍なものだった。戦国時代であっても、見せしめとして磔にされるのは、城主など主要武将に限られるのが一般的だった。非戦闘員をも含む虐殺は珍しく、目的のためには手段を選ばない秀吉の冷酷さが浮き彫りになっている。
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呉座 勇一(ござ・ゆういち)
国際日本文化研究センター研究部准教授
1980年生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。博士(文学)(東京大学)。著書『応仁の乱戦国時代を生んだ大乱』がベストセラーとなる。『戦争の日本中世史―「下剋上」は本当にあったのか―』で角川財団学芸賞を受賞。主な著書に『一揆の原理日本中世の一揆から現代のSNSまで』『頼朝と義時武家政権の誕生』『動乱の日本戦国史桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』『日本史敗者の条件』などがある。
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(国際日本文化研究センター研究部准教授 呉座 勇一)

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