Netflixはなぜ最新のドラマ作品でも一挙公開するのか。著作家の大田比路さんは「視聴者に『一気見』をさせることで、次の視聴につなげる『無限ループ』を構築している」という――。
※本稿は、大田比路『2030年の世界を生き抜くための テック資本主義超入門』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
■「DVDレンタルの終わり」を予期したNetflix
2007年1月、Netflixがストリーミング動画事業(streaming video on demand)を開始した。当時、CEOのリード・ヘイスティングス(Reed Hastings、1960~)は、DVDレンタル市場がいずれ飽和すること、動画視聴の基盤がやがてネットに移行することを予期していた。
一方、当時の通信速度では、ストリーミング動画を流しても画質が粗くなる点が懸念されていた。しかし、同時期、YouTubeが粗い画質ながら人気を博していた点を踏まえて、この年にストリーミング動画事業に踏み切ったのである。結果として、この一大転換は成功を収めることになる。2010年代後期に入ると、Netflix視聴が全世界のネット通信量の約15%を占めるようになる。
Netflixが成し遂げた歴史的意義は、ストリーミング動画事業の先駆者になったことだけではない。自社オリジナル映像作品――Netflix Original Programmingを展開した点も大きい。
特に、2013年には、Netflixオリジナル連続ドラマ“House of Cards”が、テレビ番組に関する最高権威の賞とされるエミー賞を3部門にわたって受賞した。
■Netflixは「テレビ」と「映画」の定義を変えた
この“House of Cards”のエミー賞受賞は、歴史的出来事だった。要するに「テレビ番組」の定義が変わったのだ。
さらに、2018年に公開されたNetflixオリジナル映画“ROMA”が、ベネチア国際映画祭金獅子賞、アカデミー賞監督賞など、数々の映画賞を受賞した。一方、カンヌ国際映画祭は、フランス映画産業を守るため、Netflix作品の公式競争部門への参加を認めない方針を打ち出した。
こうしたカンヌの態度をめぐって、映画業界では「映画とは何か」という定義論争が激しく交わされる事態になった。Netflixは「映画の定義」すら揺さぶる存在となったのだ。
■DisneyですらNetflixの前では零細企業
Netflixオリジナル作品が登場した時、映画産業やテレビ産業は、まず無視した。つぎに嘲笑した。「あれは映画もどきだ」「あんなのテレビじゃない」と言い張った。しかし、Netflixが無数の視聴者を集め、世界中の話題をさらい、莫大なカネを集め始めるや否や、あっさりと態度を変えた。
文化にとって「定義」とはなんだろうか。それは、何かの理念を示すものではない。物理的ファクトを示すものでもない。文化産業を守るための、文化産業の子羊たちを守るための「産業保護装置」のようなものだ。言い換えれば「定義」とは、外からの異物を拒むための盾である。そして、仮にその異物が勝者になった時には、その異物を迎え入れる扉にもなるのだ。
2018年、Netflixは、20世紀マスメディアの象徴だったWalt Disneyを時価総額で上回った。2025年、Netflixの時価総額は5000億ドルを超えた。Walt Disneyをダブルスコアの差で突き放した。Warner Bros. DiscoveryもNews CorpもComcastもParamountも、Netflixの前では、単なる零細企業となった。それは、20世紀型レガシー文化産業の終焉と、21世紀型アルゴリズム文化産業の幕開けを告げるものだった。
■なぜNetflixは連続ドラマを「一挙公開」するのか
Netflixに関する最大の論争点は、ビンジウォッチング(binge watching)というテレビ消費スタイルを普及させた点にある。bingeとは一気飲み/一気喰いのことだ。
Netflixなどの動画ストリーミングでは、1つのテレビドラマ作品を第1話から最終話まで一挙公開することが多い。視聴者は1つのドラマを長時間にわたって数話連続で見続ける。中には、第1話から最終話までをノンストップで観る者までいる。すなわち、ビンジウォッチングとは「視聴者が望むものを視聴者が望む時に視聴者が望む量だけ視聴者本人の脳内に流し込む」という放送の新たなあり方だ。
似たような営みは、20世紀にもあった。例えば、好きなマンガの単行本を一気読みするといった消費文化は、昔から観察されてきた。いわゆるメディアマラソン(media marathon)である。
しかし、Netflixが普及させたビンジウォッチングなるものは、そのような牧歌的なものではない。ユーザの人生時間を最大限に収奪し、競合市場や競合他社を制圧するために設計されたテクノロジーの戦略だった。
■Netflixが狙う「視聴の無限ループ」
まず、ビンジウォッチングは、ユーザの離脱率(churn rate)を抑制する。
「損失を確定させたくない」という心理ゆえに、さらなる損失を積み重ねていく心理状態に陥る。Netflixにとって、これほど都合のいいカモはいない。
ユーザのNetflix滞在時間が長くなればなるほど、Netflixは膨大なユーザデータを収集できる。データは分析され、次の視聴コンテンツのレコメンドへと変換される。レコメンドがさらなる視聴を促し、視聴がさらなるデータを生み、データが再びレコメンド精度を高める。その無限ループの中で、Netflixの企業価値はさらに増大していく。
さらに言えば、人間の可処分時間は有限である。その有限な時間をNetflixに費やしてくれたら、その分だけ、競合市場や競合他社に流れる時間を阻止できるのである。
21世紀は、20世紀とは比べ物にならないほど、多種多様な娯楽で満ちあふれている。しかし、ユーザが同時に消費できる娯楽は、せいぜい2つだ。
■時間はカネよりカネになるカネ
昔から「時間はカネよりも大切だ」とよく言われる。確かにその通りだ。言い換えれば、時間とはカネそのものだ。いや、時間とは、カネよりもカネになるカネなのである。
マーケティング理論家でニューヨーク大学教授を務めるアダム・オルター(Adam Alter、1980~)によれば、テレビコンテンツは、脳の報酬系(reward system)を刺激して、一時的快感を引き起こすよう意図的に設計されているという。
この快感は持続しない。視聴者は、さらなる刺激を求めて視聴を繰り返すサイクルに陥る。コンテンツ提供側は、消費者のアテンションを維持するために、アルゴリズムを駆使してエピソードを自動再生したり、通知を絶えず送信するなどの仕組みを取り入れる。
もちろん、私は「テレビを観るな」などとは言わない。誰がどれだけの娯楽をビンジさせられるか。誰がどれだけの人生時間を特定産業のために奉仕させられるか。それらは、本人の「選択の自由」に委ねられているに過ぎない。「私には選択の自由などない」というのであれば――それは哀惜の念に堪えない話だ。
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大田 比路(おおた・ひろ)
著作家
早大法、早大院(修士)、早大政経助手を経て、現在は個人投資家。都内在住。主著『政治的に無価値なキミたちへ』(イースト・プレス)。早大講師(社会科学領域/非常勤)兼任。
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(著作家 大田 比路)
※本稿は、大田比路『2030年の世界を生き抜くための テック資本主義超入門』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
■「DVDレンタルの終わり」を予期したNetflix
2007年1月、Netflixがストリーミング動画事業(streaming video on demand)を開始した。当時、CEOのリード・ヘイスティングス(Reed Hastings、1960~)は、DVDレンタル市場がいずれ飽和すること、動画視聴の基盤がやがてネットに移行することを予期していた。
一方、当時の通信速度では、ストリーミング動画を流しても画質が粗くなる点が懸念されていた。しかし、同時期、YouTubeが粗い画質ながら人気を博していた点を踏まえて、この年にストリーミング動画事業に踏み切ったのである。結果として、この一大転換は成功を収めることになる。2010年代後期に入ると、Netflix視聴が全世界のネット通信量の約15%を占めるようになる。
Netflixが成し遂げた歴史的意義は、ストリーミング動画事業の先駆者になったことだけではない。自社オリジナル映像作品――Netflix Original Programmingを展開した点も大きい。
特に、2013年には、Netflixオリジナル連続ドラマ“House of Cards”が、テレビ番組に関する最高権威の賞とされるエミー賞を3部門にわたって受賞した。
■Netflixは「テレビ」と「映画」の定義を変えた
この“House of Cards”のエミー賞受賞は、歴史的出来事だった。要するに「テレビ番組」の定義が変わったのだ。
それまで、テレビ番組とは、地上波テレビやケーブルテレビで放送された作品を指していた。しかし、エミー賞は、インターネット配信作品も「テレビ番組」と認定したのである。Netflixにとって、権威あるエミー賞を獲得したことは大きかった。同時に、エミー賞もまた、新たなメディア勢力を自らの内側に取り込むことに成功したわけだ。
さらに、2018年に公開されたNetflixオリジナル映画“ROMA”が、ベネチア国際映画祭金獅子賞、アカデミー賞監督賞など、数々の映画賞を受賞した。一方、カンヌ国際映画祭は、フランス映画産業を守るため、Netflix作品の公式競争部門への参加を認めない方針を打ち出した。
こうしたカンヌの態度をめぐって、映画業界では「映画とは何か」という定義論争が激しく交わされる事態になった。Netflixは「映画の定義」すら揺さぶる存在となったのだ。
■DisneyですらNetflixの前では零細企業
Netflixオリジナル作品が登場した時、映画産業やテレビ産業は、まず無視した。つぎに嘲笑した。「あれは映画もどきだ」「あんなのテレビじゃない」と言い張った。しかし、Netflixが無数の視聴者を集め、世界中の話題をさらい、莫大なカネを集め始めるや否や、あっさりと態度を変えた。
あっさりと自らの定義すら変えていった。
文化にとって「定義」とはなんだろうか。それは、何かの理念を示すものではない。物理的ファクトを示すものでもない。文化産業を守るための、文化産業の子羊たちを守るための「産業保護装置」のようなものだ。言い換えれば「定義」とは、外からの異物を拒むための盾である。そして、仮にその異物が勝者になった時には、その異物を迎え入れる扉にもなるのだ。
2018年、Netflixは、20世紀マスメディアの象徴だったWalt Disneyを時価総額で上回った。2025年、Netflixの時価総額は5000億ドルを超えた。Walt Disneyをダブルスコアの差で突き放した。Warner Bros. DiscoveryもNews CorpもComcastもParamountも、Netflixの前では、単なる零細企業となった。それは、20世紀型レガシー文化産業の終焉と、21世紀型アルゴリズム文化産業の幕開けを告げるものだった。
■なぜNetflixは連続ドラマを「一挙公開」するのか
Netflixに関する最大の論争点は、ビンジウォッチング(binge watching)というテレビ消費スタイルを普及させた点にある。bingeとは一気飲み/一気喰いのことだ。
Netflixなどの動画ストリーミングでは、1つのテレビドラマ作品を第1話から最終話まで一挙公開することが多い。視聴者は1つのドラマを長時間にわたって数話連続で見続ける。中には、第1話から最終話までをノンストップで観る者までいる。すなわち、ビンジウォッチングとは「視聴者が望むものを視聴者が望む時に視聴者が望む量だけ視聴者本人の脳内に流し込む」という放送の新たなあり方だ。
似たような営みは、20世紀にもあった。例えば、好きなマンガの単行本を一気読みするといった消費文化は、昔から観察されてきた。いわゆるメディアマラソン(media marathon)である。
しかし、Netflixが普及させたビンジウォッチングなるものは、そのような牧歌的なものではない。ユーザの人生時間を最大限に収奪し、競合市場や競合他社を制圧するために設計されたテクノロジーの戦略だった。
■Netflixが狙う「視聴の無限ループ」
まず、ビンジウォッチングは、ユーザの離脱率(churn rate)を抑制する。
長時間の視聴を続けるなかで「イマイチ」と感じても、それまでに費やした視聴時間がムダになってしまうために「観るのをやめる」という選択肢を封じ込める。いわゆるサンクコストの誤謬(sunk cost fallacy)だ。
「損失を確定させたくない」という心理ゆえに、さらなる損失を積み重ねていく心理状態に陥る。Netflixにとって、これほど都合のいいカモはいない。
ユーザのNetflix滞在時間が長くなればなるほど、Netflixは膨大なユーザデータを収集できる。データは分析され、次の視聴コンテンツのレコメンドへと変換される。レコメンドがさらなる視聴を促し、視聴がさらなるデータを生み、データが再びレコメンド精度を高める。その無限ループの中で、Netflixの企業価値はさらに増大していく。
さらに言えば、人間の可処分時間は有限である。その有限な時間をNetflixに費やしてくれたら、その分だけ、競合市場や競合他社に流れる時間を阻止できるのである。
21世紀は、20世紀とは比べ物にならないほど、多種多様な娯楽で満ちあふれている。しかし、ユーザが同時に消費できる娯楽は、せいぜい2つだ。
iPhoneでソーシャルメディアをスワイプしながら、液晶テレビでニュースバラエティを観る。Spotifyで音楽を聴きながら、タブレットで電子コミックを読む。せいぜい2つが限界なのだ。そうした「娯楽消費時間」の熾烈な奪い合いに、日々勝利しなければならないのだ。
■時間はカネよりカネになるカネ
昔から「時間はカネよりも大切だ」とよく言われる。確かにその通りだ。言い換えれば、時間とはカネそのものだ。いや、時間とは、カネよりもカネになるカネなのである。
マーケティング理論家でニューヨーク大学教授を務めるアダム・オルター(Adam Alter、1980~)によれば、テレビコンテンツは、脳の報酬系(reward system)を刺激して、一時的快感を引き起こすよう意図的に設計されているという。
この快感は持続しない。視聴者は、さらなる刺激を求めて視聴を繰り返すサイクルに陥る。コンテンツ提供側は、消費者のアテンションを維持するために、アルゴリズムを駆使してエピソードを自動再生したり、通知を絶えず送信するなどの仕組みを取り入れる。
消費者は無意識のうちにテレビ中毒(TV addiction)に陥る。そうした構造がテック産業に莫大な利益をもたらすのだ。
もちろん、私は「テレビを観るな」などとは言わない。誰がどれだけの娯楽をビンジさせられるか。誰がどれだけの人生時間を特定産業のために奉仕させられるか。それらは、本人の「選択の自由」に委ねられているに過ぎない。「私には選択の自由などない」というのであれば――それは哀惜の念に堪えない話だ。
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大田 比路(おおた・ひろ)
著作家
早大法、早大院(修士)、早大政経助手を経て、現在は個人投資家。都内在住。主著『政治的に無価値なキミたちへ』(イースト・プレス)。早大講師(社会科学領域/非常勤)兼任。
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(著作家 大田 比路)
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