■電車内で見かけるコロナ禍を忘れた人たち
強い寒波が日本列島を覆い、冷たい北風が吹き抜ける。冬本番のなか、季節性のインフルエンザが流行している。
新たな変異株の登場で流行のスピードも速い。
にもかかわらず、電車やコンビニでマスクも付けずに何度もくしゃみをしたり、せき込んだりする。そんな光景を目にすると、思わず「マスクを付けましょう」と注意したくなる。モラルやエチケット、マナーの問題でもある。
同じ呼吸器感染症の新型コロナのパンデミック(地球規模の流行)で、マスク、手洗い、うがい……と感染対策の効果を理解したはずなのにそれができない。なぜこんな簡単な感染対策もできないのか。
インフルエンザは38度以上の高い熱を出し、のどの痛みや頭痛、筋肉痛、強い倦怠感などの症状が出る。重い肺炎を引き起こすこともある。
1シーズンに2000人を超えるお年寄りが命を落としたり、幼い子供が脳症で亡くなったりするケースもある。高齢者や幼児だけでなく、高血圧、高血糖、心臓病などの持病のある人もその持病を悪化させて死亡することがある。インフルエンザは風邪とはまったく違うことを自覚したい。
■わが身を守るためにマスクを
まずはマスクの効果について話そう。
ウイルス学者の河岡義裕さん(70)が興味深いマスクの実験をしている。
河岡さんは世界で初めてインフルエンザウイルスの人工合成(リバース・ジェネティクスと呼ばれる方法によってウイルスの遺伝子を組み替える)に成功し、現在は東京大学医科学研究所の特任教授や国立国際医療研究所の国際ウイルス感染症研究センター長を務め、世界的権威のあるロベルト・コッホ賞(2006年)を受賞するなど数々の医学賞を受賞している。日本を代表するウイルスの研究者である。
河岡さんとは20年ほど前に取材を通じて知り合い、その後、親しくしてもらっている。近い将来、ノーベル生理学・医学賞を受賞すると思うが、河岡さんのウイルスに対する考え方に触れると、いつもワクワクさせられる。
■証明されたマスクの効能・効果
実験は河岡さんら東大医科学研究所を中心とするグループによって新型コロナがパンデミックを引き起こしている最中に行われた。
新型コロナウイルスを使ってマスクの効能・効果を確かめる実験で、2020年10月21日(米国東部時間)、その結果が米科学雑誌「mSphere(スフィア)」(電子版)に掲載された。河岡さんによると、本物のウイルスを使った実験は環境を整えるのがかなり難しく、実験の期間は数カ月間にも及び、実験で結果が出せたのは世界初だった。
■ノーマスクのリスク
実験はウイルスが外部に空気の漏れない陰圧の実験室で行われ、透明なケースの中にマネキンの頭部を50センチ離して2つ向かい合わせて置き、片方のマネキンは感染者に見立ててせきとともにコロナウイスを含んだ飛沫(しぶき、飛び散る微細な水滴)を口から吐き出させた。
もう片方のマネキンは人工呼吸器を装着して呼吸させ、呼吸経路にゼラチン膜を張ってウイルスの付着量、つまりウイルスの吸い込み量を計測した。マスクは、ウイルスを通し難いN95マスク、医療用の不織布マスク、一般の布製マスクの3種類を使用して比較した。
実験の様子は河岡さんが当時、私に提供してくれた1枚の写真を見るとよく分かる。

飛沫を出すマネキンにだけマスクを着けた場合、対面するマネキンが吸い込んだウイルスの量は、2つのマネキンがマスクを装着しないときに比較して布製マスクと不織布マスクともに最大で70%以上も減り、マスクが対面する相手に対しウイルスの暴露量(ウイルスを浴びた程度)をかなり減らす効果が高いことが分かった。
■着用しないよりずっといい
逆に吸い込むマネキンにだけマスクを着けた場合は、吸い込んだウイルスの量は布製マスクでは17%減り、不織布マスクでは47%減った。N95マスクは隙間なく顔に密着した場合は、79%も減っていた。
ただし、2つのマネキンがマスクを着けた場合も効果はあったが、ウイルスの吸い込みは完璧には防げなかった。
実験の結果について河岡さんは「これまで本物のコロナウイルスを使ってマスクの効果が検証されたことはなかった。今回の実験でマスクをきちんと着用することがいかに重要であるかが確認できた」と説明している。
マスクは長時間着けていると、息苦しくなるようなこともあるが、一度使ったマスクは捨てるなど使い方を誤らなければ、簡単で効果のある感染対策の1つだ。戸外では1万分の1ミリのウイルスなどわずかな風で吹き飛ばされて拡散されるので着用の必要はない。
■基本的な対策が最も効果的
インフルエンザも新型コロナも、感染者のくしゃみやせきで飛び散る唾液や鼻水の飛沫(しぶき、飛び散る微細な水滴)に大量のウイルスが含まれている。飛沫を浴びてウイルスを吸い込んで感染する。それゆえ、インフルエンザと新型コロナの感染は「飛沫感染」と呼ばれる。
 この飛沫感染に対し、麻疹(はしか)のウイルスなどは感染力が非常に強く、空気中を漂うウイルスに接触することで感染する「飛沫核感染」だ。
この飛沫核とは、飛沫から水分が蒸発してより軽くなって空中を浮遊する粒子を指す。それゆえ飛沫核感染を「空気感染」とも呼ぶ。
ここで断っておく。インフルエンザは飛沫感染すると書いたが、研究者の中には飛沫感染だけでなく、飛沫核感染の性質まで持つと主張する人も多い。
次に手洗いとうがいの効果について考えたい。たとえば、部屋の中でインフルエンザの感染者がせき込むと、テーブルの上にもウイルスを含む飛沫が付着する。その飛沫に触れた手でドアノブを触ったり、電車の吊革をつかむとどうなるか。ドアノブや吊革にウイルスが付着してウイルスが他人の手に付き、その人が何気なく鼻や口、目を手で擦ると、ウイルスに感染する。いわゆる「接触感染」である。
人は1日何度も無意識に顔に手をやる。ウイルスは鼻や口、目の粘膜から侵入してくる。感染者の飛沫を直接浴びれば、頭髪や衣服にもウイルスが付着し、髪の毛や服を手で触ると、同じように接触感染する。
こうした接触感染を防ぐことができるのが、手洗いなのである。なにも手の荒れる消毒液を使わなくとも、蛇口から流れ落ちる水道水だけでも一定量のウイルスを流し落とすことができる。手洗いほど簡単な感染対策はない。
うがいも簡単な感染対策である。インフルエンザウイルスの大半は喉の細胞から侵入して感染していく。インフルエンザに感染したときに喉が炎症を起こして痛み出すことを思い出していただければ、よく分かると思う。
外出から帰ったら手洗いと同時にうがいをすることを忘れないでほしい。手洗いと同じようにうがい薬を使わなくても、水道水だけでもそれなりの効果はある。
■「サブクレードK」を正しく恐れる
ところで、12月5日の厚生労働省の発表によると、全国の定点医療機関(約3000カ所)から11月24日~30日の1週間に報告されたインフルエンザの感染者数は、1医療機関あたり44.99人だった。前週(51.12人)の0.88倍で、8月中旬以来、15週ぶりに減少に転じたが、依然と高水準が続いている。
今シーズンは、インフルエンザの流行のスピードがかなり速い。たとえば、11月10~16日の1週間に報告された感染者数が1医療機関あたり37.73人で、例年より1か月以上も早く「警報」の基準となる30人を超えていた。

国立感染症研究所によると、流行のスピードが速いのは「サブクレードK」(ウイルス系統樹の1つ)と呼ばれる感染力の強い変異ウイルスが新たに登場したからだという。
この変異ウイルスは、オーストラリアなどの南半球で流行った後に欧米で流行し、日本では今年6月に確認され、あっと言う間に広がった。新しい変異ウイルスといってもベースは既存のH3N2タイプのインフルエンザウイルスで、それが人の細胞により感染しやすい性質を獲得したか、あるいは少ないウイルス量で感染できるようになったのだろう。
いずれにせよ、抗インフルエンザウイルス薬は効くし、ワクチンも一定の効果があるので、そう恐れる必要はない。
■正月休み明けにピークを迎える恐れ
最近のインバウンドの急増もインフルエンザの流行の拡大に拍車をかけている。
今回11月24日~30日の1週間で前週比を下回ったとはいえ、感染のピークはこれからである。年末年始に都心から地方、地方から都心へと人が移動することでインフルエンザウイルスは日本全国各地にバラまかれる。その後、正月休みが終わると、小学校で大きな流行が起きて学級閉鎖が続くとともに感染が家庭から職場へと拡大して1月中旬ごろに感染がピークに達する。
ここで重要なことは、この感染のピークの山をできる限り低く抑えることである。山が大きくなって数多くの感染者が出ると、病院などの医療機関が対応できなくなる。薬剤の供給も不足する。そうなると、高齢者や持病のある健康弱者が命を落とす。
通常でさえ病院は医師や看護師が不足して余裕がないからなおさらである。
大きな支障が出るのは医療機関だけではない。交通、電気、ガス、水道、通信網などの社会インフラも麻痺しかねない。その意味でインフルエンザは「社会の病」である。
■「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」でいいのか
それにしても、なぜ簡単な感染対策ができないのか。一部の人々にとってはコロナ禍で苦しんだ経験も「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」なのである。これは人の性(さが)でもある。
前向きに言えば、人は忘れることで前に進むことができる。過去の出来事に捉われていると、新たな一歩を踏み出せない。苦しみを忘れ去らないと、落ち込むばかりだ。だが、苦難の日々を思い出すこともときには必要だ。
3密(密閉、密集、密接)の回避やソーシャルディスタンス(社会的距離)の確保を守った新型コロナウイルスとの戦いの日々を思い出し、マスク、手洗い、うがいと個人個人が簡単にできる基本的感染対策をみんなで押し進めたい。なかでもマスクの効能・効果は、ウイルス学者の河岡義裕さんの手で証明されている。
 「インフルエンザは社会の病だ」と前述したが、より多くの人が感染対策を実行することで社会の機能が保たれる。逆に言えば、感染対策を行う人が少ないと、社会がその機能を失い、結局は個人が痛い目に遭う。      

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木村 良一(きむら・りょういち)

ジャーナリスト・作家

日本記者クラブ会員。三田文学会会員。日本臓器移植ネットワーク倫理委員会委員。日本医学ジャーナリスト協会理事。元産経新聞論説委員。元慶大非常勤講師。1956年生まれ。慶大卒。慶大新聞研究所(現メディア・コミュニケーション研究所)修了。2002年にファルマシア医学記事賞を、2006年にファイザー医学記事賞を受賞した。著書に『移植医療を築いた二人の男』(産経新聞社)、『臓器漂流』(ポプラ社)、『パンデミック・フルー襲来』(扶桑社新書)、『新型コロナウイルス』(扶桑社)、『日航・松尾ファイル』(徳間書店)などがある。

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(ジャーナリスト・作家 木村 良一)
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