NHK「ばけばけ」では、小泉八雲がモデルのヘブン(トミー・バストウ)が怪談を熱心に聞き入るシーンが描かれている。史実の八雲は、なぜ怪談に魅了されたのか。
ルポライターの昼間たかしさんが、文献などから読み解く――。
■「怪談を愛し、セツと結婚した理由」が詰まっていた
NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」第12週は、いよいよ怪談の話題に入ってきた。大雄寺を訪れたヘブン(トミー・バストウ)は、住職(伊武雅刀)から、大雄寺に伝わる怪談「水あめを買う女」を聞かされて思わず号泣。トキ(髙石あかり)は、自分も怪談好きであり、もっと聞かせたいという思いを抱くようになった……。
この号泣シーンには、「小泉八雲が怪談を愛したワケ」、そして「妻・セツとの結婚へと至った理由」が存分に詰まっていた。「水あめを買う女」は広く知られる怪談話のひとつ。お産間近で死んで葬られた母親が、土の中で生まれた子供のために幽霊となって飴を買いに来るという話である。
だが、この話を単に「母への思慕」という情緒的な言葉でまとめてしまうと、八雲の内側で起きていた断絶の深さを見誤る。
八雲の父チャールズ・ブッシュ・ハーンは、軍医として赴任したギリシャ・レフカダ島で、現地のギリシャ人女性ローザ・カシマティと結婚している。
ここで重要なのは、これは単なる国際結婚ではなかったという点だ。
19世紀半ばのイギリス帝国と、オスマン支配の記憶を色濃く残すギリシャの正教世界。この二つのあいだには、現代の感覚で想像する以上に、深い溝があった。

■「ギリシャ人の母」には過酷だったアイルランド生活
宗教が違う。死生観が違う。家族観が違う。そして「母」という存在の意味そのものが違う。
ここで注意したいのは、これを現代的な「多様性」という軽い感覚で捉えてはいけないということだ。今でこそ、ギリシャもイギリスも同じEU圏。飛行機なら数時間で移動できる「同じヨーロッパ」である。
しかし当時は違った。父はその母親を、故郷であるアイルランド・ダブリンへと連れて行った。しかも、妻と幼い子供を置いたまま、自分は次の赴任地へと去っていったのである。結果として、ローザは孤立し、精神を病み、故郷へ帰ることになる。
八雲に関する書籍では、この経緯を「異教徒であったこと」「気候になじめなかったこと」と、比較的あっさり記すものも多い。

しかし当時の状況を踏まえれば、これは極めて残酷なことだった。ハーン一族は国教会の信徒であり、アイルランド社会の多数派はカトリックだった。宗教は単なる信仰の違いではなく、身分や帰属を分ける境界でもあった。その中で、正教会という第三の信仰は、生活の感覚からして大きく隔たった存在だった。
■「宗教観の違い」に精神を病んだ母
週末の礼拝ひとつとっても違いは明白だ。カトリックや国教会では、比較的簡素な内装の教会で、質素な祭服をまとった司祭が祈りを捧げ、パイプオルガンの音色に合わせて賛美歌が歌われる。一方、正教会の礼拝は、蝋燭の光が反射するイコン(正教会で信仰の対象として崇敬される聖画像。生神女マリアや聖人が描かれる)に彩られた聖堂で、香が焚かれ、鮮やかな祭服をまとった司祭とともに執り行われる。
とりわけ大きく異なるのは、日常に根ざした宗教観だ。
現在でもギリシャ正教の世界では、人々は日本人がご先祖のために手を合わせるような感覚で死者のために祈り、家庭や聖堂に置かれたイコンの前で祈りを捧げる。また、地域にゆかりのある聖人は、日本の地元の神社に親しみを抱く感覚に近いかたちで崇敬され、日々の生活の中で名を呼ばれる存在だ。
現代でこそ、多様な文化があることは情報として誰もが当たり前に知っているが、19世紀のアイルランド・ダブリンの感覚では、異様な信仰・常識・価値観にしかみえない。
なにより、彼女は英語をまったく話さなかった。一応は、ギリシャ語を理解するメイドを雇ったりしたものの、十分とはいえず、ローザが精神を病んだのも当然であった。
■八雲とは生き別れになった
そんな中1854年に父・チャールズは自ら希望してクリミア戦争に出征。その間、八雲の弟・ダニエルも生んでいたローザは、休養をかねて里帰りしてはといわれて実家に帰されたのである。
実のところチャールズが出征を希望したのも、離婚をスムーズにすすめるための手段だったということだろう。ローザもまさか、そのまま離縁状を叩きつけられて、二人の息子と生き別れとなるとは思っていなかった。
八雲の息子・一雄の『父小泉八雲』(小山書店1950年)では、離婚から1年ほどしてローザは息子を取り返すためにダブリンにやってきたが、会うこともできずに帰ったとある。その後、彼女はキシラ島出身のイタリア系男性ジョヴァンニ・カヴァリーニと再婚し、4人の子供をもうけた。彼はイオニア諸島のオーストリア=ハンガリー副領事を務める地元の名士だった。
しかし、ローザの精神状態は回復せず、1872年3月、49歳の時にコルフ島の精神病院に入院。そのまま10年間を病院で過ごし、1882年12月12日、59歳で生涯を閉じた(Kythera Family Net “Notable Kytherians - Levkadios Hearn”による。1953年7月13日付でコルフ島国立精神病院の記録係Spyro Stephから八雲の弟ジェームズの孫娘Mrs. Bebowに送付された証明書に基づく)。

■八雲の母への思慕は増していった
八雲が生涯母を慕いながらも、一度もギリシャに赴かなかったのは、なぜだろうか。母は既に再婚して新しい家庭があると聞き及んでいたのか。あるいは、母の居場所すら正確には知らされていなかったのかもしれない。
母を冷酷に追いだした父には生涯会うことがなかった八雲だが、その父の親族には母の写真が一葉でもないかと訊ねた手紙も残っている。その思いの強さが溢れ出た八雲の言葉を一雄は次のように記憶している。
「もしあの酷いのパパさん私を訪ねて参りましょうならば、私、さようならいいます。私玄関から『往んでくれ、もう来るだない』(出雲弁)と叫びましょう。ああ、ただし、もし私のDear Mammaさんが参りましょうならば、おお私なんぼう喜ぶ。心から『よくいらっしゃいました』をするでしょう」とある晩、食後の歓談中に漏らし、私は思わず瞠目したことがあった。

八雲の怒りは父親の係累すべてに及んでおり、八雲が名を上げてから盛んに手紙を送ってくるようになった異母妹たちにも「敵の片割れ」と憤慨しているほどだった。一方で、母への思慕は歳を重ねるほどに増していたのだろう。
■「痛み」を通じてのみ感じられる、母の存在
八雲が生涯求め続けたもの。
それは単に「母」という個人ではなく、母が体現していた世界観そのものだった。
正教の世界では、死者は消え去るのではない。生者のそばにいて、祈りを受け取り、守護する存在として生き続ける。聖人たちは遠い天上の存在ではなく、日常の中で名を呼ばれ、頼られる身近な存在だ。
そして、イコンは、聖なる世界とこの世界を繋ぐ「窓」の役割を果たす。西洋絵画のように「こちら側から向こうを覗く」のではなく、向こう側からこちらを見ているように描かれ、そこから常にまなざしを向けていることを伝えている。これは、カトリックの制度的な聖性とも、近代プロテスタントが強めてきた合理的信仰観とも異なる、もっと直接的で情緒的な世界である。
八雲にとって母は、顔も思い出せないほど僅かな記憶にしかない。だから八雲は、幾度もこんな思い出を語っていたという。
「私幼いの時、一日大層悪戯しました。ママさん立腹で私の頬を撃ちました。その時ママさんの顔をよくよく見ました。
大きい黒い眼の日本人のような小さい女でした。痛さのため、ママさんの顔覚えました」

だが、八雲は母の顔を覚えてなどいなかった。「よくよく見ました」「覚えました」と繰り返し語りながら、実際には何一つ思い出せない。覚えているのは「痛さ」だけ。その痛みを通じてのみ、母の存在を感じ取ることができる。
■“ギリシャの魂”を日本で感じたか
八雲が親族に母の写真を執拗に求めたのも、この理由だった。顔が分からない。確かにそこにいたはずの母が、記憶の中で像を結ばない。だから写真という物質的な証拠が、どうしても必要だった。
しかし同時に、八雲が感じ取っていたものがある。それは、自分は足を踏み入れることのできないギリシャの魂の部分だった。顔は思い出せなくても、母が語って聞かせたであろう物語の構造。死者が生者のもとを訪れる世界。聖人が見守る世界。イコンを通じて聖なるものが現前する世界……その感覚だけは、確かに八雲の内側にあった。
そして、その空白を埋めたのが、日本だった。
八雲が日本で出会ったのは、まさに失われたギリシャ正教の世界観と同じ構造を持つ世界だった。死者は消え去らず、盆には帰ってくる。祖先は常に見守り、祈りを受け取る。地蔵や稲荷は、ギリシャの聖人のように、日常の中で名を呼ばれ、頼られる存在だ。
そして、怪談。
ドラマでヘブンが「水あめを買う女」を聞いて号泣するシーンは、史実に基づいた創作だ。この創作は、実際の八雲が「死者が愛する者のために戻ってくる」物語に、深く心を動かされていたことを感じたからこそ、生まれたといえる。怪談の物語の構造が、まさに八雲が失った世界観そのものだったからだ。
■母が子に語る、寝物語の構造
死んだ母が、土の中で生まれた我が子のために幽霊となって飴を買いに来る。これは単なる「怖い話」ではない。死者が愛する者のために戻ってくるという、八雲が生涯求め続けた世界観の物語だった。
八雲にとって怪談とは、「母の声」そのものだったのである。
そして、その怪談を語ったセツこそが、八雲にとって失われた「母」そのものだった。
セツは学のある語り手でも、文学的な構成者でもない。だから、彼女の語る怪談には、西洋文学のようなオチも、明快な説明も、道徳的な教訓もない。ただ「そういうものです」で終わる。
これは、まさに母が子に語る寝物語の構造そのものだった。
八雲は日本語が不得意だった。セツも英語を自在に操れたわけではない。二人の間で交わされる言葉は「ヘルンさん言葉」と呼ばれる、二人だけで通じる独特の言語となるほどだった。
通常なら、これは深い意思疎通を妨げる致命的なものになってしまう。だが、八雲とセツにとって、この不完全さこそが救いだった。
■失われた「母の声」を求めて
言葉が足りなくても、相手は待ってくれる。うまく説明できなくても、理解しようと耳を傾けてくれる。沈黙が訪れても、それは拒絶ではなく、次の言葉を探す時間として許される。誤解が生じても、それで関係が壊れることはない。
他者への無理解。そして言葉の不完全さが、愛する者を引き離す。八雲は、母の悲劇を通じてそれを誰よりも知っていた。
八雲が卓越した文学者だったからでもなければ、セツが英語習得に優れていたからでもない。二人がお互いを必要として、必死だったからこそ、怪談は生まれたのである。
八雲が求めていたのは、完璧な翻訳者ではなかった。求めていたのは、失われた母の声。暗闇の中で、優しく物語を語ってくれる、あの声だった。そしてセツは、その声になったのであった。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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