一人ひとりの個を尊重し、様々な価値観を共有する多様性が重要視されている。中央大学教授の岡嶋裕史さんは「みんな違ってみんないいという社会へ移行したことは歓迎している。
だが、やりすぎてしまうと、健全とはいえない社会を形成してしまう」という――。(第1回)
※本稿は、岡嶋裕史『子どものSNS禁止より、大人のX規制が必要な理由』(光文社新書)の一部を再編集したものです。
■「三丁目の夕日」の時代からの移行は歓迎だが…
皆さまご存じのように戦後の社会は、みんなだいたい同じ価値観を共有している社会*(「大きな物語の社会」)から、みんな違ってみんないいという社会(「ポストモダン社会」)へと移行していきます。

※みんなだいたい同じ価値観を共有している社会:古い用語で恐縮だが、「大きな物語の社会」とここでは表現する。詳細をお知りになりたい方はリオタールにあたるのがよいと思う→『ポスト・モダンの条件』。同書では、異なる言語ゲーム(ルールや世界観)の間で生じる対立が、共通の基準では解決できないことが、すでに指摘されている。同書を読み解くときは、「対立を煽っているわけではなく、違う世界観の人も尊重する」「なんでも等価値(極端な相対主義)と言っているのではないが、共通基準では裁けない対立がある」という主張であることに注意するとよいと思う
最初に態度表明しておくと、私はこの移行を歓迎しました。大きな物語の社会は、結束感があるとか安心感があると言えばポジティブに聞こえるのですが、同調圧力の強い社会で、その価値観に沿う生き方を強制されました。
私も「男の子は体育ができなきゃ価値がない」とかさんざん言われて凹(へこ)みましたし、ちょっと価値観から外れたことをすると父親や教諭によくぶん殴られました。ノスタルジーとしての『ALWAYS 三丁目の夕日』的なコンテンツはありだとしても、本気であの時代に戻りたいと思ったことはありません。
■「みんな違ってみんないい」の誤算
技術者はもともとフラットな組織や生活が好きな人が多いので、こうした移行を後押しするツールとしてのフラットなネットワーク(インターネット)やワールドワイドウェブ(www*)という表現装置、ブロックチェーンを作ってきたとも言えます。多くの人にとっても、基本的にはこの移行は歓迎だったと思うのです。


※ワールドワイドウェブ(www):ハイパーリンクによって情報(ウェブページ)同士を結びつけ、インターネット上に分散する情報に容易にアクセスできるようにしたしくみ。インターネットを普及させるきっかけにもなった
ただ、誤算がありました。「みんな違ってみんないい」への過度な期待です。
「みんな違ってみんないい」状態を多くの人はユートピア的に捉えました。「みんな違ってみんないい」ので、自分の居場所が確保されていそうに思えます。「居場所がない」は人間の根源的な恐怖ですから、様々な属性や能力によらず居場所が与えられるのであれば、歓迎ムードになります。
■「新幹線の豚まん」に誰も注意できない
しかしそれは、自分にとって嫌な奴や嫌な考えにも居場所があるということです。いきなり排斥されるリスクは小さくなりましたが、嫌な奴が隣の席に座るリスクも大きくなりました。
新幹線には優雅に乗りたい、乗車時間はイコール読書時間だ、などと考える人にとって、隣席に強烈な旨味を放つ豚まん喫食者が座ったら移動時間は地獄と化すかもしれません。でも、「ふざけるな、遠慮しろ」とは言えないでしょう。「みんな違ってみんないい」ので。
これが大きな物語の社会であれば、偉い人や社会規範が「豚まんの匂いは強すぎると思うよ」とか、「食事は自由でしょう。

そのくらいは社会通念上、受任しなければならない匂いでは」と調停してくれるかもしれません。自分の思い通りの裁定にならなくても、「これが社会のルールか」と納得しやすいでしょう。少なくとも、同じルールがみんなに課されるわけですから。
ところが、「みんな違ってみんないい」社会は、権力への信頼が失墜した社会でもあります。「一人一人が違うことを考えている」のが「いい状態」なので、権力者の鶴の一声で何かが調停されるのは「正しさ」にそぐわない気がします。
「豚まんを食べるな」と言えば、豚まん愛好家が軽んじられ平等でなくなりますし、「他人の食事くらい我慢しろ」となれば個人が快適に移動する権利を侵害される気分にもなります。
■ネット、SNSの拡大で失墜した権力と学力
そもそも権力への信頼感がないのです。インターネット、ウェブ、電子掲示板、SNSなどのコミュニケーションツールや、情報蓄積基盤としてのデータウェアハウス、ウィキペディアの存在が個々人の情報運用能力を極端に向上させました。
経年での政治家の発言のぶれもすぐ検証できますし、品行方正な発言をしているあの人が酒の席ではずいぶん乱れてるじゃないか、といったことも可視化しました。
学問も失墜しました。「みんな違ってみんないい」ので、自分の頭で考え、独自の意見を持つことがよしとされました。もちろんそれ自体は素晴らしいことです。
丸暗記の詰め込みは剥落(はくらく)学力とも言われ、学校を終えたらほとんど忘れてしまいます。
VUCA(Volatility〈変動性〉、Uncertainty〈不確実性〉、Complexity〈複雑性〉、Ambiguity〈曖昧性〉)と言われる激動の現代社会を生き抜くのに、「自分の頭でよく考えましょう」は必須です。
でもやりすぎると、「自分の頭で考えたことが至高」の気分になってしまいます。実際、学生さんでも増えました。「それは科学的な観点から否定できると思うよ」と言っても、「でも、私はそう思い、結論したんです。これが私の正解です」となります。
■「自分の頭で考える」の意味とは
座右の銘などであれば他者の意見に左右されない様は、「しっかりした自分を持っていて偉いね」と頼もしく感じるかもしれませんが、間違った知識や論理を「自分で考えた意見だから、貴重で大事にすべきだ」と捉えてしまうと学問を修めるところからは遠くなってしまいます。
「自分の頭で考える」は決して「他人の話を聞かない」とイコールではありません。むしろ科学は先行研究を重視しますので、言葉を換えれば「他人の頭を使う」ことを大事にしてきたわけですが、それをせず自分の好きな考えだけを吸収するエクスキューズにしてしまっている人もいるわけです。
たとえば大学のようなところには硬直性や不合理性があって、それは批判されるべきなのですが、「みんな違ってみんないい」にのっかる形で、科学的事実に反しても、自分の考えなのだからそれを大事にするという態度が一定の閾値(いきち)を超えてしまうと、個人や社会にとってあまりいい状態ではなくなります。
■専門家の意見さえも疑う危うい社会
こうした社会では詐欺やデマも成立させやすいです。「自分の頭で考えて=権威者の考えを捨てて」と誘導し、では今目の前にある情報(偽情報です)をよく見て、自分で考えてみてくださいと促します。
どんな「自分の考え」に至るかは、予め設計されています。
これは21世紀に大きく波及した現象です。昔から三人寄れば文殊の知恵といい、みんなでよく考えれば一人の専門家の能力を超えられるとも言います。これら集合知に期待して作られたものの一つがウィキペディアです。情報技術によって市井(しせい)の一人一人が世界に対して意見を言い、知識を発信できるようになれば、社会はずっとよくなると考えられていました。
基本的なアイデアは間違っていないと思います。しかし、それゆえに専門家の意見に重きを置かなくなりすぎているのが現状です。たとえばワクチンや社会保障に対する反応などにそれを見て取ることができます。
私自身が仕事柄、専門家の側とされることもあるので、身びいきな意見であると捉えられるのは仕方がありません。ですが、私など足下にも及ばない専門性と高度な知見を有する研究者の意見まで頭から否定する場面に直面すると、ちょっと危ういなと思います。
■はなから情報を疑う行動は健全ではない
専門家だから、肩書があるから、その人の言うことを信じろというのはよくありません。それに対して、門外漢であっても異論を述べたり反対したりする権利や行動は極めて重要です。

「知識のないものは喋るな」、そんな社会は良いものではありません。しかし、「専門家は既得権益側なので嘘しか言わない」「専門家は必ず政府から金を受け取っている」と最初から退けてしまう状況もまた健全ではないです。
少なくとも数年~数十年にわたってその分野で知見を積み重ねてきた人たちなので、話を聞いて評価するまではしたほうがいいと思います。
ワクチンや社会保障制度を理解して有効な意見を差し出すには長い年月を要します。でも、YouTubeで1時間ほど動画を眺めると、専門家も知らない世界の裏側の真実を知った気分になることができます。
■権威者を批判することが価値のある娯楽に
なぜこのような現象が起こるのか、私はまだ答えを出せていません。ダニング・クルーガー効果*やシグナリング理論*で説明されることが多いですが、Xで起こっていることはそれとはやや違うと考えています。

※ダニング・クルーガー効果:能力が低い人ほど、自分を過大評価しがち。逆に能力の高い人ほど、自分を過小評価しがち

※シグナリング理論:敢えてコストのかかる行動(シグナル)を見せることで、自身の隠れた能力や情報を相手に伝えること
権威者を批判することは娯楽として楽しく、昔から親しまれているものです。特に社会の成熟が進み枠組みが固定され、上位の社会階層にステップアップする(成り上がる)ことが困難に感じられる状況や層にとっては価値の高い娯楽です。
ですが、「みんな違ってみんないい」「集合知の力」が適用されて、たとえばその疾病に対して有効であり、比較考量の結果メリットのほうが大きいと結論づけられているワクチンを「打たないのが正義」だという民意が形成されると、社会へのダメージは大きなものになります。

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岡嶋 裕史(おかじま・ゆうし)

中央大学教授

1972年東京都生まれ。

中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程修了。博士(総合政策)。富士総合研究所勤務、関東学院大学経済学部准教授・情報科学センター所長を経て、現在、中央大学国際情報学部教授、中央大学政策文化総合研究所所長。『プログラミング教育はいらない』『大学教授、発達障害の子を育てる』『メタバースとは何か』『Web3とは何か』『ChatGPTの全貌』『ハンディ版 70歳から愉しむスマホとLINE』(以上、光文社新書)など著書多数。

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(中央大学教授 岡嶋 裕史)
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