結婚も就職も価値観が多様化し、自由に選べる時代となった。中央大学教授の岡嶋裕史さんは「現代社会は、生き方を自分で決めなければいけない社会でもある。
実は、多様性はユートピアではなく、かなりしんどい状況だ」という――。(第2回)
※本稿は、岡嶋裕史『子どものSNS禁止より、大人のX規制が必要な理由』(光文社新書)の一部を再編集したものです。
■「自由で多様な社会」は実はめんどくさい
私たちは風通しの悪い、古い因習からの脱却を目指しました。閉塞・固定した価値観から多様性へ。個人は尊重され、自分の人生を自分で選択できるようになりました。情報技術もこれに手を貸します。
単一の情報をブロードキャストするテレビ、ラジオから、インターネット上に星の数ほどもあるウェブページやブログ、Xへ。
数え切れないほどの人が、信じられないほど様々な活動をしている様子を見て、自由な時代を生きていることを実感します。
しかし、自由は責任もともないます。能力も要求されます。誰か(家父長でもなんでもいいです)に指示されてしぶしぶそれに従うのは、窮屈で死ぬほど嫌なことですけれども、いっぽうで何も考えなくても他者が進路を決めてくれたり、人生のステージを勝手に進めてくれたりします。うまくいかなくても、自分ではなく、自分に指図をした人のせいにして溜飲(りゅういん)を下げることもできるでしょう。

自由で多様な生き方が許される社会では、生き方を自分で考えて自分で決めなければなりません。めんどくさいです。何かを決めるのは怖いことです。なかなか決断できず就職や結婚の時機を逸した人も多いでしょう。仮に就職に成功したとしても、うまくいかなかったとしても、常に他の人と比べて自分の人生はそれなりなのか、そうでないのかが気になります。
■他者との比較合戦は地球規模になった
支払った努力や我慢ほどには人生がうまく転がっていなかったり、他人より損していたりしたらがっかりします。これは多くの人にとって重要事項です。人類はこの「他者との比較」に、その活動の全期間を通じて苦しめられてきたとも言えます。
でも、比べられる範囲には限りがありました。それがインターネットやウェブやXで世界中の人と比べられるようになってしまいました。
みんなマウントを取るのが大好きですから、X上でキラッキラしている人の投稿など、かなりの割合で盛ったことが書いてあるでしょう。それに気づかず彼我(ひが)の差に愕然として心を病む人も、自分も盛りに盛った投稿をすることでマウントを取る側に回る人も、盛った投稿という虚偽に我慢できずそれを暴く「正義」を執行することに時間を費やす人も、いました。

この世界規模での他者との比較合戦には終わりがありません。比べる対象は雨後の筍(たけのこ)のように無尽蔵に湧いてきます。みんなが参照する価値観が収斂(しゅうれん)していて、「あの水準に達すればまあ満足」「権威者に承認されることで安心」といった社会とは異なり、生きる意味は自分で見出し、獲得し、自分で自分を慰撫(いぶ)してあげなければなりません。
そこに到達する方法はいくらでもありますが、どれも簡単ではありません。
■終わりの見えないマウント合戦
経済的な側面はどうでしょうか。年収1000万円を獲得すれば安心でしょうか。でも、老後資金に2000万円を貯めておかなければ熟年破綻(はたん)するという情報も漏れ伝わってきますし、インフレも激しくなると言われています。
では年収2000万円を目指せばよいのでしょうか。しかし、シリコンバレーでは年収2000万円でも貧困層扱いされると書かれたポストが目に入ります。世界中を相手にする情報戦でこれを繰り返していれば、きりがありません。
そもそも流れている情報が嘘か本当かもわからないのです。こうした状況下で満足を得るには、死ぬほど運に恵まれて大金持ちにでもなるか(それでも上には上がいそうです)、仙人のような境地に至ることが要求されます。

でも、視線をサイバー空間に向ければ、別の可能性が広がっています。他人からの称賛です。他人からの称賛は圧倒的な悦楽です。上司から労(ねぎら)われるよりも、給与のベースアップよりも強烈な快楽です。「聖テレジアの法悦*」だってかなわないかもしれません。

※「聖テレジアの法悦」:ベルニーニの代表作。天使に心臓を矢で貫かれ、苦痛と甘美さが渾然とする宗教的恍惚(……と言われる)の頂点を表す石像
■「いいね」は居場所と安心感の源泉
しかも町内会で褒められるのとはわけが違います。100万人、1000万人の人が自分の投稿を見てくれたり、「いいね」をしてくれたりするのです。1000万人の人が自分を承認してくれるのです。その瞬間、絶対的な安心感が胸に広がります。
実際のところ、現代人にとって、このXでの万バズ*や「いいね」は居場所と安心感の源泉であり、活動の駆動原理になっています。

※万バズ:投稿が1「万」回以上共有や「いいね」されること。

バズる(話題が爆発的に広まる)の中でも、特に大きな拡散、共感を得た指標
観光地で観光資源を見ずに写真に撮ってAIで補正するのも、次の日にはメルカリに出品するのにブランドアイテムを買ってくるのも、好きでもないサウナで整ってみせるのも、Xに投稿して社会に居場所を確保するためです。この活動に現代人は多くのリソースを割いています。
社会に居場所を確保する。勉強する。学校に入る。会社に入社する。結婚する。家を建てる。子どもを産み育てる。そうしなければならない。そんな価値観は崩壊しました。ありのままの自分でいい。
旧弊な「やらなければいけないこと」から脱却して、自由な人生を謳歌できるはずでした。
■「自由」を喜べるのは強い人だけ
でも、イエやムラを離れて個人になったからといって、「居場所を作る活動」から逃れられるわけではありませんでした。むしろ、いやいやながらも通っていた学校、会社、家庭といった場所がアプリオリに与えられるものでなくなったので、自分で居場所を見つけなければならなくなりました。人間にとって一番の関心事である役割、居場所、承認の獲得に、個人として正対しなければならなくなりました。
高校ではなくフリースクールでいいんです。だから、先生も親もどうしても高校に行けと尻を叩かないかもしれません。お見合いを勧めてくる親戚も壊滅したでしょう。もしそんな人に出会ったら古代種の生き残りとして博物館に収めても、ハラスメント事案で訴えてもいい気がします。選択肢は増え、窮屈さはなくなりました。でも、自分で考え、判断し、勝ち取るべきものは却って増えたと言えます。
自由だ! なんでも選んでいいんだ! と大喜びできる人は強い人です。考え、企み、実行し、達成することができます。
しかし、多くの人は考え続け、判断し続け、実行に挑んでも、成果を勝ち取ることはしんどく、かつ負け戦のほうが多いかもしれません。
自由だから何もしなくていいわけではなかったのです。何かしなければ干上がってしまいますし、おかしなことをしても、「あなたが考え、実行した結果」だからすべての責を負いなさいと言われます。
■お金持ちでも居場所は見つかるわけではない
学校でも、自分なりのオンリーワンの人生を楽しみ、何者かになるのが、この自由を謳歌できる社会における個人のゴールだと教えています。
教えている人は、「何者にもなれるのだ」と若年層に善意でバフをかけるのが動機だと思いますが、実際のところこの状況を歓迎できる才能、体力、強いメンタル、社会資本を持っている人は多くないです。自分の力で何者かになるための勝ち名乗りを上げねばならない社会はかなりしんどいと言えます。
でも、そうしないと居場所は与えられません。黙って学校や会社のエスカレーターに乗っていれば、それなりの椅子に座れた社会は遠くへ去りました。どんな人になるか選び、つかみ取らなければなりません。
苦労してつかみ取ったら、それをディフェンスする必要もあります。お金持ちになったら高額納税者として紹介され、褒められ、居場所がさらに強化される、というシナリオはなくなりました。価値観は多様です。お金を持っているぞと言えば、汚い儲け方をしたのだろうと勘ぐられるかもしれませんし、お金という旧態依然の価値に縛られた時代遅れの生きものと認識されるかもしれません。
自分の善性をアピールするためにボランティアをすれば偽善者と罵る人が出るでしょう。怖いから何もしないで引きこもると、「何もしていない」と批判されるでしょう。
■多様性の社会はかなりしんどい
多様な世界では、何かであることでは居場所が確保できません。「旧家の出です」と胸を張っても、「はぁ」と言われて終わりかもしれませんし、硬直した価値観の持ち主だと反感を持たれるかもしれません。
これは逆に、「旧家の出ではありません」と言ってもみんなに見下されるわけではないことも意味しますから、悪いことではないと思うんです。でも、根源的な欲求である「居場所の確保」のためにはかなり頭を使って自覚的に何かを成す必要があり、かつ価値観がばらけているがゆえに何かを成し(何者かになると言い換えてもいいです)ても、みんなに褒められるわけではありません。
そう、多様性はユートピアではなく、かなりしんどい状況だと思うんです。
たとえば、自分の変わった嗜好を受け入れてもらえる可能性は昔より高まりました。でも、それ以上に他人の変わった嗜好が視界に入って嫌だなと思ったり、苦しんだりすることのほうが多いでしょう。「いいこと」をしても、多くの人に褒めてもらえるような社会構造ではありません。
でも、多様性ってもともとそういうものだと思います。Xのせいでそうなっているわけではなく、もともとそういう構造です。ユートピアより地獄への距離のほうが近いかもしれません。人には好き嫌いがあって当然ですから、「みんなが違うこと」を許容するなら、気の合う奴よりは嫌な奴の数が多くなるのはことの道理です。

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岡嶋 裕史(おかじま・ゆうし)

中央大学教授

1972年東京都生まれ。中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程修了。博士(総合政策)。富士総合研究所勤務、関東学院大学経済学部准教授・情報科学センター所長を経て、現在、中央大学国際情報学部教授、中央大学政策文化総合研究所所長。『プログラミング教育はいらない』『大学教授、発達障害の子を育てる』『メタバースとは何か』『Web3とは何か』『ChatGPTの全貌』『ハンディ版 70歳から愉しむスマホとLINE』(以上、光文社新書)など著書多数。

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(中央大学教授 岡嶋 裕史)
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