江戸時代以来、豊臣秀吉の正室・北政所と側室・淀殿の「不仲」が通説とされてきた。国際日本文化研究センター准教授の呉座勇一さんは「北政所と淀殿の不仲説は後世の創作で、対立を裏付ける一次資料はない。
むしろ近年の研究で、両者の関係は通説とはまったく違うことが判明している」という――(第3回)
※本稿は、呉座勇一『真説 豊臣兄弟とその一族』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
■「淀殿=豊臣家を滅ぼした悪女」を覆す新説
従来の歴史叙述では、北政所(ねね)と淀殿(茶々)の不仲が強調されてきた。けれども、淀殿の出産が北政所の承認によるものだとすると、通説は再検討を要するだろう。
両者の不仲説は江戸時代の『絵本太閤記』に起源を持つ。同書は、北政所を秀吉の成功を支えた賢妻、淀殿を権勢欲が強く豊臣家滅亡を招いた悪女として対比的に描く。この枠組みは近代以降も、渡辺世祐や桑田忠親ら著名な歴史学者によって継承された。
特に、慶長4年(1599)9月の北政所の大坂城退去と、それに続く徳川家康の大坂入城は、淀殿の素行不良に反発した北政所が家康と提携した結果と解釈されてきた。
すなわち、秀頼への挨拶を名目に大坂に乗り込んできた家康に対し、北政所が大坂城西の丸を自発的に譲り渡したというのである。
しかし、不仲説は一次史料に基づく検証を欠いており、疑問なしとしない。近年の研究では、両者が豊臣家の存続を共通の目標として協力関係を築いていたことが指摘されている。
■秀吉の未亡人が示したリーダーシップ
豊臣秀吉の死後、豊臣家臣団の分裂が顕著となった。慶長4年閏3月の石田三成襲撃事件は、その対立が表面化した最初の危機だった。
伏見城内の自邸「治部少丸」に籠城した石田三成を、豊臣恩顧の武功派七将(加藤清正、福島正則ら)が包囲したのである。
武力衝突に至る恐れがあったこの大事件を、石田三成の引退という形で収拾したのは徳川家康であり、家康による豊臣政権掌握のきっかけと評価されている。けれども跡部信氏は、家康の活躍だけを特筆するのは一面的であると批判する。
公家の山科言経の日記『言経卿記』は「大閤政所(北政所)御無事」と記し、北政所による調停を明確に示す。北政所の役割は、両派の仲裁者としての中立性にあった。
ルイス・フロイスの報告書によれば、秀吉生前、北政所は朝鮮出兵を巡る講和問題で失脚しかけた小西行長を慰撫し、武功派(武断派)と吏僚派(文治派)の均衡を保つ姿勢を示していた。この経験が、襲撃事件の解決に活かされた。
もちろん北政所の調停は、家康、毛利輝元、上杉景勝ら大老衆が進めていた事件処理と無関係ではなく、むしろそれらを後押しするものにすぎなかっただろう。とはいえ、山科言経が北政所の貢献を特記した事実は無視できない。
■正室が「側室の子」の後見人に
不仲説の根拠とされる淀殿の素行問題とは、慶長4年9月に浮上した淀殿と大野治長(淀殿の乳母である大蔵卿局の息子)との密通疑惑である。毛利氏家臣の内藤周竹の書状によると、この疑惑が発覚し、家康と毛利輝元が大坂に留まることを決定したとされる(『萩藩閥閲録』)。
ただし家康が大坂に留まった真の理由は、前田利長(利家の嫡男)・浅野長政・大野治長らによる家康暗殺計画の噂が広まったことにある。
家康暗殺の噂に尾ひれがつく形で、密通疑惑も持ち上がったのだろう。渡辺世祐や桑田忠親は、淀殿の醜聞が北政所の大坂退去の原因であるとし、両者の不和を強調する。
だが、密通の真偽は不明である。朝鮮人捕虜の日本見聞録である『看羊録』には大野治長が関東に流され途中で殺されたとあるが、実際には治長は下総国結城に追放された後、関ヶ原合戦後に秀頼の側近に復帰している。また、大蔵卿局も追放されたと噂されたが、事実は京都近郊に留まり、影響力を保持していた。
重要なことは、北政所がこの疑惑を理由に大坂を離れたとする証拠がない点である。北政所の大坂退去は、淀殿との対立ではなく、豊臣政権の戦略的再配置として理解すべきであろう。
実は秀吉の最晩年の計画では、秀頼(と淀殿)を伏見から大坂に移し、秀吉と北政所は伏見に「隠居」することになっていた(『西笑和尚文案』)。北政所は秀頼を後見するため、彼に同行して大坂に移ったが、大坂城西の丸への長期滞在は予定外であった。
■すべては豊臣家存続のため
慶長4年9月に北政所が大坂を出たのは、家康の大坂入りを契機としつつ、秀吉を祀(まつ)る豊国社への参拝や京都新城(秀頼の京都における新たな拠点)の整備、朝廷との折衝など、京都における豊臣家の「公儀」(全国政権)としての威信を維持する役割に移行するためだった。北政所の京都移住は、淀殿との不和ではなく、豊臣家の二元的統治構造(京都・大坂)を支えるための淀殿との分担によるものだった。
翌慶長5年6月の北政所の大坂下向とそれに伴う大蔵卿局の赦免は、北政所と淀殿の協力関係を最も明確に示す事例である。
この時期、豊臣政権は家康の会津征伐をめぐって揺れ動いており、淀殿は秀頼の安全を確保するために動いていた。
浅野幸長(長政嫡男)の5月26日付の書状によると、家康が6月16日に大坂を出発して会津へ向かう意向を示すと、淀殿は家康を大坂に引き留め、家康の出陣を阻止しようとした(「坂田家文書」)。
家康という実力者が大坂を離れることで豊臣政権が求心力を失い、京・大坂周辺の治安が悪化することを恐れたのである。
■不仲説が間違いである理由
彼女は奉行衆を使者として家康に派遣しようとしたが、家康の不機嫌により失敗した。そこで5月27日、北政所が「秀頼様御見廻(見舞い)」を名目に大坂に下向し、家康との交渉を試みた(前掲「坂田家文書」)。
北政所は家康の説得(会津征伐中止)には失敗したが、大蔵卿局の赦免を勝ち取り、大蔵卿局は6月4日に大坂に戻った(『北野社家日記』)。一定の成果を得た北政所は京都新城に帰還した。大蔵卿局は前年9月の家康暗殺計画への関与を疑われて大坂を離れており、彼女の赦免は淀殿にとって重要な問題だった。
前述の通り、大蔵卿局は淀殿の乳母であり、秀頼の側近である大野治長の母として豊臣家の中枢に位置していた。彼女の失脚は淀殿の政治的基盤を揺さぶるものであり、その赦免に北政所が尽力したことは、淀殿への支援に他ならない。
以上のように、不仲説の根拠である淀殿の素行問題は真偽不明の流言であり、一方で北政所が大蔵卿局の赦免に動いた事実は、北政所と淀殿の連携を示す。北政所の大坂退去も、淀殿との対立の結果ではなく、北政所と淀殿の役割分担とみなすべきである。

■決死の「別妻」救出作戦
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦は、徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍の対決であり、豊臣秀吉死後の豊臣政権下での権力闘争の総決算であった。この歴史的転換点において、秀吉の正室である北政所(ねね)と秀頼生母である淀殿(茶々)が連携したことは、両者の不仲説を否定する重要な証左となる。
9月3日から14日にかけて行われた大津城攻防戦は、北政所と淀殿の協力が明確に現れた事例である。井
京極高次が籠城する大津城は西軍に包囲され、城内には秀吉の「別妻」で茶々の従姉(浅井長政の姉の娘)である松の丸殿(京極龍子)がいた。
北政所は侍女の孝蔵主を、淀殿は饗庭局(『譜牒余録』は海津局とする)と木食上人応其を使者として大津に派遣し、高次の降伏を促して松の丸殿を救出した(「関ヶ原御合戦之の時大津城責之覚」)。
開城に至る過程を仔細に見ていくと、両者の連携の深さが浮き彫りになる。北政所は9月7日に孝蔵主を大津城に派遣して開城を促したが、京極高次が降伏を拒否した。西軍による城外の放火が始まり、8日には西軍の総攻撃となった。
9月14日の攻撃で、大津城は二の丸まで落ちた。そこで北政所は孝蔵主と新庄東玉斎を、淀殿は海津局を再派遣し、高次を説得して開城にこぎつけた(『時慶記』『譜牒余録』)。この調停は、北政所と淀殿が豊臣家の血縁者を守るために一致団結したことを示す。
■北政所は本当に中立だったのか
不仲説によれば、北政所が東軍、淀殿が西軍を支持し、両者は対立したとされるが、8月29日、北政所は、近所にある禁裏(天皇の居所)が戦火に巻き込まれるのを避けるため、という名目で京都新城の石垣や櫓やぐらを破却した(『時慶記』『義演准后日記』)。
この城破りは、東西両軍のいずれにも与せず、中立を宣言する行為であった。
しかし北政所の甥の木下勝俊・利房が西軍に属しており、東軍から西軍寄りとみなされても不思議はなかった。大津城開城交渉にしても、京極高次の早期降伏が西軍有利に働くことを考慮すると、西軍への加担と解されかねない。実際のところ北政所は、中立を標榜しつつ、上方(近畿地方)を軍事制圧した西軍に肩入れしていたのだろう。
大津城開城の翌日、9月15日の関ヶ原合戦で東軍が勝利し、戦局は急変した。17日夜、北政所は後陽成天皇の生母である勧修寺晴子の屋敷に裸足で逃げ込んだ(『北野社家日記』『時慶記』)。北政所は、西軍への協力を東軍に責められるのではないかと恐れたのである。
■北政所が「東軍支持」と言われるワケ
不仲説の根拠とされる8月28日付の黒田長政・浅野幸長の小早川秀秋宛て連署書状は、自分たちの北政所への忠誠を強調し、秀秋に東軍への協力を促す内容である(「島根県立古代出雲歴史博物館所蔵文書」)。笠谷和比古氏はこれを、北政所が東軍を支持し、淀殿と対立していた証拠とする。
けれども右書状は、黒田らが自身の東軍参加を正当化し、秀秋を説得するために北政所の名を利用したもので、北政所が東軍を支持していた証拠とは言えない。秀秋は北政所の手元で育った養子であり、北政所との関係が深いため、黒田らは「政所様へ相つき、御馳走申さず候はでは叶はざる」と述べ、自分たちの家康への加担は北政所の意思に沿うものであると秀秋に訴えたのだ。
以上見てきた通り、北政所と淀殿は、東西両軍の対立の中、役割を補完し合いながら豊臣家の危機に対応した。
不仲説が前提とする両者の対立関係は、一次史料によって裏付けることができないのである。

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呉座 勇一(ござ・ゆういち)

国際日本文化研究センター研究部准教授

1980年生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。博士(文学)(東京大学)。著書『応仁の乱戦国時代を生んだ大乱』がベストセラーとなる。『戦争の日本中世史―「下剋上」は本当にあったのか―』で角川財団学芸賞を受賞。主な著書に『一揆の原理日本中世の一揆から現代のSNSまで』『頼朝と義時武家政権の誕生』『動乱の日本戦国史桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』『日本史敗者の条件』などがある。

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(国際日本文化研究センター研究部准教授 呉座 勇一)
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