「愛子天皇」待望論の高まりの背景には何があるのか。皇室史に詳しい島田裕巳さんは「前例のない三笠宮家の分裂も示すように、そこには皇室を円滑に運営することの現代における難しさが根底にある」という――。

■「女性天皇」を約7割が認めた世論調査
読売新聞社は、今年の9月24日から10月31日にかけて皇室に関する全国世論調査を郵送方式で実施し、今月14日にそれを公開した
この調査によれば、女性天皇を認めるかどうかについて、賛成が69%にのぼった。反対は7%である。同社では2022年にも同様に調査を行っており、そのときには、賛成が70%で反対は6%だった。悠仁親王が成年式を終え、公務をこなすようになっても、女性天皇を容認する国民の声にはほとんど変化がないことになる。
また、皇位の継承について、「女系も認める方がよい」が64%で、「男系を維持する方がよい」の13%を大幅に上回った。こうした女性天皇や女系天皇について、女性のほうが、それを肯定する意見が多かった。
一方で、将来、皇位継承が難しくなる不安を「感じる」が68%で、「感じない」が31%だった。その上で、安定的な皇位継承や皇族数の確保策について、国会ができるだけ早く結論を出すべきかどうかについて、「思う」が67%で、「思わない」が31%だった。
国民の多くは、これからつつがなく皇位が継承されていくのか、皇族の数が確保できるかに不安を持ち、その対策として女性天皇や女系天皇を容認していることになる。
■分裂を招いた三笠宮家の母子対立
そんななか、国民をさらに不安にしているのが三笠宮家の問題ではないだろうか。三笠宮家における母子の対立は深刻で、ついに、三笠宮家は分裂することになった。

昨年11月には、三笠宮家の百合子妃が101歳で亡くなったことで当主が不在になっており、その後を孫の彬子女王が継ぐことになった。そして、彬子女王の母であり、2012年に66歳で亡くなった寛仁(ともひと)親王の妻である信子妃は、三笠宮家を離れ、三笠宮寛仁親王妃家を創設することになった。「親王妃家」は今回初めて生まれたもので、過去には例がない。
寛仁親王が亡くなった際には、寛仁親王家は当主が不在になり、信子妃、彬子女王、瑶子女王は三笠宮の本家に合流した。その後、三笠宮家の当主であった崇仁(たかひと)親王と百合子妃が相次いで亡くなり、今回のような事態が生まれたのである。
ただ、これまでは、親王が亡くなった後には、親王妃が当主を継承することになっていた。それに従うならば、信子妃が当主になり、そこに2人の娘が含まれるはずである。
ところが、母と娘たちとの間には確執があり、彬子女王も、「10年以上きちんと母と話をすることができていない」と雑誌に寄稿した記事の中で述べていた。一方、信子妃は、皇族費を月に10万円しか受けとっていないと訴えていた。そこで、今回のような異例の事態が生まれたのである。
■親しまれた「ひげの殿下」の夫婦破綻
三笠宮家の長男として生まれた寛仁親王は、国民の間で「ひげの殿下」の愛称で親しまれ、障害者福祉やスポーツ振興など幅広い公務に積極的に取り組んでいた。しかし、1990年代以降は、癌や重度のアルコール依存症で苦しんでいた。

そのことについて、皇族として果たさなければならないことと、自分が本当にやりたいこととの間にギャップが生じていたことが大きなストレスになったと言われている。だが、それに追い打ちをかけるように、夫婦仲の悪化も起こっていたのである。
寛仁親王が信子妃を見初め、最初に結婚を申し込んだのは、信子妃が16歳のときだった。今は、男女とも結婚できるのは18歳からだが、2022年3月末までは、女性は16歳から結婚できた。その点では結婚も可能だったが、信子妃が高校生だったこともあり、実際に結婚したのはその8年後だった。
寛仁親王は信子妃にかなり熱を上げたことになる。結婚後も2人でテレビのバラエティー番組に出演したりしていた。けれども、寛仁親王の病や、アルコール依存症に対する治療の問題で夫婦の間に対立が生まれ、さらには信子妃のほうもストレス性喘息になり、2004年以降は別居状態となった。
■皇族にとって難しい離婚という選択
彬子女王や瑶子女王からすれば、寛仁親王が癌やアルコール依存症で苦しみつつ公務をこなしているにもかかわらず、信子妃はそれを置き去りにして別居した上、公務についても病気の療養を理由に休止していたことが納得できなかったようだ。
そのため、寛仁親王が亡くなった際に、信子妃はそれを看取ることはなく、また、亡くなった後の儀式にも参列しなかった。三笠宮家の関係者は、娘2人がもともと「パパっ子」で、その絆は別居後により強いものとなったと指摘している。娘たちには、「病気のお父さまを置いて、家を出てしまうなんて」という気持ちがあったようだ(『女性自身』2012年6/26号)。

夫婦は、いくら強い愛で結ばれたとしても、もともとは他人であり、その関係を良好なものに保つのは難しい。まして寛仁親王の場合には皇族の一員であり、その立場は一般の国民とは大きく異なっている。離婚ということも選択肢の一つだが、少なくとも戦後、皇族が離婚した例はない。
戦前になると、皇族の結婚や離婚は天皇の許可を要する事柄であり、戦後以上に難しかった。戦後に皇籍離脱した旧宮家の人間が離婚した例はあるが、近代になってから皇族が離婚したことはない。
■母子の確執に存在する背後の影
しかし、こうした三笠宮家における母と娘の確執の背後には、寛仁親王とその父である崇仁親王との間の考え方、思想の違いということが、実は影を落としているのではないだろうか。
天皇家に生まれた親王であれば、皇位を継承することが将来に待ち受けている。ただ、天皇家でも弟ということになると、その可能性は低くなる。崇仁親王は、昭和天皇の4人の兄弟の末弟である。自身が天皇に即位することなど、生涯考えなかったであろう。
その点で、崇仁親王は自由な立場にあり、戦前は軍人として、戦後は学者として主に活動した。軍人として経験があったことから、日本軍のあり方には批判的で、著書の中では「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた」と述べていた。
痛烈な批判である。
そうした姿勢は、学問を続け、科学的、実証的な立場を取ることでよりいっそう強まった。皇室の閉鎖性を表すものとして「菊のカーテン」という表現があるが、崇仁親王はその言葉を最初に使った一人であると言われる。
「建国記念の日」制定の運動に対しても、著書の中で、それが戦前の紀元節の復活に通じるとし、国粋主義的な動きを警戒する見解を示していた。崇仁親王は戦後、一貫して「リベラル」な立場を取り続けたのである。
■リベラルな父に対する息子の真逆な姿勢
崇仁親王が女性天皇や女系天皇について自らの見解を発表したわけではない。ただ、そのリベラルな姿勢からすれば、それを容認する国民の声に耳を傾けた可能性は高いのではないだろうか。
それに対して、寛仁親王の場合には、むしろこの問題に対して伝統を重視する保守の立場に終始した。自らが会長を務める福祉団体の会報では、私的な見解と断った上で、女系天皇に反対し、旧宮家の皇籍復帰を主張していた。しかも、可能性は低いとしつつも、側室制度の復活さえ提唱していた。
その際に、「万世一系、125代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代神武天皇から連綿として一度の例外も無く、『男系』で続いて来ているという厳然たる事実」があることを強調していた。小泉内閣の時代に、有識者会議が「女性天皇・女系天皇」を容認する答申を行った時期にも、寛仁親王は、インタビューで同様のことを述べていた。

私には、寛仁親王がこうした発言を行った背景には、リベラルな方向に傾いた父、崇仁親王に対する反抗の姿勢があったように感じられてならない。リベラルな姿勢を取るなら、神話とそこに登場する神武天皇は架空のものとして、その価値は否定される。それは、皇族を皇族たらしめている基盤を突き崩すことに通じる。寛仁親王は、それを怖れ、父親とは真逆の姿勢を取ったのだ。
あるいは、そこには皇室の中でも、三笠宮家が傍系であったことが影響しているのかもしれない。天皇家であれば、あえて自分の家の出自を強調する必要もない。だが、傍系となると、往々にして、自らの正統性を誇示したくなるものである。
■皇室に嫁いだ人と皇室に生まれた人の違い
伝統重視の姿勢は、娘の彬子女王に確実に受け継がれている。母親の信子妃としては、皇室の外から来た人間であり、夫や娘のような考えを受け入れることが難しかったのではないだろうか。
もちろん、それがすべてではないにしても、皇室をどのように捉えるか、もともと皇室に生まれた人間と、そうでない人間とではどうしても考え方に違いが生まれる。その点では、崇仁親王は皇族として特殊だったのかもしれない。
愛子内親王が、こうした三笠宮家の問題をどのように捉えているかはわからない。
当然、それについて発言することは、これからもないであろう。
同じ皇室に属しているとはいえ、愛子内親王と三笠宮家の人々との距離は遠い。信子妃とは6親等離れていて、彬子・瑶子女王になれば7親等も離れている。共通の祖先は大正天皇まで遡らなければならない。民法では、親族は6親等以内であり、7親等では親族にならない。
■象徴としての天皇家に求められる調和
しかし、愛子内親王の存在、さらには国民の間に根強い「愛子天皇」待望論は、三笠宮家の確執に間接的ではあるが影を落としている。
あるいは、そうしたことがなかったとしたら、三笠宮家における夫婦や母と娘との間の確執も、幾分緩和されていたかもしれない。
そこには、現代において皇室を維持し、円滑に運営していくことの難しさが示されている。
私たちは、三笠宮家の問題を、たんに母と娘たちとの確執として捉えるのではなく、幅広い視野から、その根本にある要因を見極めていく必要がある。
幸い、今上天皇夫妻と愛子内親王との間に、何らかの対立があるという話は聞こえてこない。それに比較した場合、秋篠宮家では長女である小室眞子さん(眞子元内親王)の結婚問題でのごたごたがあり、国民としては理想の家庭とは捉えにくい。
国民は、象徴としての天皇家に家族関係のモデルを求める傾向もある。本年高まりを見せた「愛子天皇」待望論の背景には、そうした愛子内親王の育ちも深く関係しているはずなのである。

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島田 裕巳(しまだ・ひろみ)

宗教学者、作家

放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。

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(宗教学者、作家 島田 裕巳)
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