「ばけばけ」(NHK)ではラフカディオ・ハーンをモデルとするヘブン(トミー・バストウ)がイライザ(シャーロット・ケイト・フォックス)と再会。作家の工藤美代子さんは「ハーンはアメリカ人女性を痛烈に批判したが、心を許した相手がいた」という――。

※本稿は、工藤美代子『小泉八雲 漂泊の作家ラフカディオ・ハーンの生涯』(毎日文庫)の一部を再編集したものです。
■日本の怪談が好きすぎたハーン
ハーンの『怪談』は、あまりにも有名ですが、その創作過程について、妻のセツが「思い出の記」の中で興味深い記述をしています。
「怪談は大層好きでありまして、『怪談の書物は私の宝です』といっていました。私は古本屋をそれからそれへと大分探しました。淋しそうな夜、ランプの心(芯)を下げて怪談をいたしました。ヘルンは私に物を聞くにも、その時には殊に声を低くして息を殺して恐ろしそうにして、私の話を聞いているのです。その聞いている風がまた如何にも恐ろしくてならぬ様子ですから、自然と私の話にも力がこもるのです。その頃は私の家は化物屋敷のようでした。私は折々、恐ろしい夢を見てうなされ始めました。」
これは、少し穿った見方かもしれませんが、ハーンにしてみれば、妻のセツが夢にうなされるくらい怪談の世界に深入りしてくれなければ困ったのではないでしょうか。理性的な女性で怪談は迷信と片付けるか、そこまではゆかなくとも、創作に必要な素材と割り切るようだったら、物語そのものにあれだけの凄みとか迫力が出なかったと思うのです。
しかも、さらに見逃してはならないのは、セツ自らが古本屋を歩き、作品に使えそうな本を捜しだし、それを買い求めて読んで、自分の体内でいったん消化してから、夫に話して聞かせたことでした。これは大変なインテリジェンスを必要とする行為です。
たとえばアメリカの大学などの英作文のクラスでは、必ず物語の要約、サマリーが課題として出される例などを見ても、それが如何に難しい知的作業であるかがわかると思います。
■ハーン「日本女性は何という優しさ」
生涯で初めて自分の私生活のみならず仕事の面でも良き伴侶となるセツに巡り会ったハーンは、日本女性への賛辞をチェンバレンに宛てて次のように書いています。
「しかし、日本女性は何という優しさでしょう! ――善性に対する日本民族の持てるあらゆる可能性は、女性に凝集しているように思われます。このことは、西洋の原則のいくつかに対する人の信仰を揺るがすものです。もしこの優しさが抑圧と圧制の結果であるとするならば、抑圧と圧制も全面的に悪いとは言えません。これに反してアメリカ女性は、自分が偶像崇拝の対象となりながら、その性格をどんなにダイヤモンドよろしく硬直させてしまうことでしょう。」
■アメリカ人女性を皮肉たっぷりに評した
日本女性の美点を述べるのはわかるのですが、その比較としてアメリカ女性を出しているところが、とても面白い気がします。ハーンの文章はいつでも陰影がはっきりとしています。この場合も比較するものを挙げた方が、彼のいいたい主旨が明確になります。
「いずれが至高の人間でありましょうか? ――子供っぽくて、人を信じやすく、気立ての優しい日本女性でしょうか――それともわれわれの、より人為的な社会に住んでいる、華やかで、計算ずくめの、人の心を見ぬく西洋の魔女(キルケ)、悪に対する能力は巨大で善を目指す才能に乏しい魔女でしょうか。」
ここまで書くとハーンの内面にある西洋の魔女に対する憎悪も、少し激しすぎる感じがします。しかし、彼が本当に、この手紙の返事としてチェンバレンが書いた言葉を借りるなら、「生まれてから死ぬまで受けるお世辞のせいで、相対的に冷酷」なアメリカ女性を憎悪だけしていたかというと、どうやらそうではなかったのです。
■エリザベスの結婚を知って動揺
1900年の1月に、かつてアメリカで知っていたエリザベス・ビスランド(編集部註・新聞記者時代の部下)から10年ぶりの手紙がハーンのもとに届きます。最後にニューヨークを去る時、ハーンは自分の恋心を打ち明けるような手紙を彼女に送りました。
そして、日本に着いたばかりの頃はまだ彼女に手紙を出していたのです。それを読むと日本の物価はニューヨークより高いとか、侮辱されてまで生きるのは辛いとか、ちょっとビスランドに甘えているような愚痴っぽい調子が見られます。ところが、その後の2人の文通は途切れてしまいました。その最も大きな理由は、ビスランドの結婚にあったと私は思っています。
当時アメリカの女流ジャーナリストの草分けだったビスランドは、その美しさ故にニューヨークの社交界の花形でもありました。そして1891年に、ハーバード大学出身の裕福な弁護士チャールズ・W・ウェットモアと結婚をします。
このニュースを知ったハーンが友人のヘンドリック宛てに松江から書いた手紙が残されています。
その手紙を読むとハーンの反応は全く異常としかいいようがありません。日頃は静かな一家の人々の驚きをよそに、ハーンは和服を着てアメリカ先住民の歓喜の踊りを踊りまくったというのです。それから2時間も日本の友人たちが、からかって「ヘルンさん言葉」と呼ぶ独特の日本語で、彼女の結婚について語ったと書いています。
■松江の中学校でもエリザベスの名を
もし彼女が、自分の名前が松江の中学で英語を教える際に典型的な英語名として何度も黒板に書かれていて、生徒たちが可愛らしい日本なまりで「エリーザベト・ビースラン」と唱和していると知ったらどうだろうかと、ふざけた調子で続けています。
最後には自分の妻も彼女に会いたがっているので、ぜひ日本に遊びに来るよう伝言してくれと結んで手紙は終わります。

ハーンとビスランドが恋愛関係にあったことは一度もありませんでした。もちろん結婚の可能性など考えてもみなかったでしょう。それでも、やはりこの手紙からは彼女の結婚がショックだった彼の様子がうかがわれます。そして一方的に文通を止めてしまったのは、どうやらハーンの方だったのです。
なぜなら1900年になってウェットモア夫人となっている彼女から手紙が来ます。それに対するハーンの返事には「『無関心』とあなたはおっしゃいます。しかし、あなたに私の書斎を見ていただかなければなりません」と書いて、自分の書斎には昔ニューオーリンズで知っていた美しい人の写真が置いてあると告げています。
ハーンは、それまでに何度も彼女に手紙を書いたのですが、どうしても投函できなくて、火にくべていたと、同じ手紙で告白しています。私の推測では、理性ではわかっていても、やはり彼女の結婚を感情的に認められなかったのではないかと思います。

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工藤 美代子(くどう・みよこ)

ノンフィクション作家

1950年、東京都生まれ。18歳でチェコのカレル大学に留学。帰国後に70年大阪万博の通訳。
72年の札幌五輪のコンパニオンをつとめる。73年にカナダに渡りコロンビア・カレッジを卒業。93年に日本に帰国。昭和史、皇室関係のノンフィクションを執筆。『工藤写真館の昭和』で講談社ノンフィクション賞受賞。主な著書に『悪名の棺 笹川良一伝』『絢爛たる醜聞 岸信介伝』『母宮貞明皇后とその時代 三笠宮両殿下が語る思い出』『美智子皇后の真実』など。

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(ノンフィクション作家 工藤 美代子)
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