東京では、なぜ道路工事がいつまでも終わらないのか。その答えは、関東大震災後に決定され、いまも全体像が完成していない「環状1~8号線」計画にある。
100年以上かけて進められてきた巨大な都市構想は、いま転換点を迎え、東京都は昨年、計画の前提を見直す新たな整備方針の策定に動き出した。終わらない工事の正体を、ルポライターの昼間たかしさんが紐解く――。
■東京の住宅地に現れる未完成道路
東京・豊島区雑司が谷。地域を走る都電荒川線(東京さくらトラム)は、東京都に残された数少ない路面電車だ。途中、鬼子母神前停留所で降りてすぐにある鬼子母神は、参拝客の絶えない名刹である。
そんな荒川線の線路に沿って、もう何年も道路工事が行われている。住宅密集地ゆえに道路拡張かなと思いきや、違う。
これは、東京都市計画道路幹線街路環状第5号線の工事なのだ。そう、環七や環八と並ぶ東京都心部を囲む環状道路、将来はサンシャインシティの前でグリーン大通りに接続するという。
この東京都の環状道路、環7や環8があるのだから、当然環1や環2もある。正確には環状1号線から環状8号線まで設定されている。
東京の環状道路は皇居に近いほど数字が若く、1号線は皇居を取り囲むように走る内堀通りと日比谷通りの一部で構成されている。
2号線は虎ノ門や四谷などを結ぶ外堀通り、3号線が飯倉や六本木などを通る外苑東通り。4号線は上野や小石川を結ぶ不忍通りの一部や白金台の有名なプラチナ通り(外苑西通り)などを含む。5号線と6号線はそれぞれ明治通り、山手通りを指す。
実際のところ、そのすべてが完全に完成してはいない。1号線、内堀通りは全通しているようにみえるが、ここも九段下~一ツ橋区間は中央分離帯もなく歩道も狭いまま。現在、道路整備工事が実施されていて、ようやく整備が実施されている最中だ。
■環状線は「日本のサグラダファミリア」
驚くべきは、これらの計画の長さである。東京の環状道路の計画の歴史は古い。1~8号線が計画されたのは、1923年の関東大震災後のことだ。この時、内務大臣に就任した後藤新平が、かねてより構想していた都市計画に基づいて東京を復興することを考え提示されたのが環状線の始まりとされている。
つまり、既に100年あまり、ずっと計画が進められているのである。まるでサグラダファミリアだ。
日本でサグラダファミリアのような永遠の未完成といえば、新宿駅と横浜駅が挙げられる。環状道路は、建物ではないがそれに類する「永遠の未完成」ではなかろうか。
それにしても8本も道路があるのに100年経っても、ひとつも完全に完成していないのは、いったいどういう事情なのか?
それを知るために、これまでの経緯から記していこう。
まず、「関東大震災後に決定された」という説明はよく見られるが、実は正確ではない。実際には、都に環状道路をつくる都市計画は、震災以前から存在した。
東京市では1920年の都市計画法の成立後、大規模な都市改造を考え1921年に「東京都市計画街路網」を決定している。この計画は、次のようなものだった。
いわゆる環状線の改修は、環状線及び放射線においては芝区界を起点とし品川、目黒、渋谷、戸塚、巣鴨日暮里、寺島、大島その他各町を経て砂町に至る幅員12間延長八里あまりの大道路新設又は構改にして……(復興調査協会 編『帝都復興史:附・横浜復興記念史』第1巻 興文堂書院 1930年)
■「帝都復興」の重要なピースだった
この時点では、環状道路の計画はわずかなものだった。ところが関東大震災が発生すると、後藤新平は、これを大規模都市改造のまたとない機会と考えた。
震災の翌日に成立した山本権兵衛内閣の内務大臣に就任した後藤は、その日のうちに基本方針を策定、帝都復興院を設立し自分が総裁に就任している。ここに後藤は自分と意見を同じくする識者を集めて計画を進めた。
後藤の計画は猛烈なスピードで、9月9日には復興予算を当時の金額で約41億円であると示している。
これはあまりにも膨大な金額で、最終的な政府案は約10億円まで減額。しかし、それでも議会からは高すぎると、反発が強く最終的には約5億7500万円まで減額されている。
高すぎるという批判は、議会の将来性に対する見識のなさである一方、後藤の計画もダイナミックすぎた。
特に問題になったのは、後藤の計画では整備する道路の多くを幅員40間(当時の表記でメートルを意味する)にしようとしていたこと。つまり幅40メートルの道路である。
この計画が実現していれば、東京のあらゆる通りが、靖国通りや昭和通りみたいになっていたに違いない。当然維持費がかかるし、商業地では対岸との道路幅が広すぎては商売に差し障ると猛反発され、修正されることになった。
■後藤新平の「先見の明」
現代から考えると、先見の明があったといえる後藤だが、問題はあまりに説明不足で計画を急ぎすぎたことだろう。
ともあれ、紆余曲折を経て都心部の外周をめぐる環状道路と、それと接続する放射道路をベースとした都市計画は進められることになった。
なにより、後藤の復興計画は、日本人に都市とは計画的につくるものであること、すなわち、区画整理やインフラを整備、道路は舗装し並木や歩道があるという現代ならば常識的なことを、初めて体験させたものだった。
こうして始まった、東京都の都市計画は昭和前期にはさらに進捗している。1932年10月、東京市は合併に面積を拡大。
現在の23区に相当する大東京が成立している。これ以降、東京では震災復興を終えた地域と並んで新たな地域の都市計画にも取り組むことになる。
環状道路の計画は、この市域拡張を見越して実施されたものといえる。1927年8月新たに系統的な街路網の計画が決定。ここでは、郊外に幅員22~25メートルの幹線放射線道路16本、幹線環状道路3本を配置、さらにそれら道路を接続するために市内に幅員18~36メートルの道路を配置することを決めた。
この計画こそが、現在の東京の都市計画の基本になっているわけだ。
■東京は100年前から不便な街だった
ここで触れておきたいのは、ここまで大規模改造しないと、当時の東京がいかに不便な街だったかということである。
戦後、都市計画の第一人者となった石川栄耀は、もともと江戸の街は政治の中心である江戸城と、経済の中心である日本橋を中心に街路が設定されていたとしている。
ところが、大正・昭和になると産業の移動、副都心の誕生によりよじれが起きていた。1936年の土木学会での講演で石川は、以下のような問題を挙げている(土木学会 編『工学会大会講演集 第3回(土木関係)』土木学会 1936年)。
・北から都心へ向かう主要道路が神田に集中しており、交通量が過大になって渋滞の要因になっている
・日本橋、神田間の交通導線が悪い。旧来の道路網が十分に整理されておらず、両地区の間の交通導線がスムーズでない
・蔵前は浜離宮周辺など複数の道路系統が錯綜し、連続性に欠けたり、周辺との接続が中断している箇所がある
・上野駅付近や、赤坂見附など主要交差点や駅周辺で交通量を分散するルートが整備されておらず、慢性的な混雑が発生している

つまり、明治以降、丸の内に官庁街が整備されて新たな都心が形成されたり、東京港の周辺の産業の集積、新宿や渋谷など新たなターミナルが作られたが、道路整備がまったく追いついていなかったわけである。

ゆえに関東大震災がなかったとしても、大規模都市改造は東京が「帝都」として発展していくために欠かせないものであったといえるだろう。
■幅員100mの道路計画も
これらの計画は、戦争と共に中断を余儀なくされてしまう。しかし、終戦によって新たな復興計画のもとで、道路整備は再開されることになる。この戦災復興計画を策定したのが石川であった。
1946年に示された新たな都市計画では、道路は次のように計画されている。
幹線放射街路34路線(幅員40~100メートル)

幹線環状街路9路線(幅員40~100メートル)
ここで注目したいのは道路の幅員である。前述の通り、関東大震災後では幅員40メートルで猛烈に批判されたのに、今度は100メートルにしようというわけである。
しかも、石川の計画は非常に理想主義的で、その道路に沿って幅員50~200メートルの帯状の緑地をつくるとしていた。この計画では環状道路のみならず、昭和通りや蔵前橋通りも100メートル道路にするとされている。
完全に地域が分断されてしまうが、これこそが石川の目的であった。石川は、道路と緑地で地域を分割、それまで地縁を破壊して、新たな民主主義社会を実現するという壮大な構想を抱いていたのである。現代であれば道路ができて変わるのはせいぜい生活スタイル程度。
ところが、当時の都市計画家たちは都市を改造すれば社会そのものが革新すると本気で考えていたのである。
もちろん、当時でもそんな壮大過ぎる計画が実現するはずもなかった。ないしろ、予算がなかった。当時の東京都の考える復興とは、空襲の膨大なガレキをどのように処理するかであり、空襲で更地が増えたので「これはチャンス」とばかりに夢を実現しようとする石川のような人物は少数派に過ぎなかった(ガレキ処理で場当たり的に東京都内の川や水路が埋め立てられたので、都市が改造されたのも事実である)。
それでも現代と違うのは、一種誇大妄想的な石川のような人物が要職にあり、都市計画の采配を握ることができていたことだ。今になってみれば、その誇大妄想で道路が整備できたのだから、人材配置に間違いは無かったのかも知れない。
■100年かけて進捗率は7割程度
こうして、環状線やそのほかの道路は幅員こそ、縮小したものの戦前の計画を引き継いだ1946年の計画をベースに、淡々と進められていくことになる。
1964年の東京オリンピックを前に環状七号線が大幅整備されたこと、2020年の東京五輪・パラリンピックを前に環状二号線の虎ノ門~新橋間が開通したことなど、注目される動きもあったが、基本的には、僅かずつ計画が進むことを繰り返してきた。
例えば、環状3号線の一部である六本木トンネルは1993年に竣工しているが、ここの事業認可が下りたのは、1961年のことだった。
こんなに長期間に及んだ理由は、道路予定地が在日米軍施設「赤坂プレスセンター」になっていたこと。ここの場合、周囲の道路整備は1968年に完成し、一時は一部を返還で合意していたのだが、米軍側が方針を撤回。代替地の提供を要求して協議が続いたことで1990年まで、トンネルは着工できず、周囲の道路は完成しているのに使えないままになっていた。
その後も環状3号線の工事は中断している時期がやたらと長い。
こうして、亀の歩みのように進んできた道路整備の進捗率は、100年かけて7割程度といったところだ。
■計画自体が見直される動きも
もうゴールは見えている状態なのだが、あまりにも長期に及んだためか、計画自体が見直される動きも出てきている。現在東京都では、新たな「東京における都市計画道路の整備方針(仮称)」の策定に向けた調査検討を進めている。
この中で2025年7月に示された「東京における都市計画道路の整備方針(仮称)中間のまとめ」によれば、東京都はこれまでの「未完の道路を完成させる」という単線的な方針から脱し、社会構造や都市環境の変化を踏まえた再定義・再整理の段階に入ろうとしている。
具体的には、少子高齢化や人口減少、生活圏のコンパクト化、物流や移動手段の多様化など、戦後から半世紀以上を経た今日の東京を取り巻く条件が、もはや従来型の「交通処理中心の道路整備」では整合しないことを明確に認めている。ここでは「必要性の検証」や「優先整備路線の選定」という言葉も登場している。
つまり、これまでの人口も経済も上昇することを前提につくられてきた計画では、現状にそぐわないと見られているのであろう。
とはいえ、道路整備を止めてしまえば、街の血流そのものが滞る。
幹線道路は単なる交通の器ではなく、災害時の避難路や救援ルート、物流の動脈であり、生活インフラの背骨でもある。人口が減っても物資の流れは途切れず、むしろ小規模化・分散化する都市構造のなかでは、面的に支える道路網の重要性は増していく。
また、老朽化した下水・電線共同溝・通信インフラの更新を進めるには、道路整備の機会を逃すことができない。道路空間を「車だけのもの」から「人と街の共有資産」へとリメイクする動きも、結局は整備という土台があってこそ機能する。
つまり、見直しは「縮小」ではなく、「次の東京」を形づくるための再設計にしなくてはいけない。すなわち、時代に合わせた再設計と計画的な整備こそが、都市の生命を次の世代へつなぐ営みなのである。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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