大谷翔平選手など、現在、多くの日本人がメジャーリーグ(MLB)で活躍している。その先駆者ともいえるのが、約60年前に、日本人で初めてメジャーリーグに挑戦した村上雅則さんだ。
スポーツライターの元永知宏さんによる『長嶋茂雄が見たかった。』(集英社)より、村上さんのエピソードを紹介する――。(第2回)
■初の日本人メジャーリーガーが体感したレベルの違い
1964(昭和39)年、村上(※)は南海のチームメイトふたりと一緒にアメリカに渡ることになった。
※村上雅則:1963年に南海へ入団し、翌年にサンフランシスコ・ジャイアンツの下部組織である1A、フレズノ所属した。その後メジャー昇格し、日本人初のメジャーリーガーとなった。
「将来を見越しての“留学”という意味合いだった。プロ入りする前から『アメリカに行かせてやる』という話だったから。はじめは3カ月だけという予定で、6月か7月には帰国するつもりでお土産もたくさん買いこんだんだけど、いつまで経っても『日本に帰ってこい』と言われなかった。当時、サンフランシスコ・ジャイアンツの極東スカウト担当にキャピー原田という人がいて、彼が『このままアメリカにいろ』と言う」
村上はナショナル・リーグのジャイアンツの下部組織である1A(シングルA)フレズノに所属することになった。
「のちのちAAAの監督に『日本から来た時に、おまえにはAAAの実力があったけど所属するチームは日系人の多い町のほうがいいだろうという判断になった』と言われた。そんな事情を知らないまま、フレズノでプレーしたよ」
実際に戦ってみて、日本とアメリカのレベルの違いを感じた。
「日本の二軍とアメリカの1Aが同じくらいじゃなかったかな。
俺は1年目に106イニングを投げて、159個の三振を取ったんだよね。あの頃に投げていたのはストレートとカーブぐらい。あとはときどき、シュート系のボールを投げるくらいで。チェンジアップを教わったんだけど、うまく投げられなかった」
■全く違った食事の内容
言葉の壁、慣れない食事などさまざまな障害に悩まされることはなかった。
「あの頃は、日本のプロ野球で出される食事はさびしいものだった。キャンプでも、朝食はみそ汁にご飯、おかずはメザシに卵焼きかゆで卵と漬物。ご飯を2、3杯おかわりしてお腹をふくらませるという感じだったから。夜もたいしたものは出てこなかった。それに比べれば、アメリカの食事は恵まれていたよ。
初めてオレンジジュースを飲んだ時には驚いた。100%のオレンジジュースなんか、日本ではなかなか飲めなかったじゃない? 一杯飲んですぐに『もう一杯くれ』って言ったもんね。ベーコンもいくらでも食べられるし、卵焼きをふたつでもみっつでも好みに合わせて焼いてくれた。
アメリカのパンは本当にうまかったんだから」
アメリカですぐに“マッシー”と呼ばれるようになった村上は、8チームで構成されたカリフォルニア・リーグで新人王、リリーフ投手としてベストナインに選ばれた。
■試合開始30分前にメジャー昇格
「8月30日にメジャーリーグ昇格が決まって、翌日、ニューヨーク・メッツと対戦するためにニューヨークへ飛んだ。GMに『この契約書にサインを』と指示されたんだけど、父親から言われた『アメリカで変な契約をするな』という言葉が頭に残っていて、『ノー』と答えた。通訳なんかいないし、契約書に何か書いてあるかわからないし。
日本では、一軍に上がる時に、いちいちサインなんかしないじゃない? アメリカのやり方はまったくわからない。父親の言いつけを守って『ノー』と言い続けていると、日本語がわかる人が観客席から連れてこられて、説明を受けて契約書にサインしたんだよ。それがプレーボールの30分前くらいだったと思う」
村上は9月1日、メジャー初登板を果たした。
「1Aだと観客は500人くらいしかいない。初登板の試合には4万人の大観衆がいて、ガーガーピーピーうるさくて、カクテル光線がすごかったのを覚えているよ」
9月29日には初勝利を挙げた。
「4対4の9回からマウンドに上がって11回まで0点に抑えた。11回裏に味方がサヨナラホームランを打ってくれたんだけど、スタンドに入ったボールはファンが持って帰っちゃったから、記念のボールは手元にないんだよね」
■防御率1.80の好成績を出せたワケ
メジャー1年目は9試合に登板。1勝1セーブ、防御率1.80という成績だった。

「もちろん、マイナーリーグとメジャーリーグでは環境や設備を含めて大きな違いがあったけど、プレーという部分では、メジャーリーガー相手でも気後れすることはなかった。すごい成績を残した選手とも対戦したんだけど、誰が誰だかよくわからない。当時、スコアボードには名前が出なかったんだよ。ポジションと背番号が書いてあるくらいで」
情報がなかったからこそ無心で立ち向かっていけたのだ。
「もちろん、試合前にミーティングがあっていろいろと説明されるけど、今みたいに細かい情報は少なかった。まあ、全部が英語だから、何を言われているのかよくわからないし。『ああ、これがあのハンク・アーロンか』と思うくらいで。それが、自分にとってはいい結果を生んだのかもしれないね」
1964(昭和39)年のシーズンオフ、村上の処遇を巡って、日本での所属球団である南海とサンフランシスコ・ジャイアンツの間で問題が起こり、日本でもアメリカでもプレーできない状況になった。
■あれがなければ優勝できていた
「南海で練習することは認められたけど、一軍でも二軍でも試合には出られなかった。二軍の中百舌鳥(なかもず)球場でキャッチボールやピッチング、バッティング投手をしてたけど、『何をやってるんだろうな』という感じだった。
20歳になってたから夜は酒を飲みにも行ってたよ。やっと合意が取れて、1965(昭和40)年はアメリカでプレーすることになった。
鶴岡一人監督から『でも、来年は日本だぞ』と言われて、『はい!』と答えたよ」
村上のメジャー2年目のシーズンは、ほぼ1カ月遅れでスタートした。
「40日くらい遅れたのかな。その期間が本当にもったいなかった。その年、ジャイアンツは最終的に、ロサンゼルス・ドジャースに2ゲーム差の2位で終わった。もう少し早く合流できれば優勝できたんじゃないかとも思う。俺はドジャース戦で成績がよかったから」
1965(昭和40)年、村上は45試合に登板。4勝1敗8セーブ、防御率3.75という成績を残した。その3年前にリーグ優勝を果たしたジャイアンツにはすごいメンバーが揃っていた。
「野手にウィリー・メイズ(通算3293安打、660本塁打)も、ウィリー・マッコビー(通算2211安打、521本塁打)もオーランド・セペダ(通算2351安打、379本塁打)もいた」
メイズは1964(昭和39)年に47本塁打、1965(昭和40)年に52本塁打を放っていた。
■メジャーリーガーの腕はまるで太ももだった
「ピッチャーでは、ゲイロード・ペリー(通算314勝)、フアン・マリシャル(通算243勝)がいたんだよね」
対戦した選手の中にはメジャーリーグの記録を塗り替えるスター候補がいた。特に印象に残っているのがピート・ローズだ。
「たしか2年目のシーズンだったと思うんだけど、シンシナティ・レッズにピート・ローズ(通算4256安打)がいて、試合前のバッティング練習中に話しかけられたことがある。
俺がライトのところにいて、ローズが『へい、マッシー』とか言いながらやってきた。はじめは誰だかわからなかった」
ローズは1941(昭和16)年生まれで村上よりも3歳上だが、メジャーデビューは1963(昭和38)年。1965(昭和40)年に209安打、打率3割1分2厘という成績を残した。
「通訳なんかいないけど、ローズが言いたいことはなんとなくわかるじゃない? 腕まくりしながら、『おい、メジャーでやりたいなら、こうじゃなきゃいけなんだ』と言う。ローズの二の腕を見たら、太ももみたいなんだよ。『もっと鍛えろ』と言うことだったのかもしれない。彼はメジャーリーグで160本しかホームランを打っていないのに、2本も打たれたよ(笑)」
村上がプレーしたのは60年前だが、メジャーリーガーの体格は日本人とは違っていた。
■ビール瓶のフタを指の力だけで曲げる
「そんなに大きくない選手もいたことはいたよ。たとえば、メイズは俺よりも2、3センチくらい背が低い(約180センチ)。ところが、足の長さが全然違う。ロッカールームではみんな裸になるからよくわかるんだけど、胸板は厚いし、太ももにしても腕にしても太いし、締まるところがキュッと締まっていて、お尻も筋肉がモリッとしていて見事なものだった。日本人ではああいう体にはならないだろうね。

メイズは1931年生まれで、朝鮮戦争に従軍してプレーできない時期があった(1953年)。そういうことがなければ、ベーブ・ルースの通算本塁打記録(714本)を塗り替えたかもしれない」
村上にとって、パワーの違いを痛感させられる毎日だった。
「みんな、パワーがすごかったね。ある時に、セペダと力比べをしようということになったんだよ。俺は指2本、彼は1本で引っ張り合いをしたんだけど、ハンディをもらっても全然かなわない。俺も握力が80キロ以上あったし、ビール瓶のフタを指の力だけで曲げることもできたんだけど。
■国から帰国後の日本での成績
セペダは1964(昭和39)年に31本塁打を放ったパワーヒッターだったけど、あのパワーは持って生まれたものなんだろうな。簡単なウエイトトレーニング器具はあったけど、今の選手ほど熱心にはやっていなかったから」
メジャーリーグの投手のスピードはもちろん、日本以上だった。
「球が遅くても抑えるのもいたけど、ものすごく速いピッチャーもたくさんいた。俺はロサンゼルス・ドジャースのサンディー・コーファックス(1965年に26勝8敗、防御率2.04、382奪三振)と対戦したことがあるんだけど、ものすごく球が速かった。1球空振りしたあと、これは当たりそうにないと思ったから、セーフティーバントをしたらそれが内野安打になったんだよ。俺、足が速かったから」
村上は1966(昭和41)年から再び南海でプレーし、その年の日本シリーズで長嶋と対戦している。
村上は1968(昭和43)年に40試合に登板して18勝4敗、防御率2.38。勝率8割1分8厘で最高勝率のタイトルを獲得した。1973(昭和48)年にも南海と巨人との日本シリーズが実現したが、長嶋は右手薬指の骨折のため出場しなかった。
その後、村上は阪神タイガース、日本ハムファイターズでプレーし、20年間(日本18年、メジャーリーグ2年)のプロ野球人生を終えた。日米で積み上げた勝利数は108(日本103勝、アメリカ5勝)だった。

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元永 知宏(もとなが・ともひろ)

スポーツライター

1968年、愛媛県生まれ。立教大学野球部4年秋に、23年ぶりの東京六大学リーグ優勝を経験。大学卒業後、ぴあ、KADOKAWAなど出版社勤務を経て、フリーランスに。著書に、『プロ野球を選ばなかった怪物たち』(イースト・プレス)、『レギュラーになれないきみへ』(岩波ジュニア新書)、『殴られて野球はうまくなる!?』(講談社+α文庫)、『補欠の力』(ぴあ)、『野球を裏切らない』(インプレス)などがある。

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(スポーツライター 元永 知宏)
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