鹿児島県霧島市にある「妙見石原荘」(1泊8万円~)は2025年、ミシュランガイドが宿泊施設を評価する「ミシュランキー」で“一つ星”を獲得した。昭和の大衆旅館として栄え、一時稼働率低迷に陥った温泉宿は、いかにして国際基準の高級宿に生まれ変わることができたのか。
ジャーナリストの座安あきのさんが石原大佑社長に聞いた――。
■大衆旅館からミシュランに選ばれた異色の旅館
日本の伝統文化ともいえる温泉旅館が、転換点を迎えつつある。後継者不足、設備の老朽化、人材確保難という慢性的な課題に加え、円安による資産価値の低下によって、多くの老舗旅館が海外ファンドの買収対象になろうとしている。地方では、文化財的価値のある旅館ですら、静かに売りに出されているのが現実だ。
そんななか、家族経営に取り込んだ“外の目”を生かし、進化を続ける温泉旅館がある。鹿児島県・霧島の渓流沿いに佇む創業65年の温泉旅館「妙見石原荘」だ。宿泊は1室(2人利用)1泊8万円から。団体客向けの大衆旅館から始まり、1990年代に高級路線に転じた後も、旅館文化を継承しながら中身の変化を遂げた。その取り組みは2025年、ライフスタイル誌『婦人画報』の「温泉宿アワード・総合グランプリ」と、「ミシュランキーホテル」選出という、二冠の評価に結実した。
専門家・文化人ら120人が選ぶ“温泉宿文化”に特化した国内アワードと、ミシュランガイドが「特別な宿」と認める国際基準の滞在価値――その両方を同時に満たした宿は、決して多くはない。石原荘が評価された背景には、29歳無職から“花婿”を目指して旅館業に飛び込んだ2代目婿社長と、「最高峰」の学びを自分のものにした、ある料理人との“競演”があった。
■事業売却後、アメリカに飛ぼうとしたら…
「なんとか荘というから、失礼ながら山荘のような小屋みたいなところを想像していたら、とんでもなかった。
あまりに立派な門構えと風情に、思わず唸り声をあげてしまいました」
妙見石原荘の石原大佑社長(43)は15年前、初めて石原荘を訪れた日のことをこう振り返る。
地元・鹿児島出身。高校時代は野球部のピッチャーとして活躍した。大学受験に失敗したものの、パソコンと出会い、福岡でホームページ制作会社を起業した。仲間とともに業績を伸ばし、26歳で会社を売却。IT業界で次の技術革新の種をつかもうと渡米を考えていたタイミングで、石原荘の若女将だった現在の妻・玉貴さんと2度目の出会いを果たす。4年越しの「知り合い」から発展し、交際がスタートした。
「一緒にアメリカに行かないか」
家業の背景を知る間もなく、大佑さんは付き合い始めの勢いでこう持ちかけた。だが、玉貴さんの答えははっきりしていた。「行けない。旅館を継がなきゃいけないから」といい、仕事のやりがいや、思い描く旅館像を熱っぽく語って聞かせたという。
■大宴会が前提の時代に「客室を絞る」決断
ここで、温泉旅館「妙見石原荘」の土地と創業の歴史を紹介しておきたい。

妙見石原荘のある鹿児島県・霧島温泉郷には、坂本龍馬と妻・おりょうにまつわるこんな逸話がある。慶応2年(1866年)3月、寺田屋事件で九死に一生を得た龍馬が西郷隆盛らのすすめで傷を癒しに訪れ、2人が生涯で最も楽しい時間を過ごしたといわれる。この旅は後に、「日本で初めての新婚旅行」として知られるようになる。
石原荘がこの地に創業したのは、龍馬の歴史からおよそ100年後の1965年。高度経済成長期の真っただ中だった。開業から20年近くは、老人会や団体の宴会客を中心とした、いわば“昭和の温泉宿”の典型だったという。だが、時代が進むにつれ、旅館のあり方にも徐々に変化が迫られることになる。
進化の第一幕を開いたのは、石原家に婿養子に入った石原勉さんだった。大阪で育ち、関西弁の中でも語気が強い「河内弁」を話した。厳しさと豪快さの中に、情の深みのある人柄が人を引き付けたという。
「結婚前は外資系の運送会社に勤め、ドイツで生活した経験があったそうです。外から来たためか、土地に根差した自然や文化の良さを感じる目、独特な美的センスがあった。
女将の礼子さんの美術や芸術に対する高い関心と合わさって、旅館全体の雰囲気を変えた」と、大佑さんはいう。
企業の宴会需要がまだ底堅かった1980年代末、勉さんは義父である創業社長を説得して、客室数を絞った温泉旅館へと大きく舵を切る決断をする。大分・湯布院の「玉の湯」の雰囲気ともてなしに感銘を受け、「これからは個人客の時代だ」と見定め、高級路線化を目指したという。
■増改築を続けて様変わりしたが、お金がない
露天風呂に加え、33室あった本館客室の壁を取り払って15室にする改築を、15年もの年月をかけて進めた。商業建築デザイナー・寒川登氏の旅館建築に魅せられ、熱心に頼み込み、一貫して仕事を依頼し続けたという。和を基調としながらモダンなアートや造形を同居させた独特な空間、時代を経ても古びることのない洗練されたデザインが特徴だ。
さらに、旅館の価値を揺るぎないものにしたのは、2007年にオープンした新館「石蔵」だ。鹿児島県さつま町で1931年に建てられた米倉庫を移築してきた。
その石蔵の中には、源泉100%掛け流しの露天風呂がついた客室4室とレストランがある。内装を手掛けたのは、「グランドハイアット東京」や「無印良品」などの建築デザインで知られる杉本貴志氏(スーパーポテト)。全国各地から業界屈指の職人が集められ、和紙や竹など天然素材をふんだんに使ったしつらえに仕上げられた。外観から内装まで、霧島の自然に溶け込んだ空間が広がり、職人技の美意識と機微が随所に宿る。

土地の魅力を最大限に表現すること、訪れた客が自分のペースでくつろげること、宿が自然と対話する設計であること──それらすべてを「石蔵」によって再定義したことが価値となり、“名旅館”へと格上げされる大きな転機となった。
しかしその一方で、経営面の課題は山積していた。建物の躯体は老朽化し、業務が属人化して料理やサービスの品質にばらつきがあった。顧客の評価もまた、その実態を反映し、稼働率は伸び悩みが続いた。何よりも、施設の改装にかかる継続的な設備投資は経営の重荷になっていたという。
■「娘はお見合いするので諦めてください」
そんな状況の中、進化の第二幕を率いることになったのが、冒頭で登場した現社長・大佑さんだ。石原家の長女・玉貴さんと出会い、縁もゆかりもなかった温泉旅館が突如、彼女の存在と共に大佑さんの中心を占めるようになった。
2人の交際が母親の女将に知られるようになったのは、付き合ってから数カ月後、「石蔵」のオープンから3年目を迎えたころだった。
「どういう男だ出てこい、ということになりまして、挨拶のため市内のホテルでお会いすることになった。行ってみると、女将さんと1対1。私の姿を上から下まで眺めて、『はい座って、ここに履歴書を書きなさい』と目の前に白い紙が置かれた。初めての顔合わせだと思っていたら、いきなり面接だったんです」と懐かしそうに笑う。

「現在はフリーランスだと書いたら、それは世間ではプー太郎というんです、娘は有名大学の方とお見合いするので諦めてくださいとはっきり言われて。彼女は、『もしどちらか選べとなったら、私は旅館を選ぶ』と言っていたので、あぁ、もう僕は振られてしまうのかなと、落ち込んで帰ったのを覚えています」
ところが、事の顛末を聞いた彼女の反応は思いがけないものだった。「旅館をやめて、一緒にアメリカでもどこにでもついていく」と言い出したのだ。
「その言葉はとても嬉しかったけど、こんなしょうもない自分のために彼女の夢を捨てさせるわけにはいかない。私が絶対に石原荘に飛び込むから、2人で頑張ろうと約束したのです」
■見習いとして入れたが…女将が突き付けた条件
しかし、母親である女将にとっては人生の一大事だ。大切な娘の相手、しかも家業の後継ぎ候補ともなれば、容易に受け入れるわけにはいかない。なんとか許しを得ようと画策する大佑さんの前に難関の女将が立ちはだかり、社長である父親に会わせてもらえない日々が続いた。その間も、大佑さんは様々な旅館を訪れ、業界に関する本や資料を読み漁り「知識武装」して対面の日に備えていたという。
そして交際から1年8カ月がたったころ、ようやく勉社長から大佑さんに会わせろ、と声がかかった。
「彼女に対する思いと旅館業を学びたいという思いを社長にまっすぐ、話しました。そうしたら、わかった、見定めてやるからといわれ、すぐに申し込みました。一般社員よりも下の見習いの従業員として、なんとか入社させてもらえることになりました」
「若女将との関係は、絶対に伏せること」
これが、女将に突きつけられたただ一つの条件だった。

■歯を食いしばりすぎてボロボロになりながら
大佑さんは当時29歳。サービス業に就くのは初めての経験だった。思うようにできない悔しさのあまり、歯を食いしばりすぎて口の中がボロボロになったことも。だが一度たりとも、逃げ出したい、辞めたいと思ったことはなかったという。
「お客様を接客する時、手が震えていたことを今も鮮明に覚えています。とにかく不安だらけでしたが、やらなければいけないと覚悟を決めていたので、掃除の仕方、料理のこと、器のことなど、なんでも素直にいろんなことを吸収しました。お客さまからありがとうと言われるようになると、心地良さを感じるようになって、この仕事がどんどん好きになっていきました」
玉貴さんが近くにいて一番の味方でいてくれた。そして、入社して早い段階で、「自分がこの旅館を仕切れる立場にならなければいけない」と明確に思えたことが、仕事に向き合う姿勢を決めた。時に厳しく難しい職場の人間関係を丸ごと受け止め、自身の言葉や態度を顧みて、いかにいいチームづくりにつなげるかを真剣に考えるようになったという。
■ついに両親の許しを得て「結婚」もつかの間…
「お前ら、結婚してええぞ。籍入れ」
入社から8カ月がたった2012年8月、社長が唐突に若女将を呼び出し、交際の許可を飛び越えて結婚の許しを与えた。ところが、その言葉からちょうど1週間後、社長が突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。享年65歳。
「僕のことを、これからがんがん鍛えるつもりだと言ってくださっていたのに」
持病はあったが、死を意識するほどではなかった。四十九日の法要を終えるのを待って、その年の10月、2人は結婚し大佑さんは「石原家」に入った。
その後、石原荘の代表権は女将に移り、大佑さんの立場にも変化があった。
「妙見温泉」は、霧島連山の西南麓、新川渓谷沿いにある温泉郷の一角をなす。天降川(あもりがわ)に面した石原荘は先代から、源泉の近くに浴場をもつことを理念としてきた。豊富に湧き出る55度の湯を真空状態のまま山の水で冷やして適温にする「熱交換器」を導入することで、鮮度の高いパワフルな温泉を楽しめることが、強みの一つだ。そして、本館施設に近い場所に新たな源泉を掘り当てることは、義父が長年取り組みながらさまざまな障壁があって成し遂げることができない、難事業として残されていた。
■「妻の夢をかなえると誓った」
新体制になるや否や、大佑さんは関係機関に何度も足を運び、粘り強く手続き交渉を重ねた。ようやく掘削の権利を得て試し掘りをすると、見事に良質の温泉が湧き出したという。それはまさに、旅館の新たな価値を“掘り起こした”瞬間だった。そんな大佑さんに、女将が初めてねぎらいの言葉をかけた。
「あなた、勉社長も長年務めていた、常務をやりなさい」
旅館経営に貢献する実績を地道に積み上げ、一人の経営者として「資格」をつかみとっていく。IT会社での経験を支えに、数字に関わる経営の実務まで任されるようになった。大佑さんは、急逝した義父の改革と奮闘に自身を重ね、家族経営の温泉旅館をさらによくしていこうと気持ちを新たにしたという。何が原動力になったのだろうか。
「妻の夢をかなえると誓ったこと。そしてもうひとつは、空っぽだった自分のこと」だと打ち明ける。
20代で起業し好業績から売却まで至ったホームページ制作会社は、技術ある優秀な仲間に支えられた。米国行きを計画したのも、技術も経験もない自分自身に物足りなさを感じ、学歴を積むより、経験と実績で勝負しようと考えてのことだった。
「このままでは将来埋もれてしまう、と模索していた時期。空っぽで旅館にやってきて、なんでも吸収していかなければ太刀打ちできなかった。妻と石原荘、そして先代が、自分に経験と成長の場を与えてくれた」
■旅館の成長を裏で支える「料理長」との出会い
そして2019年、妻の若女将が社長を引き継いだタイミングで、石原荘は大きな決断をする。旅館の要ともいえる料理長の交代だ。長年、石原荘を支えてくれた料理長がいたが、調理の現場は昔ながらの運営体質を刷新する必要に迫られていた。新たな料理人の情報を求める中でたどりついたのが、京都の老舗旅館に勤めていた、当時41歳の松本大樹さん(47)だった。
松本さんは鹿児島出身。10代からさまざまな職を経験するなかで、料理の世界へと足を踏み入れた。「料理人に対して理想もなかった、まっさらな状態で入ったことが逆によかったのかもしれません」と松本さんは振り返る。20歳を過ぎたころ、懐石料理を提供する仕出し屋で働き、そこで初めて“職人”と呼べる料理人の師匠に出会う。この出会いが、松本さんの人生を大きく方向づけることになった。
「仕事が終わった後に本屋へ連れて行ってくれたり、食事に誘ってくれたり、とにかく長い時間を一緒に過ごしました。人柄も、料理も、教えてくれることすべてに感銘を受けて……。全部を自分の中に取り込みたい、と必死で向き合っていました」
その後、松本さんは鹿児島のホテルや料理屋に勤め、大分の温泉旅館では20代後半で料理長を務めるまでになる。しかし同時に、自分の中にどうしても足りないと感じるものがあった。「山のもの」「川のもの」を扱う料理の技術だ。
■京都の奥座敷「美山荘」で修業を決意
「あと5年くらいなら、当時の自分のままで保てたかもしれないけど、10年後を考えたら限界が見えた。単なる仕事としての料理人ではなく、自分が何かに妥協することなく、主体的にやりたい料理ができる料理人になりたかった。そのために、勉強が必要でした」(松本さん)
新たな技術の習得を目指し、あえて修行の場に選んだのが、“最高峰“といわれる旅館「美山荘」だった。
美山荘は京都の奥座敷、花背にある明治創業の料理旅館だ。季節の野草や川魚、ジビエなどを素材として提供する「摘草料理」が、その名を象徴する代表的な存在として知られている。松本さんは2014年、35歳にして一から学び直す覚悟を固め、身重の妻とともに京都へ移り住んだ。どんなにつらくても逃げ場がない、とにかくやり切るしかない――そう思いながらの決断だったという。
見習いの立場で厨房に立つが、戸惑うことばかり。「なんでこうするんですか」と尋ねても、師匠は「そんなもんや、感じとれや」という。まともに口も聞いてもらえない日々が、2年続いたという。
「あたりはきつかったですが、その料理長は本当に素晴らしかった。50年以上美山荘にお仕えしていた方で、その方の仕事に大きな価値を感じて、僕も必ず習得しようと思いました」と松本さんはいう。
■「一番の決め手は、人間力でした」
2年が経過した頃、少しずつ名前を呼んでもらえるようになり、一緒に山に入って山菜やジビエを集めに出かけるようになった。
「新鮮な野草、食材は口に入れた瞬間の香りがまったく違う。それを、洗練された形で料理してお客さまに感動を与えている。素晴らしい仕事を間近で見させてもらうたび、悔しくてたまらない思いや、意気地のない自分に対する日々のつらさが一瞬で吹き飛びました」と語る。
そして、修行生活も5年が過ぎた頃。地元に一人残る母のことを思い、鹿児島に戻る道を考え始めた矢先、松本さんの耳にこんな情報が入った。
妙見石原荘が、料理長を探しているらしい――。
大佑さんは、初めて電話口で松本さんと言葉を交わした時のことをこう語る。
「われわれも美山荘の料理を目指していたので、適任であることは間違いない。でも一番の決め手は、松本さんの人間力でした。故郷に戻る意味、旅館の運営で変えていきたいこと、料理人として目指す方向性など、次から次に言葉があふれて止まらない。何より、関わってきた人に対する感謝の言葉を繰り返した。まだ会ってもいないのに、絶対この人に来てもらいたいと強く思いました」
■伊勢丹新宿で大人気の「桑水流」から豚を仕入れる
松本さんの料理は、土地の素材と自然の恵みを重視し、過剰な演出を排した静かで力強い料理が特徴だ。鹿児島の県域を越え、薩摩の歴史にちなんだ食材の掘り起こしに奔走している。筆者が石原荘を知ったのも、旧薩摩藩にあたる宮崎県小林で希少な純粋バークシャー種(六白黒豚)のブランド豚を生産する「桑水流(くわづる)畜産」を取材したことがきっかけだ。(〈伊勢丹新宿で12年連続1位…「黒豚ロースみそ漬」(864円)が奇跡のような商品と言われている理由〉参照)
松本さんが料理長に就いて早々、石原荘で仕入れていた黒豚をすべて桑水流畜産のものに切り替えたという。数々の生産者から黒豚を取り寄せ賞味する中で、松本さんは、作り手のこだわりを一瞬で見抜いたのだ。
「土地のものを最大限に生かすという『制約』が、美味しいものを追求する力になる」と松本さんはいう。その世界観で表現される料理は、妙見石原荘の空気と響き合い、訪れる価値が一段と引き上げられた。
■後継問題に揺れる温泉街を救うために
館と厨房、それぞれの現場に責任を負う大佑さんと松本さんの連携は、人の働き方に変革を促すエンジンにもなった。旅館業界は長年、人手不足と長時間労働が常態化し、生産性の向上を阻む要因にもなってきた。妙見石原荘では、業務フローを分解してスタッフの負荷が偏らないシフト設計に見直し、人員を増やして給与を引き上げた。現在、パート社員や外国人のスタッフを含め、65人が15室の運営に携わっている。
さらに石原荘は、旅館業界が抱えるもう一つの課題にも切り込んでいる。2018年、近隣で後継者のいなかった温泉旅館の承継に動いたのだ。外資の手にわたりそうだという情報を耳にしたからだ。その旅館「妙見温泉ねむ」は、承継以来7年間続けてきた宿と温泉の改装が今年、ようやく完了した。「ねむ」は1室1泊(2人利用)2万円台~で、石原荘を知ってもらう入り口に位置付けられた。
■昭和の団体宿は、まだまだ生まれ変われる
大佑さんは2022年12月、社長に就任した。コロナ禍も、改革の歩調を緩めることなく5部屋のリニューアルを進め、単価アップと稼働率の向上につなげたことは大きな自信につながった。稼働率は年平均90%前後。本業を強くするため、収益源を分散させることがこれからの目標だという。
「地政学、災害、環境変化、さまざまなリスクと隣り合わせで旅館業を経営する中で不測の事態に備え、働く人を守っていく必要がある。多角化する中でも、私たちが強みとしてきた料理は松本料理長の存在もあって、事業の核にしていくつもりです」と大佑さんはいう。
土地の物語、歴史、自然、料理、人の営み──すべてが、「温泉旅館」の価値を形づくる。妙見石原荘は、その総体を“外の目”で再編集しながら、新たな家族経営の物語をつむぎ始めている。昭和の団体宿から、個人向けの上質な湯宿へ、そして国際基準の滞在価値へ。一連の進化の軌跡は、日本の土地に根差した「温泉旅館」の文化を再定義する、一つの方向性を指し示しているようだ。

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座安 あきの(ざやす・あきの)

Polestar Communications取締役社長

1978年、沖縄県生まれ。2006年沖縄タイムス社入社。編集局政経部経済班、社会部などを担当。09年から1年間、朝日新聞福岡本部・経済部出向。16年からくらし班で保育や学童、労働、障がい者雇用問題などを追った企画を多数。連載「『働く』を考える」が「貧困ジャーナリズム大賞2017」特別賞を受賞。2020年4月からPolestar Okinawa Gateway取締役広報戦略支援室長として洋菓子メーカーやIT企業などの広報支援、経済リポートなどを執筆。同10月から現職兼務。朝日新聞デジタル「コメントプラス」コメンテーターを務める。

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(Polestar Communications取締役社長 座安 あきの)
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