2025年は、クマによる人的被害が過去最悪のペースで拡大した1年となった。一方で、ヒグマやツキノワグマの肉を提供する高級店には予約が殺到しているという。
富裕層マーケティングを長く手掛ける西田理一郎さんは「彼らは単なる珍味として熊を食べているわけではない。そこには現代エリートならではの『高度な知的遊戯』がある」と分析する――。
■「最短でいつ空いてますか?」熊料理に予約が殺到
2025年12月。師走の冷たい風とともに、今年もまた「熊」のニュースが列島を駆け巡った。
11月時点で、クマ被害による死者数は過去最悪の13人を更新。秋田県では、住民の安全を守るために自衛隊の派遣を要請する事態となったことは記憶に新しい。
多くの日本人にとって、今の熊は「恐怖の対象」でしかない。
しかし、その裏側で、まったく逆の熱狂が起きていることをご存知だろうか。
「今シーズンの熊鍋、最短でいつ空いてますか?」

「例の岐阜の店、次の予約枠が出たらすぐに連絡をくれ」
都内の高級レストランや、地方の著名なジビエ料理店には、いま、富裕層からの予約の電話が殺到している。彼らが求めているのは、恐怖の対象であるはずの「熊肉」だ。
一般社会が熊に怯える一方で、経済的に余裕のある層が熊を貪る。このグロテスクともいえるコントラストは、単なる「ゲテモノ食い」や「珍味ブーム」という言葉では片付けられない、現代日本特有の社会現象を含んでいる。

■日本の狩猟・処理・調理技術は世界最高レベル
まず誤解を解いておかなければならないのは、いま富裕層が食べている熊肉は、かつての山小屋で供されたような「獣臭くて硬い肉」とは別次元の代物だということだ。
その背景には、日本のジビエ処理技術の飛躍的な向上がある。
今年10月、フランスで開催されたジビエ料理の世界大会「リエーブル・ア・ラ・ロワイヤル世界大会2025」において、東京・湯島のフレンチ「ア・ターブル」の中秋陽一シェフが優勝を果たしたニュースは、業界に衝撃を与えた。
ジビエの本場・欧州の伝統的な大会で日本人が頂点に立ったという事実は、日本の狩猟・処理・調理の技術が、もはや世界最高水準にあることを証明している。
特に熊肉は、処理の差が味に直結する食材だ。捕獲後、体温が下がる前に素早く血抜きをし、適切な温度管理下で熟成させる。このプロセスを経た熊肉は、牛肉や豚肉にはない複雑な旨味と、驚くほど融点の低い、さらりとした脂身を持つ「極上の食材」へと変貌する。
この「進化した味」に、舌の肥えた富裕層がいち早く気づいたのだ。
■「比良山荘」が変えた熊肉の常識
その象徴ともいえる存在が、滋賀県大津市、比良山麓に佇む「比良山荘」である。
京都駅から車で1時間以上かかる山奥にありながら、「予約1年待ち」は当たり前。食べログやミシュランといった評価軸を超越し、日本の財界人や食通たちがこぞって通う名店だ。
ここの名物「月鍋」(ツキノワグマの鍋、3万円~)は、熊肉の概念を覆す。

薄くスライスされた肉は、鮮烈な赤身と真っ白な脂身のコントラストが美しい。特筆すべきはやはり脂だ。冬眠前にドングリや木の実を大量に摂取した熊の脂は、融点が低く、口に入れた瞬間に甘みとなって溶け出す。
実際に食した人々からは、「牛肉のサシは重く感じるようになったが、比良山荘の熊の脂だけはいくらでも入る」といった声が聞かれる。
味噌ベースの出汁にくぐらせ、地元のネギと共に頬張る瞬間、口の中に広がるのは獣臭さではなく、山の豊潤な香りそのものだ。ここには、既存の高級食材――フォアグラやA5ランク和牛――にはない、「野性」と「洗練」の奇跡的な融合がある。
■「岐阜の山奥」に集うエリートたち
比良山荘が「料理屋としての完成形」だとすれば、よりプリミティブ(原始的)な体験で富裕層を惹きつけているのが、岐阜県のジビエ文化だ。
岐阜県瑞浪市の「御料理 柳家」は、日本のジビエブームの火付け役といっても過言ではない。
江戸時代後期の古民家を移築した空間で、囲炉裏を囲み、店主たちが目の前で肉を焼き上げる。9年連続で食べログのアワードを受賞し続けるこの店は、単なる食事の場を超え、一種のエンターテインメントとなっている。
また、同じく岐阜県山県市の「摘草料理 かたつむり」も、カルト的な人気を誇る。
「きのこ仙人」の異名を持つ店主・清水滋人氏が、自ら山に入って食材を調達する。
ここでは「仕入れ」ではなく「採取」が料理のベースだ。2023年にテレビ番組「情熱大陸」(毎日放送)でそのストイックな姿勢が紹介されて以降、全国から「本物の自然」を求める客が殺到している。
これらの店に共通するのは、都心の高級フレンチや寿司店では決して味わえない「不便益」と「物語」だ。
わざわざ新幹線と車を乗り継ぎ、携帯の電波も怪しい山奥へ行く。そのプロセス自体が、多忙なエリートたちにとっては「贅沢な時間の使い方」として機能している。
■「殺して終わり」ではなく「感謝して食べる」
しかし、彼らが熊を食べる理由は「味」や「希少性」だけではない。そこには、現代のエリート層ならではの「理屈」がある。
彼らにとって、熊を食べることは一種の「社会課題解決への参画」という意味合いを帯びている。
環境省によれば、4~10月末時点で9765頭(速報値)となり、統計を始めた2006年度以降で最多となった。来年度はその数を上回る可能性もある。しかし、そのうち食肉として流通するのはわずか数%。残りは、埋設処分や焼却処分されているのが現実だ。

SDGsやESG投資に敏感な現代の富裕層にとって、この「命の廃棄」は看過できない矛盾として映る。
「人間の安全のために駆除せざるを得ない」という現実を受け入れた上で、「だとしたら、その命をゴミとして燃やすのではなく、感謝して血肉に変えるのが責任ある態度ではないか」と考えるのだ。
SNS上では2025年10月、青森県の道の駅で売られていた「ツキノワグマの串焼き」が大きな話題となったが、この投稿に寄せられた好意的な反応の多くも、「命を無駄にしない」という点への共感だった。
熊を食べる行為は、一見すると野蛮に見えるかもしれない。しかし彼らにとっては、それは「フードロス削減」であり、「地域経済への貢献」であり、野生動物管理というシステムを回すための「エシカル(倫理的)な消費」なのである。
■富裕層は「意味のある消費」を求めている
この「食べる責任」を極限まで追求し、富裕層から熱狂的な支持を集めているのが、北海道・十勝の食肉料理人集団「ELEZO(エレゾ)」だ。
代表の佐々木章太氏は、狩猟から放牧、加工、熟成、そしてレストランでの提供までを一貫して行う独自の生産モデルを構築した。彼らはヒグマの狩猟においても、撃つ場所、血抜きのタイミング、解体のスピードに至るまで、徹底した美学を持つ。
十勝の豊頃町にあるラボラトリーに併設されたオーベルジュ「ELEZO ESPRIT」では、ゲストは狩猟された動物がどのようにして皿の上に載るのか、その物語を五感で体験する。
そこにあるのは、単なる美食ではない。命のやり取りを可視化する「哲学の授業」だ。この知的な深みこそが、物質的な豊かさを極めた人々の、乾いた知的好奇心を潤している。

ミシュランの星付きレストランでキャビアやトリュフを食べることは、もはや彼らにとって「記号的な消費」に過ぎない。しかし、熊を食べることは「意味のある消費」になる。
「熊を食べる」という行為は、現代における最も先鋭的な「教養」の証明なのかもしれない。

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西田 理一郎(にしだ・りいちろう)

価値共創プロデューサー、ディープルート 代表取締役

富裕層向けブランド体験の「物語」を紡ぐナラティブ・マーケティングをプロデュース。また、情報伝達を超えた行動を仕組化し、個の全盛時代において、ラグジュアリー市場での持続的成長を実現する知の「価値共創」戦略を構築する。プレミアムブランドの世界観を体現する戦略的プラットフォームの商品化を手がけ、ミシュラン・ガストロノミーから超高級ライフスタイルまで、文化的価値を経済価値に転換するマーケティング、ブランディングを専門とする。「to create a Real LIFE 敏腕マーケターが示唆するこれからの真の生き方とは」「Life is a Journey」「食と文化の交差点 ガストロノミーへの飽くなき情熱」などのメディア掲載・連載を通じて真のラグジュアリーとは「所有」ではなく「体験」であり、その体験に宿る物語こそがブランド価値の源泉である――という信念のもと、富裕層マーケティングの新境地を開拓し続けている。主要著書に『予測感性マーケティング』(幻冬舎)、『アフターコロナ時代のトラベルトランスフォーメーション』(ゴマブックス)、『GRAND MICHELIN ミシュラン調査員のことば[特別編集版]』(アンドエト)がある。個人サイト

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(価値共創プロデューサー、ディープルート 代表取締役 西田 理一郎)
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